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「ねじまき鳥クロニクル」取り戻しをめぐる奇妙な年代記

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作家村上春樹にとっての転換点となる記念碑的長編小説

「ねじまき鳥クロニクル」は三部構成の長編小説となります。

  • 第一部 泥棒かささぎ編
  • 第二部 予告する鳥編
  • 第三部 鳥刺し男編

第一部と第二部が1994年に、その後第三部が1995年に出版されています。

作家自身の言葉によれば、当初は第二部までで完結する予定であったようです。

なぜ、第三部が書かれたのかの経緯も真相も不明です。

第二部が発表された当時の世間の評価が、中途半端感が否めないという好意的でない評価であったことを思い出すのならば、ある種の外圧があったと邪推したくもなります。

いわゆる文学的な尻切れ感が、第三部を加えることにより物語的な完結性を強固にしたのですから、作品の完成度的には「正解」であるのでしょう。

同時に、第三部には明瞭に村上の「転換」が示されています。

心理学者の河合隼雄との対談において村上は自ら次のように言っています。

これまでの僕の小説は、何かを求めるけれども、最後に求めるものが消えてしまうという一種の聖杯伝説という形をとることが多かったのです。ところが、『ねじまき鳥クロニクル』では「取り戻す」ということが、すごく大事なことになっていくのですね。これはぼく自身にとって変化だと思うんです。

つまり、第二部までであったのなら、従来通りの文学的喪失(消失)に留まっていたであろうものが、第三部では「取り戻す」という積極的なコミットメントが作家のなかで主題化したのでしょう。

文字通り、大きな「転換」がなされました。

以下に、「取り戻し」に触れながら、本作について思いついたことを書き記します。内容に言及しますのであらかじめご了承ください。

あらすじ

法律事務所を退職し、次の仕事が見つかるまで主夫業に専念している岡田トオルは、雑誌編集者として働く妻のクミコとそれなりに結婚生活を送っている。ある日、飼い猫の姿が見えなくなり、そのことにより平凡な日常に亀裂が入り、彼の生活のバランスが少しづつ崩れていく。その後、クミコが突然目の前から消えてしまい、奇妙な人々がトオルの前に次から次へと現れ、彼を取り巻く状況は徐々に姿を変えていってしまう。やがて、クミコの失踪には彼女の兄である綿谷ノボルが関係していることがわかる。

本作は、ある種の「宗教小説」です。

悪、奇蹟、希望、恩寵が過不足なく語られています。

村上がここで追求したのは、小説的な整合性ではもちろんなく、文学的想像力に他なりません。

したがって、小説を構成する合理の矛盾に対する指摘の全ては無効化せざるを得ないのでしょう。

パソコンの中に保管されている「ねじまき鳥クロニクル」の作者は赤坂シナモンですが、この視点を軸とするならば、岡田トオルを取り巻く「現実的な」事態とは、シナモンの創作であると言えます。母親が息子のシナモンを評した彼は全てを見通しているという評価からあなたは直ちに神を想起できるはずです。ねじまき鳥の鳴き声とパソコンから出ているお知らせ音は呼応関係にあるのです。

取り戻そうとする人

作者の明言の通りこの長編小説の主題は「取り戻すこと」です。

登場人物の誰もが取り戻そうと試み、その過程の途上のものもいれば、すっかり諦めてしまったものや、受け入れざるを得ないものが描かれています。

加納クレタ

加納クレタは、綿谷ノボルに存在論的に汚されてしまった過去を持ちます。一時的に以前の自分に戻ることができなかったのですが、今はほぼ回復した状態にあリ、自らの進む道を理解しだします。

笠原メイ

笠原メイは、若気の至りにより、ボーイフレンドを事故で死なせてしまい、その罪をきちんと自分の中で受け止め切れない状態のまま、ある種の精神のリハビリ状態にあると言えます。彼女は、ボーイフレンドが象徴する青春の手放しの輝きを再び手にすることはないのでしょう。

