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村上春樹「一人称単数」世界市民としての倫理的責任性

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グローバル社会に生きる我々の生のあり方

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村上春樹氏の短編作品集としては6年ぶりの新刊となる「一人称単数」が今月刊行されました。

2018-20年に文芸誌(文學界)に発表された短編を中心に、書き下ろしとなるタイトル作品である「一人称単数」を加えた8作品が収録されています。

ラインナップは次の通りです。

  1. 石のまくらに
  2. クリーム
  3. チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ
  4. ウィズ・ザ ・ビートルズ
  5. 「ヤクルト・スワローズ詩集」
  6. 謝肉祭(Carnaval)
  7. 品川猿の告白
  8. 一人称単数

いずれの作品も村上自身と思しき人物の体験をベースにした小説の構成となっています。

以下に、タイトル作品である「一人称単数」について思うところを書き記します。内容に言及しますので、あらかじめご了承ください。

パドー

少なくとも「一人称単数」は寓話として捉えることが適切であると思われる作品。

本作のタイトル「一人称単数」は、村上が敬愛するアメリカの作家ジョン・アップダイクが1965年に上梓した自伝的エセー「Assorted prose(一人称単数)」から借用したものと思われます。

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ストーリー

主人公の男性(村上と思しき人物)は夕食を済ませひとり自宅でくつろいでいる。今一つ読書にも音楽鑑賞にも集中できないために、洒落たスーツを着込み、気分転換に街へと出かけることにした。少し足を伸ばし、知らないバーでグラスを傾け、小説の続きを読んでいると、見知らぬ中年女性に声をかけられる。彼女は悪意と敵意を剥き出しにし、彼に対して言いがかりのような非難を一方的に投げつける。トラブルを避けるために、困惑気味に席を立ち外に出ると、バーに潜り込む前と街の雰囲気は一変しており、非親和的な空間と化していた。

パドー

一読すると、不条理のただ中に唐突に突き落とされた人間の戸惑い、あるいは人生の言われなき理不尽さが描かれている小説との解釈も成立します。しかしながら、本作のテーマは別のところにありそうです。

一抹の後ろめたさを含んだ違和感

主人公の男は、普段スーツを着る機会の少ない人物です。

時々、気まぐれに買った上品なスーツを取り出して着込み、ネクタイを結びます。

密やかな楽しみとして、スーツを着て街に出かけ、彼の「日常」から離れた新鮮な感覚を味わいます。

それはほんの一時間ばかりの害のないー少なくとも私にとってはとくに罪悪感を抱く必要のないー秘密の儀式なのだ。

ある日、それまでのようにスーツを身につけ、鏡の前に立った時、男は普段と違った感情に襲われます。

しかしその日、私が鏡の前に立って感じたのはなぜか、一抹の後ろめたさを含んだ違和感のようなものだった。後ろめたさ?どのように表現すればいいのだろう・・・

男はその違和感を次の3つの異なる表現で説明しようと試みます。

  • 自分の経歴を粉飾して生きている人が感じるであろう罪悪感に似ているかもしれない
  • 法律には抵触していないにせよ、倫理的課題を含んだ詐称だ
  • こんなことをしていてはいけない、結局はろくなことにならないと思いつつも、やめることができない、そういう類いの行為がもたらす居心地の悪さだ

これらの表現が意味するところは、ルールに従い、誠実に生活を営んでいるにも関わらず、あるいはそれだからこそ感じざるを得ない「罪」の意識をなぜ自分は感じてしまうのだろうかという大いなる当惑です。

後ろ指をさされる要素は何ひとつないはずだ。なのにどうしてそのような罪悪感、ないし倫理的違和感を抱かなくてはならないのだろう?

パドー

この当惑(罪悪感・違和感)はどこから生まれてくるのでしょうか?

微妙なずれの意識

男はケチのつけようのないバーでひとりグラスを傾けながら本のページをめくっているにも関わらず、尻の座りの悪さを感じています。

その原因は、自身が先ほどから感じ続けている漠然とした違和感に他なりません。

そこには微妙なずれの意識があった。自分というコンテントが、今ある容れ物にうまく合っていない、あるいはそこにあるべき整合性が、どこかの時点で損なわれてしまったという感覚だ。

この意識のずれは、男が座る正面の鏡の中に自らの姿を認めるときに、ますます強まっていきます。

見れば見るほどそれは私自身ではなく、見覚えのないよその誰かのように思えてきた。しかしそこに映っているのはーもしそれが私自身でないとすればーいったい誰なのだろう?

パドー

一見すると、「自己同一性の脆弱さ」や「存在論的危機」にまとめられてしまいかねないこのような記述は、もちろんそれ以上のことに触れています。

一人称単数

一人称とは、自分(話し手)のことを指す文法用語です。

一人称は、単数の「私」と複数の「私たち」から構成されています。

したがって、一人称単数とは、主体としての「私」を意味します。

小説の中で、男はこれまでの人生の中で多くの選択をしてきたと吐露します。

いくつかの大きな分岐点を主体的(能動的)に、ある時は状況(運命)が選択してきたと表現するのです。

その結果として、現在の自分が構成されているのだと結論づけます。

ここでは確立した「個」が主張されているのですが、不安が最後に口にされる始末です。

そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でもこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう?

パドー

確信に満ちて男が高らかに自分自身を宣言できないのは、一体なぜでしょうか?

