TVアニメ「ピンポン」は原作に対するとびきり優れた解釈だったのです!

漫画「ピンポン」は言わずと知れた名作です。
本作品が持つ豊穣さをTVアニメ版は見事に継承しています。
それどころか新しい解釈を施し、見る者により深く作品を理解させることに成功しているのです。
才能にとって大事なことは「愛」であることを見事に切り取り、あなたの前に差し出しました。
原作は松本大洋氏の1996−7年の漫画となります。
2002年に映画化され、TVアニメは2014年に放映されました。
実は、原作や映画を見てある程度わかったつもりになっていました。
今回TVアニメを見終えて、考えさせられるところがたくさんあったのです。
新キャラクターを登場させ、原作特有の詩的表現を私たちにもとてもわかりやすく論理的に構成し直しています。

なので、ある意味スッキリとストンと腑に落ちました。
シリーズを通じて非常に優れた解釈がなされていたのです。
優れた解釈は一段高い理解へと確実にあなたを連れていってくれるでしょう。
以下、作品「ピンポン」をすでに知っていることを前提にして書き進めていきます。
TVアニメの各話のタイトル

シリーズ全11話のタイトルは次の通りとなります。
- 風の音がジャマをしている
- スマイルはロボット
- 卓球に人生かけるなんて気味が悪い
- 絶対に負けない唯一の方法は闘わないことだ
- どこで間違えた?
- おまえ誰より卓球好きじゃんよ!!
- イエスマイコーチ
- ヒーロー見参
- 少し泣く
- ヒーローなのだろうが!!
- 血は鉄の味がする

アニメでは「血は鉄の味がする」というセリフが頻出します。見るものを一足飛びに子供時代に連れ去るマジックワードのひとつです。実はこの言葉は別の意味も帯びています。鉄面皮であり鉄製のロボットのようなスマイルに対してペコがしきりに口にすることに注目しましょう。スマイルをロボットと冷かす周りの学童どもの体の中には人間の証明として赤い血が流れています。その人間を人間たらしめる血は鉄の味がするのです。このことにより人間とロボットの境界が融解していることが語られています。つまり、「スマイル、お前はロボットとして孤立する理由などないのだ」とメッセージが放たれていると理解できるのです。作者の視線はどこまでも優しさに満ち溢れています。
才能の物語


この作品は才能をめぐる物語です。
・才能ある者の憂鬱・不幸・恐怖・栄光・悲嘆。
・才能なき者の苦悩・諦念・挫折・悲惨・逃避。
このアニメを見るまで次のような解釈をしていました。
才能ある者同士の優劣が決するときは、人生を賭して向き合っている対象を楽しんでいる者が頭一つ抜けることができる
好きこそものの上手なれなんだよ、と。
楽しんだ者勝ちなのだよ、と。
どうやら違っていたようです。
精魂傾ける対象を愛する者だけが才能の神様に愛される資格を得る

愛がテーマだったのです。
主人公のペコと田村卓球場のオババだけが「愛している」を口にしていることの意味を完全に取り逃がしていました。
3人の才能ある者ども
この物語は3人の主人公に託して、才能の現れ方を3つの様態(スタイル)で示しています。
- スマイル(月本誠 )
- ドラゴン(風間竜一)
- ペコ(星野裕)
つまり、
- 負けないこと
- 勝ち続けること
- 第三の道
という3つの在り方(スタイル)です。

3人とも選ばれた人間であるゆえに無類の強さを見せつけます。
スマイルは負けることに無痛であるという強さを持しています。
負けることに対する恐怖や不安とは絶対的に無縁なのです。
彼と戦う相手はマシーンを前にした絶望感からことごとく自滅していきます。
ドラゴンは勝つことを宿命と信じ込む強さを持っています。
試合前の緊張や不安から便所に一人閉じこもる精神統一を高める儀式もなにか毎度のルーティンの一環のようです。
圧倒的な練習量を厭わず、人生のすべてを犠牲にして勝利に捧げてしまう卓球の権化です。
どちらもある意味、勝負にこだわっています。
勝負という磁場から自由ではありません。
ドラゴンは常勝に執着し、スマイルは不敗を追求するのです。
卓球は英語表記では御存知の通りPing-pongとなります。日本語でピンポンと言うとなにか遊戯的な要素が強くなり、軽いイメージとなりがちです。本作はニュアンスが少しばかり異なります。求道的な意味が込められていながら、自由の意味合いが滲んでいます。そのような軽快さが「卓球」ではなく「ピンポン」が選ばれたことによって表現されているのでしょう。
決定的な違いとは
では星野の強さはどこにあるのでしょうか?
星野(ペコ)の強さはピンポンを愛しぬけるところにあります。

ピンポンを愛していることを自覚したとき、彼の中の才能のリミッターは限定解除されます。
好きだから強くなり、勝つからますます好きになったという才能の浪費や拡散の時代を経て、星野は愛に目覚めます。
ドラゴンにとって卓球は苦痛以外の何物でもありません。
自分の家族の地位や自分自身の存在証明のために卓球を利用しているだけです。
そこにはもちろん「愛」はありません。
スマイルにとって卓球は星野が好きだから選択したという代替可能物に過ぎません。
虚無的な性格を有する者にとっては暇つぶしの最たるものでしかないのです。
そこにももちろん「愛」はありません。
彼ら二人にあるのは一種の自己愛だけなのです。
そこには「愛」は不在です。
端的に言えば、彼らにとっては「卓球」でなくてもいいのでしょう。
「愛」の対象となるヒーローを心の底から待ち望んでいるからです。
ピンポンそれ自体ではなくヒーローを待ち続けています。
スマイルが「待ち続けている」ことは物語の構成上不可欠な要素なので、ここは誰もが容易に理解することができるでしょう。

ドラゴンもそうであると明示したのはTVアニメのこの作品だけです。
これにより、愛というテーマの見通しが非常にすっきりと見渡せるようになりました。
優れた解釈の所以です。
彼らには愛しぬく対象としての「ピンポン」をいまだ見つけることができていません。
ペコは違います。
ペコはピンポンでないとダメなんです。
ピンポンでなければ「愛」は成立しないのです。
この違いは決定的です。
才能の世界において別次元に飛ぶためには愛が不可欠なのだ
TVアニメ「ピンポン」ははっきりと教えてくれます。
何のために、誰のために
「なんのために(誰のために)卓球をやっているのか?」
決定的な場面で、少なくない人物が問いを投げかけます。
他人に対しても、自分自身に対しても。
- 自分のために
- チームのために
- 勝利のために
- 貧乏から抜け出すために
- 認められたいために
- 国のために
- 名誉のために
言うまでもなく正解などありません。
これらの答えのなかには星野の答えは見当たりません。
ピンポンの申し子は、
「何のため」にもやっていません。
「誰のため」にもやっていません。

ただ愛しているから、やり続けているだけなのです。
才能があろうがなかろうが、
凡庸な人間が陥ってしまう「場所」とペコだけが無縁なのです。
ゆえに才能の神様に愛されます。
ゆえに勝利の女神が微笑むのです。
無媒介的に対象に愛を注ぎ込むことのできうる者だけに、才能の扉は次から次に開いていくのでしょう。
このような視点であらためて各話のタイトルを眺めてみてください。
緻密にシリーズを構成したスタッフの叡智が見て取れるはずです。
機会があれば、是非じっくりと御覧ください。

本当の傑作です。