笠原メイの小説中の立ち位置はとても不可思議です。狂言回しでもないし、エピソードのひとつとして片付けるのも何か違う気がします。もうひとりのクミコ(それは同時にもうひとりの加納クレタを意味する)と言えるのかもしれません。私の考えでは、岡田トオルとクミコとの間に生まれるであろう子供と理解します。岡田の言葉でいえば「コルシカ」となります。生まれ変わりではなく、時間軸を無視した先取られた「子供」と思えるのです。

間宮徳太郎(中尉)

間宮徳太郎は、戦争の最中、大陸の枯れ井戸に投げ捨てられた時に、彼の生の輝きを奪い取られます。その後の彼は生物学的には死んではいないのですが、人生としての「死後」を生き続けています。

井戸を抜けた世界で岡田トオルを援助する(味方する)顔のない男とは、その世界における間宮に違いありません。彼は自らを「私は虚ろな人間です」と表明していることから明らかでしょう。岡田トオルは、加納クレタが子供を産んで間宮中尉と広島の山の中でひっそりと暮らす夢をみます。これは何もかも捨ててクレタ島に行っていた仮定におけるその後の岡田自身の「可能性」を端的に示しています。この意味から考えると、顔のない男に助けられたとの記述は自分で自分を助けた、すなわち孤立戦が表現されているのだと理解できます。

赤坂ナツメグ

赤坂ナツメグは、他殺された夫のむごたらしい死を目の当たりにし、人生の不可解をあたらめて思い出します。一度目は彼女が大陸から引き上げる際の米軍潜水艦との遭遇です。そこで彼女は死の恐怖を超えた理不尽を体験します。彼女もある意味、間宮と同類の「死後」を生きているのでしょう。

そして私の人生というのはそのような物事を通過させるための、ただの都合のいい通り道に過ぎなかったんじゃないのかって

赤坂シナモン

赤坂シナモンは、幼少の頃の夢と現実のあわいのなかで声を奪われます。そのことにより彼の人生は塵ひとつないクリーンルームのような自閉空間から出ることはありません。それが幸せなことかそうでないのかが彼自身も決してわからないのです。

クミコ

クミコは綿谷家の呪われた「血」に苦しみながら生きてきました。死んだ姉と同じような運命をたどることの恐怖と戦いながら、懸命に人生を送ってきましたが、兄の力に取り込まれ、自失の過程を辿っています。夫であるトオルの行動により、自分自身を取り戻すきっかけを得ます。彼女は重篤な状態にある兄の安全装置を外し、兄を死に至らしめる決断をし、実行します。刑期を終えて彼女が彼女自身を「取り戻す」ことができるのかどうかは誰にもわかりません。

そんなに簡単に話は済むのでしょうか。それでは本当の私とはいったいどの私なのでしょう。

綿谷ノボル

綿谷ノボルは、血の呪いからか「邪悪なもの」を抱えながら、ほとんど邪悪なものと同一化しながら、世間的な影響力を拡大していきます。その邪悪なものの成長あるいは制御にとって不可欠であるのがクミコという存在なのでしょう。結婚し、一度彼の元を離れた彼女を彼は再び取り戻そうと状況を整えます。しかしながら、天敵である義弟の岡田トオルに最後は阻まれてしまうのです。

話の筋ははっきりしている。それは君が僕の側の世界から、綿谷ノボルの側の世界に移ったということだ。

岡田トオル

岡田トオルは、もともと彼の中にあった資質をさまざまな人たちとの出会いや偶然の作用によって、開眼させます。その力により、綿谷ノボルを綿谷ノボルたらしめている「邪悪なもの」に対して致命傷を与えることに成功します。それは、クミコを取り戻すために避けては通れないものですが、必ずしもハッピーエンドをもたらすとは誰にも「予言」はできないのでしょう。

僕は基本的に、普通に生きていればいろんなことは適当にうまくいくはずだと思っていたような気がする。でも結局のところそんなにうまくはいかなかったみたいだね。残念ながら

