この小説のキーワードは蛇と猫。もちろんどちらも象徴的存在。
「女のいない男たち」が電子版で出版されたので、以前に紙の本で読んでいたこの短編集を久しぶりに読み返しました。
傑作はいつ読んでも傑作です
固定的なファンが多い本作について、少し変わった読み方を試みたいと考えます。
以下、内容に言及しますので、あらかじめご了承下さい。
神話的世界
本作は神話世界を舞台にしている小説と言えます。
差し当たり、物語の基礎的条件について簡単に説明しておきます。
水辺とは、あの世とこの世の境界を象徴している場所として広く認識されています。
柳の木はそのような水辺に生える植物(樹木)です。
ゆえに、あの世とこの世を想起させる植物であると言われています。
「矢の木」とも呼ばれ、その形状から、蛇が容易に連想され、両者は古くから結びついているそうです。
蛇は基本的に邪悪の象徴であると理解されている生き物です。
と同時に、小説中に記載されているように、両義的意味合いを強く持つ存在なのでしょう。
本作の舞台となる店は、
そもそも主人公の伯母が喫茶店としてはじめた物件を主人公が水商売のバーに店舗替えを行ったものであることをあなたは直ちに思い出すべきでしょう。
いずれも水に関わることは自明であるはずです。
小説の設定として、両義的(善悪)な世界(舞台)がお膳立てされています。
この両義的な世界がかろうじて、善の側に傾いていたのは、猫がこの店に住みついていたからに他なりません。
村上の描く世界における「猫」の重要性があなたの頭には浮かんでいるはずでしょう。
間違ってはならないのは、
主人公のいる世界が善から悪に移行したという解釈は成立しないということです。
そうではなく、
「どちらに振れてもおかしくないこの両義的世界」に主人公は生きざるを得ないということを作者はただ強調したいだけなのでしょう。
バランスを司る猫的存在
猫とはこの場合、善と悪のバランスをとる「オモリ」であったはずです。
この猫が不在となることで、バランスは崩れ、悪の側に世界は傾いてしまいます。
それが、両義的世界の特徴であり、われわれのこの世界の「素顔(深層)」であるといえます。
傾斜することで主人公の木野は、今まで無自覚であった真相(深層)に気付かされるはめに陥ります。
ここで言うバランスが崩れるとは、次のような移行を指します。
「正しいことを行う」と「正しいことを行わない」に決定的な差異がある相から、「正しくないことを行う」と「正しいことを行わない」にそれほど特徴的な差異がない相に、世界が移行してしまう。
決定的な差がある
- 正しいことを行う
- 正しいことを行わない
ほとんど差がない
- 正しくないことを行う
- 正しいことを行わない
これが、両義的な世界の恐ろしさなのです。
正しいことを行わないことが罪となる世界。
規範的な厳密さに満ち満ちた世界。
これがユダヤ=キリスト教的世界観であることは言うまでもありません。
神田という存在
本作において極めて魅力的でありミステリアスな人物である神田。
舞台が両義的な世界であるのならば、
神田(かみた)とは何者かという質問にすこしだけ答えることが可能となります。
神の田とは、神の土地(世界)にいる(存在する)ということを意味します。
神そのものではないことに注意して下さい。
神田は、主人公を救うことができないし、そうはしません。
ただ、助言を、予言を、するだけなのです。
ということは、神ではない存在で、神の世界の住人。あなたも思いつくはずです。
つまり、天使に他なりません。
天使の役割
天使といえば、直ちに思い出されるのは、映画監督ヴィム・ヴェンダースの傑作「ベルリン天使の詩」でしょうか。
この映画に出てくる天使はただ「見守る」だけなのです。
どうあっても何らの手出しをしない。
出せないと同時に出さない。
この小説の「天使」も限定的な関わりしかできないところは、同様の設定となっていると言えるでしょう。
雨は降っているし、同時に降ってはいない
この小説において、
邪悪なものからの守り神的存在であった柳の木は、バランスの崩壊とともに蛇を産出したとはいえないでしょうか。
蛇は決して柳の木と対峙するものではなく、何かの作用でそれは容易に変容してしまうものなのです。
それこそがわれわれの世界である、この世界の両義的特質であるはずです。
このことを示唆する記述が、魅力的な登場人物のひとりである常連客の神田の登場の場面に明確にみてとれます。
雨も降ってもいないのに、また降り出しそうな気配もないのに、丈の長い灰色のレインコートを着ていた。
両義的な世界においては、雨はいつも降っているし、常に降っていないのです。
あなたは「シュレーディンガーの猫」を思い出すかもしれません。
「猫が生きている世界」と「猫が死んでいる世界」は確かに共存するのです。
微視的に見るのならば、生命はあるとも言えるしないとも言える、そう言わざるを得ないのでしょう。
神田は警告する
次の長い雨が降り出す前にここを離れるように、と神田は警告します。
長雨により、その両義性は悪へと急勾配を下るはずです。
この雨のエピソードは、神話的世界でおなじみの「ノアの方舟の伝説」と地続きであるのでしょう。
神話的連関が、小説内のそこここに散りばめられています。
木野とは、神田との比較において、お分かりのように、人間世界を指します。
つまり、われわれのこの世界そのものであるのです。
世界と我々
木野という名の男は自分の店の名を木野と名付けました。
名付けたその瞬間に、その場所は自らと一体化してしまっています。
ゆえに、どこに行こうと木野(人間)は木野(世界)から逃げ切ることなどできはしません。
言い換えるならば、
世界は両義的であると同時に我々自身も両義的存在であるという結論の確認を村上は強いるのです。
主人公の部屋を、主人公の心を、誰(何)がノックをしているのかは、実はそれほど問題ではありません。
ノックから逃れることができない小説的事実のほうがむしろ重要なのです。
そのことだけがここでは表現されているに違いありません。
絵葉書を投函する
主人公は、天使(神田)との「約束」を破り、絵葉書に心の裡を書き込んでしまい、投函します。
その「約束」とは、何も書かずに叔母に絵葉書を送付することでありました。
何も書かない。書いてはいけない。
これではコミュニケーションツールの機能が果たされていません。
つまり、
対話を予め禁じられているということが意味されているのです。
ユダヤ=キリスト教的世界観がここにも徹底されているとは言えないでしょうか。
約束を破ってしまう木野を、蛇に唆され、林檎をかじるアダムに二重写しにすることは、それほど難しくはないはずです。
叔母の存在
ここまできて、思い出されるのは、
神田が主人公の叔母に頼まれて主人公の身に悪いことが起こらないように目を配ってほしいという「セリフ」です。
この神田と叔母との関係性を延長すると、叔母は「神」という結論に自ずと達します。
であるならば、
「木野」を収録するこの短編集のタイトル「女のいない男たち」は次のように読み替えられるべきでしょう。
「女(神)のいない男(人間)たち」
神のいない世界はバランスを欠く、柳の枝が蛇であり、蛇が柳の枝である世界にほかなりません。
両義性だけが意味を持つあるいは意味を持たない世界。
シェイクスピアの魔女であれば、きれいはきたない、きたないはきれいと言うでしょう。
そう、
木野はわれわれ自身であり、われわれこそが木野であるのです。
この小説の読後感が、奇妙な親密さと違和感を同時にもたらすのは、多分そのせいであるのでしょう。
豊穣なる物語
すべての物語は神話構造をその母とするはずです。
すぐれたストーリーは多義的な解釈をいとも簡単に可能とします。
以上、雑駁ですが神話的観点より小説を解釈してみました。
あなたの解釈をいつかお教えください。