MENU
アーカイブ

「三度目の殺人」三度目は誰が誰を殺したのか?

タップできる目次

本エントリーからの盗用その他コンテンツ全般に対する不適切な行為が認められたときは、サイトポリシーに従い厳正に対処する場合があります。

ありふれた裁判もありふれた殺人もこの世には決してない

\今すぐチェック/
Amazonで探す ▷

2017年に公開された本作は是枝裕和監督による法定サスペンスとなります。

「そして父になる」の福山雅治、「海街diary」の広瀬すずの共演も話題となった作品です。

言うまでもなく、役所広司の存在感は今回も圧倒的でした。

\今すぐチェック/
Amazonで探す ▷

以下、三度目の殺人の意味を中心に書き記します。

内容に言及しますので、あらかじめご了承ください。

ストーリー

出典:公式サイトより

殺人の前科がある三隅(役所広司)の弁護を仕方なく担当することになった重盛(福山雅治)は、裁判官を父親に持ち、裁判に対しては一貫してクールなスタンスを崩さない、勝ち負けにこだわる弁護士。現在、自身の離婚を進めている最中であり、十代の娘とも微妙な関係にある。

解雇された工場の社長を殺害した容疑で起訴(強盗殺人)された三隅は犯行を自供しているために、求刑通りの死刑が確実視されているが、重盛は法定戦術を駆使し、無期懲役に持ち込む戦いを目論んでいる。

三隅との面会を重ねれば重ねるほど、彼が犯人である確信が揺らいでいき、重盛は独自の調査の結果、被害者の娘である咲江(広瀬すず)と三隅の意外な接点にたどり着いてしまう。

出典:公式サイトより

一貫して、家族のかたちを主題化してきた是枝監督は、今回もその変奏として「壊れた家族」を扱っています。

しかしながら、本作のテーマは「家族」ではありません。

通低音のように「家族のかたち」は鳴っているのですが、正面から問われてはいません。

取り上げられているのは、ある種の「聖性」です。

空っぽの殺人者

出典:公式サイトより

本作において殺人を犯すのは三隅です。

二度、他人の命を奪ったことが言及されています。

ゆえに、

三度目の殺人も三隅の手で下されるとする(はず)解釈が一般的には成立しなければなりません。

しかしながら、三隅が三度目の殺人を犯すシーンは一切ないのです。

パドー

どういうことでしょうか?