邪悪なものの姿形

本作において、綿谷ノボルは「邪悪なもの」、悪の象徴的存在として描かれています。

小説内では、それが大衆を扇動する権力性に結びつく可能性も示唆されています。

おそらく、この「邪悪なもの」とは村上の「羊をめぐる冒険」に描かれていた「羊」と大差ないものなのでしょう。

人智を超えて人々の生の根源を支える「大きな力」です。

「羊をめぐる冒険」においては、乗っ取られつつある個体である「鼠」が自らの命と引き換えに共倒れに持ち込む、自爆的な決着がつけられました。

しかしながら、本作においては、形の上では岡田トオルの手(暴力)により瀕死に追い込まれ、現実的にクミコの手によって息の根を止められます。

僕は本当はあの男の息の根をとめなくてはならなかったのだ。

綿谷ノボルの姿形を借りている「邪悪なもの」と観念上の時空において岡田トオルは戦うことになり、もちろんその「部屋」にはクミコと思しき「存在」がその存在性を濃厚にしています。

バットで致命傷を与えた岡田トオルが「邪悪なもの」の正体を見定めようとする時、クミコととりあえずみなせる女性は絶対に灯りをつけて、姿をみないように強く懇願(命令)します。

「お願い、やめて!」と彼女がもう一度大きな声で叫んだ。「私を連れて帰りたいのなら、見ないで!」

彼女の言葉に従い、検分することを岡田は放棄します。

ここで、想像が働くはずです。

パドー

なぜ、彼女は見ないでと強く言い放ったのかと。

私の仮説は、その姿が綿谷ノボルと彼女との融合している形状をなしているからだと考えます。

兄にはそのような力があるし、また認めたくはないけれど、私たち二人はどこか暗い場所で結びついていたのでしょう。

そのようなおぞましき姿を愛したことのある人の前に晒すことは、やはりできなかったはずです。

もちろん、これは観念上の融合であり、精神的な癒着に他なりません。

私は自分というものをそれほど確信することができませんでしたし、今でもまだできないのです。

実生活上は身体の自由は保証されているものの、観念の牢獄(精神の檻)からは決して出ることのできない幽閉的な生を強いられることは、人生を生きることとは程遠い状態です。

これこそが「汚された」ことの正体なのでしょう。

正確にいえば肉体的に汚したわけではありません。でも彼はそれ以上に私たちを汚したのです。

そのことにより、クミコの姉は自殺をし、加納クレタは姉マルタの力を借りながら、仮初の生還を果たすのです。

井戸に降りる

村上は、傍観する態度から能動的に働きかけることへと小説的シフトチェンジを試みました。

パドー

この差は決定的です。

文学的想像力に対する価値変換が起こったのでしょう。

忘れてならないのは、主人公の岡田トオルが自己変革を行う際にとった唯一の方法が井戸の底に降りたという事実です。

井戸の底に降りるとは、言うまでもなく、内省を徹底することに他ならないのです。

ロシア人の軍人ボリスが間宮中尉に教え聞かせた「何かを想像しないことだ」という忠告は、ファシズムの基本原理(このひとつの現れが綿谷ノボルの洗練された大衆扇動)のようなものなのでしょう。自分の頭でいちいち考えずに、大きな力に身を委ねることこそ人生の秘訣(生き残るための術)であると言わんばかりのこの危険な「金言」に、岡田は抗います。その抗いが井戸に降りる(内省の徹底)ことだったのです。

これは徹頭徹尾、ゲリラ戦であり、孤立無援の闘いに他なりません。

自己洞察は深い竪穴の洞窟のような「暗い場所」でなされなければならなかったのでしょう。

でもあなたは自分自身を救うことはできなかった。そしてほかの誰も、あなたを救うことはできなかった。

かつて自分の元にあった喜ばしきものを取り戻すために、一旦、自分に向き合ったその態度は、先行きの不透明感が濃霧のように濃い現代の我々にとって、実に示唆的であり教訓的な態度であり、方法論であるに違いありません。

僕には賭ける側を選べないからだよ

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