グローバル化した世界

男が違和感を持った状況をあらためて整理しましょう。

違和感を感じた(微妙なずれを意識した)のは、日常的反復と少しだけ異なる場面においてです。

  • 普段は滅多に着ない外国製のスーツを身に付ける
  • 鏡に映る自分のスーツ姿を見る

「普段の生活」の延長線上にある日常に触れた時に、彼は気づきます。

その「発見」は、旅行に出かけ、異国の地で非日常に身を浸した場面ではないのです。

ここで注視すべきは、われわれの生活は否応なくグローバル化のもとに営まれているという「リアル」です。

ネクタイもそのスーツに今ひとつ雰囲気がそぐわない。微妙にはじき合っている。そのネクタイはイタリアのもので、スーツはたぶん英国系ね。

産業・経済的にはわれわれは「世界」と地続きであり、ある種、世界市民の一員(資本主義下における包括的同胞)であると言っても過言ではありません。

本エントリーにおける世界市民とは、一般的なコスモポリタニズム(世界市民主義)に賛同する人たちを指すコスモポリタン(世界市民)とは異なる意味を込め使用しています。人間の尊厳における平等性に焦点を当てているわけではなく、政治・経済的な均一化・均質化の地球規模の大波に否応なく飲み込まれ、国や文化の違いを超えて不可避的に同質化を強いられ、期せずして連結(連動)してしまっている単独体というニュアンスとなります。

「でも私はあなたのお友だちの、お友だちなの」とその女は静かな、しかしきっぱりとした声で続けた。

海の向こうの戦争、飢餓、経済格差、貧困問題や環境破壊に対して直接的に「関係」はしていないと断言しながらも、間接的にも関わっていないとはただのひとりも無条件に言い切れないのが現在の我々の立ち位置なのです。

友好的な連帯ではなく、無自覚で無際限な「連結」は、普遍的すぎるが故に誰にも強固な「当たり前」と化し、前景化しています。

「洋服にずいぶん詳しい?」彼女は少し驚いたように言って、唇を軽く開き、私の顔をあらためてまじまじと見た。
「今さら何を言っているの?そんなこと当たり前でしょう」

ここで語られているのは、世界の中のどこにも「対岸の火事」などもはや存在しないというグローバル社会(世界全体)の単純な事実(リアル)なのです。

「現実(リアル)」に首元まで浸かっているのが我々の「日常(リアル)」に他なりません。

世界市民としての倫理的責任性

一人称単数の私は、日々の日常生活圏内に留まる限り、その単独性を疑う機会はほとんどありません。

しかしながら、ひとたび、自らの日常が、政治的・経済的に世界システムの一環として組み入れられていることに(否応なく)気づかされたのならば、一人称単数がスタンドアローンではないことを嫌というほど思い知ります。

そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でもこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう?

自分は自分であるとの確信に人が至るのは、他者を媒介にしている限りにおいてです。

自他の区別には「他」が必要となります。

鏡に映る自分とは、自己でありながらある種の他者であると言えます。

よく見知った、「影」のような「他者」です。

鏡像が、自分に属しているのか、自分以外に属しているのかの確信(リアル)が溶けていきます。

「世界市民」であることの自覚(予感)が期せずしてそうさせるに違いないのです。

バーの鏡のなかに映る自分の姿を紛れもなく私自身だと宣言できないのは、世界で起こっているであろう出来事に対して、全くのイノセントな立場を確保できないからに他なりません。

直接手を下していないことで「有罪」は免れるものの、世界市民として間接的(不可避的)に関わっている限り、「無罪」とは無邪気に言い逃れのできない地点(立場)に私たちは佇んでいます。

当然ながら、そこは楽園でもイノセントワールドでもないのです。

こんなことをしていてはいけない、結局はろくなことにならないと思いつつも、やめることができない、そういう類いの行為がもたらす居心地の悪さだ。

バーで男をなじる女性の言葉はどこまでも象徴的です。

「存じ上げている?いったいどこからそんな言葉が出てくるわけ?」

「失礼ですが、私はあなたのことを存じ上げていましたっけ?」という男の無邪気な疑問に対する彼女の返答が示唆するところは今更言うまでもないでしょう。

世界が一向に良くならないことに対する、あるいはますます悪くなる事態に関して知らないとは言わせない、責任がないとは絶対に言わせないという、世界市民としての倫理的責任性の追求が明らかにここでは果たされようとしているのです。

「あなたのその親しいお友だちは、というかかつて親しかったお友だちは、今ではあなたのことをとても不愉快に思っているし、私も彼女と同じくらいあなたのことを不愉快に思っている。思い当たることはあるはずよ。よくよく考えてごらんなさい。三年前に、どこかの水辺であったことを。そこでご自分がどんなにひどいことを、おぞましいことをなさったかを。恥を知りなさい」

ここで言う「水辺」とはおそらく海岸線を指すのでしょう。海の向こう、すなわち諸外国が示唆されているのです。

一人称複数形ではなく

村上は本作のタイトルを一人称複数(私たち)としませんでした。

なぜなら、「私たち」とした途端に「私」の責任性が黙って消え去ってしまうからです。

「私」を「私」たらしめているのは、倫理的責任性に他なりません。

個が単独的であることと倫理的であることはコインの裏表です。

「恥を知りなさい」とその女は言った。

倫理的責任性を負うとは、

自らに「恥を知りなさい」という言葉を突きつけながら生き続けることに違いないのでしょう。

本作は、村上がエルサレム賞の授賞式で行ったスピーチである「壁と卵」と地続きである小説なのでしょう。個の独立性と孤立性が剥き出しのまま読者の目の前に投げ出されているある種の寓話なのです。

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✒︎ writer (書き手)

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本サイト「シンキング・パドー」の管理人、人事屋パドーです。
非常に感銘を受けた・印象鮮烈・これは敵わないという作品製品についてのコメントが大半となります。感覚や感情を可能な限り分析・説明的に文字に変換することを目指しています。
書くという行為それ自体が私にとっての「考える」であり、その過程において新たな「発見」があればいいなと毎度願っております。

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