一度目の殺人

出典:公式サイトより

一度目は、30年前に彼の故郷である北海道の留萌(るもい)で起こした「留萌強盗殺人事件」です。

借金取り(2名)の自宅に放火した上での強盗殺人でした。

その時の裁判の裁判長が重盛の父親です。

彼は、当時を回想し、社会状況に鑑み死刑判決を下さなかったと、重盛に吐露します。

重盛は、取り調べを担当した刑事に留萌まで会いにきます。

「個人的な怨恨は感じられず、三隅は空っぽの器のようだった」と担当刑事は当時を振り返ります。

二度目の殺人

出典:公式サイトより

二度目は、裁判中である「工場社長強盗殺人事件」となります。

川原に呼び出した後に、背後からスパナで殴打し殺害します。その後ガソリンをかけ火を付ける残虐さです。

金を盗んでいるために、情状酌量の余地は微塵もありません。

この映像センスには見覚えがあります。黒沢清の「CURE」を容易に連想させます。奇しくも役所広司の主演作でした。

\今すぐチェック/
Amazonで探す ▷

三度目の殺人

出典:公式サイトより

三隅が犯した殺人は先にあげた二度だけです。

それ以外は描かれていません。

パドー

では、なぜタイトルが「三度目の殺人」なのでしょうか。

ここで、あなたは視点を変更する必要があります。

殺人の主体は、三隅ではないのだと。

と、同時に留萌の刑事の言葉を思い出すべきです。

「個人的な怨恨は感じられず、三隅は空っぽの器のようだった」

感応する男

出典:公式サイトより

三隅に対する刑事の人物評定である「空っぽの器」という印象を複数の面会を通じて、重盛も感じます。

彼の供述は二転三転し、どこか心あらずの態度と表情を示すばかりで、自身の立場もわかっていないような落ち着きを終始見せます。

あからさまな嘘が繰り返されるというわけでもなく、逃げ水のように真実への手応えは重盛から離れていくばかりです。

彼の言葉は、彼の内側から発せられているというよりも、彼の体を通り過ぎる風のような頼りなさを帯びています。

ある時、三隅は、言葉よりもこのほうがよく分かると、二人を隔てるガラス越しにお互いの手を合わせようと提案します。

そうすることで、あなたをよく知ることができると口にするのです。

今ここで、重盛が何を考えているのか、当ててみましょうかと言い、手を合わせた後にものの見事に言い当てます。

「お幾つになったんですか、娘さん」

「14です」

このシーンの演出は見事です。言い当てる前に、三隅があざけりを口元に浮かべます。役者、役所広司の凄さがほとばしります。接見の最中に娘のことを頭に浮かべているとはそれでもあなたは弁護人なのかという侮蔑と誰も自分の味方ではないという諦念が鮮明に口元を歪める演技で表現されているのです。「14歳です」と答える重盛の困惑した表情に浮かぶのは、ずばりと言い当てられた気味の悪さとともに、バツの悪さであったことは言うまでもないでしょう。

人知を超えた「感応する力」が端的に表現されています。

他者の心情に共鳴する「器」としての人体であり人格が如実に示されます。

一度目の殺人とは、炭鉱の町の貧しい人たちの心情に感応し、特別の恨みもない借金取り殺しでした。

鬼畜と見紛う、強盗殺人に加えての放火という残忍な行為は、ある意味、私怨に基づかないゆえに、かえってこれほどまでの残虐性が徹底されたと言わざるを得ません。

二度目の殺人の真相についても劇中では断片的な情報しか与えられません。

重盛の考察に従えば、父親から性的虐待を受けていた咲江の事情を知り、彼女と関係を持ってしまった三隅が彼女を助けるために父親を殺害するに至ったとなります。

父親に死んで欲しいと願っていた咲江の心の叫びに重盛が的確に「呼応」してしまったでのでしょう。

「空っぽの器」は、他人の邪心や情念が抵抗なく流れ込んでくる大きな大きな「壺」であるに違いありません。

重盛との何度目かの接見の時に、三隅は「理不尽」に対して激しい憤りを露わにします。自分の両親や妻がなんの落ち度もなく命を奪われ、罪深き自分はこうしてのうのうと生きている神が行う命の選別(気まぐれ)に対して「理不尽さ」を強烈に覚えるのです。彼が持つ「感応力」の強度がうかがえしれると共に「私心=主体」のなさが強調されるシーンとなります。

三度目の殺人はこれから起こる

出典:公式サイトより

極度の感応力を持ち合わせているゆえに、彼は二度殺人を犯します。

これは、言い換えるならば、誰かの殺意のままに自らの手を血で染めてしまうことに他なりません。

三度目も同様でした。

  • 一度目は、借金に喘ぐ貧しき故郷の人たちの代わりに。
  • 二度目は、理不尽な不幸を背負わされている、娘のような存在である咲江の代わりに。
  • 三度目は、弁護人として葛藤する重盛の代わりに。

となります。

出典:公式サイトより

咲江に自らの性的虐待の経緯を証言してもらうことで、三隅の減刑の可能性は飛躍的に高まります。

これが重盛の法定戦術です。

しかしながら、それは同時に咲江のこれからの人生が逆風一色に染まることを意味します。

誰かを救うために誰かが犠牲になります。

法定戦術的に有効である咲江の証言を求める一方で、これからの人生を棒に振るようなマネには加担したくないという思いのなかで、娘を持つ身の重盛は激しく葛藤します。

裁判を勝ち負けと捉えていた彼の価値観は根底から揺さぶられます。

出典:公式サイトより

三隅は、それを見逃しません。

「空っぽの器」に重盛の「本心」が流れ込みます。

彼は、裁判を混乱する方向に故意に持っていってしまいます。

この後に及んで、自分はやっていないと陳述するのです。

心証は決定的に悪化し、言い逃れにしか聞こえない状況が形成されます。

このことにより、咲江の証言機会は失われます。

同時に、咲江の人生がこれ以上は傷つかないであろうことを意味します。

重盛の心に感応した三隅が実行に移した今回の殺人は、自らを死刑に至らしめることでした。

三度目の殺人は、自らが自らの背中を押す、三隅自身の死刑宣告に他なりません。

司法制度に即して執行される殺人(死刑)は、三隅自身が確実に引き金を引いたのです。

三度目に関連する三隅の一連の行動は、重盛の心に感応するまでもなく、咲江のことを思っての三隅の周到かつ自発的な行為との解釈が成り立つかもしれません。忘れてならないのは、彼が「空っぽな器」であるというその存在性です。彼に意思はありますが、その行動は彼の意思に基づきません。感応して行動する彼の生のあり方をあなたは忘れるべきではないでしょう。

聖性を帯びる存在

出典:公式サイトより

欲望にまみれた獣のような重罪犯というキャラクターであれば、役所広司はキャスティングされていないはずです。

人の金を奪い、人の命を奪い、火を放ち、娘のような存在と関係を持ってしまう重盛は、野獣というよりも、人知を超えた存在として描かれています。

自分というものがなく、空っぽである彼の定形のなさは、ある種のスケールの大きさと無限の奥行きを感じさせます。

人に感応し、人の願いを倫理を踏み越えて実現してしまう、その振る舞いにあなたも見覚えがあるはずでしょう。

キリストです。

人間の原罪を一身に背負い、天に召される、神と人の間の存在。

彼が、罰せられるべき対象を火炙る行為は、すなわち自分自身も業火に焼き尽くされることを意味するに違いありません。

人を焼くことは自分が焼かれることと同義となります。

彼が好物のピーナツバターを塗りながらコッペパンを口一杯にほうばるショットにおいて、「イノセンス」がスクリーン上に溢れかえる様にあなたは瞠目するはずです。

パンのみに生きるにあらずとパンのみに生きる矛盾が顔面を覆い尽くしている様が飛び散っています。

あからさまに、これみよがしにスクリーンを横切る「十字形」が何よりも、三隅が聖性を帯びた存在であることを示唆しています。

判決が下ったのち、重盛が見上げる空の電線の十字の形。

住宅街に交差する道路、交差の真ん中に佇む重盛を俯瞰する映像が捉えるのは、道路が作る十字の形。

三隅の選択が自らの罪の清算なのか、殉教的精神の発露であったのかが、宙吊りとなったまま、重盛は立ち往生してしまっています。

家族のかたちにこだわり続けた映像作家は、本作において「聖なる存在」をモチーフとして1本を撮りあげました。

このような試みを経て、聖なる家族と言っても過言ではない「万引き家族」へとモチーフが結晶したことは、あなたの方がよくご存じであるはずです。

\今すぐチェック/
Amazonで探す ▷

重盛が夢の中で見た光景である雪の中での三隅、咲江との交流の場面において、三隅と咲江が十字架の形に寝転び、重盛だけが大の字を形作っているのにはもちろん意味があります。彼はまだその時には、感応とは無縁であり、罪に加担していないことが明瞭に表現されているためです。この後、重盛が十字架の形に寝転ぶことになるとは彼自身、想像もつかなかったことでしょう。

\今すぐチェック/
Amazonで探す ▷
Please share!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

✒︎ writer (書き手)

人事屋パドーのアバター 人事屋パドー レビューブロガー

本サイト「シンキング・パドー」の管理人、人事屋パドーです。
非常に感銘を受けた・印象鮮烈・これは敵わないという作品製品についてのコメントが大半となります。感覚や感情を可能な限り分析・説明的に文字に変換することを目指しています。
書くという行為それ自体が私にとっての「考える」であり、その過程において新たな「発見」があればいいなと毎度願っております。

タップできる目次