MENU
アーカイブ

「めくらやなぎと眠る女」見えているものに関する教訓

タップできる目次

本エントリーからの盗用その他コンテンツ全般に対する不適切な行為が認められたときは、サイトポリシーに従い厳正に対処する場合があります。

傑作短編は二度改変されているらしい

村上春樹氏の短編「めくらやなぎと眠る女」は、1984年に短編集「螢・納屋を焼く・その他の短編」に収録された後、1995年にそのショートバージョンが文芸誌に再録され、1996年に刊行された短編集「レキシントンの幽霊」に再び収録された時に更に短く編集された経緯を持ちます。

「レキシントンの幽霊」に収録されているバージョンは「めくらやなぎと、眠る女」と改題されており、全く別の作品ではあるとは言い切れませんが、その読後感は明らかに異なります。

阪神・淡路大震災後の神戸での朗読会の折に、急遽短く刈り込まれたショートバーションが作られたそうです。

その際に現在の形に整えられていたかどうかは不明ですが、少なくとも村上の中の問題意識は地続きであったはずに違いありません。

彼自身が、ここ(神戸)でこそ、このテキストは意味があるというような趣旨を口にしていますが、ショートバージョンは明瞭に作家の意図を反映した「健康的なテキスト」になっているといえます。

そこには「健全な想像力を働かせて、他者の痛みを思いやらねばならない」とのメッセージが明確に刻みつけられているのです。

しかしながら、

これから取り上げる「めくらやなぎと眠る女」の最初のバージョンは「文学的曖昧模糊さ」を漂わす仕上がりとなっています。

以下に、本バージョンについて考えたことを少しばかり記します。

パドー

内容に言及しますので、あらかじめご了承ください。

あらすじ

東京での仕事を辞め、実家に戻っている「僕」は、中学生の「いとこ」の耳の治療のための通院に付き添うことになる。高校の時に通い慣れている路線バスは7年ぶりに乗車したせいか、どこか違和感を感じざるを得ない。病院で「いとこ」を待つ間、高校生の頃に友人の彼女を見舞った記憶が蘇ってくる。当時、彼女は「めくらやなぎと眠る女」に関する詩を書いていた。それは、めくらやなぎの花粉を脚につけた小さな蠅が彼女の耳に入りこみ、彼女を内側から食いつくす物語であった。

本作でバスが大きく取り上げられていることは象徴的です。バスはマイカーやタクシーのように、行きたいところに向かって最短距離を走りません。決まったルートを規則正しくたどります。融通が効かなく、乗客は従うしかないのです。しかも決められた時間に待っていないと乗り過ごしてしまい、必ずしも時間通りに来るとは限りません。このことからバスに乗るとは人生の隠喩に他ならないと言えるでしょう。思い通りにならない生を歩む「僕」と「いとこ」に相応しい乗り物であるのです。

本作品のテーマとは

本作のテーマは「目に見えるものは、その本質を表徴しているわけでは決してない」というひとつの教訓です。

そのことを端的に示している箇所が「僕」と「いとこ」の映画に関するやり取りのシーンとなります。

「いとこ」は唐突に「僕」に訊ねます。

「ジョン・フォードの「リオ・グランデの砦」っていう映画を観たことがある?」といとこが突然訊ねた。「いや」と僕は言った。

映画の中では、西部の事情をよく知らない将軍が砦にやって来て、ここに来る途中でインディアンを何人か見かけたぞ、注意したほうがいいと、古参の少佐(主役であるジョン・ウェイン)に訳知り顔で忠告します。

それに少佐は次のように答えるのです。

「「大丈夫です、閣下がインディアンを見ることができたというのは、本当はインディアンがいないってことです」ってさ。きちんとした科白は忘れちゃったけど、だいたいそんなだったと思うよ。どういうことかわかる?」

「僕」は、誰の目にも見えることは、本当はそれほどたいしたことではないという常識的で当たり障りのない答えを提示してみせます。

パドー

敵に見つかるような奴ら(部隊)は、全く大したことがない(囮かも知れない)のであり、真の恐るべき敵(部隊)は容易にその姿を捉えることなどできはしないのだということなのでしょう。

それに対して、今ひとつ納得がいかない「いとこ」は次のように言うのです。

「よく意味はわかんないけど、でも耳のことで誰かに同情されるたびに僕はいつも映画のそのシーンを思い出すんだよ。「インディアンを見ることができるというのはインディアンがいないってことです」ってさ」

おそらく「僕」の解釈と「いとこ」の理解は、本質的には変わるところがないのでしょう。

しかしながら、切実さが確実に違っており、そこに差異が生じています。

「いとこ」の場合、それは「切れば血が出る」切実さ(リアル)に違いありません。

耳に欠陥がないんだから、僕の方に欠陥があるんだろうっていうことになるんだ。ずっとそういうのばっかりだったんだよ。それでみんな僕を非難するようになるんだ

「いとこ」の耳が聞こえにくいのは、耳の機能の不調の問題ではなく、精神的な問題であることは、医者を含め周りの誰もが納得している「事実」なのでしょう。

「でも、そう思う?神経的なもので耳が聴こえたり聴こえなくなったりするってさ?」といとこが言った。「僕にはわかんないよ」と僕は言った。「僕にもわかんないよ」といとこは言った。

「僕」がわからないとお茶をにごす答え方をするのは、言うまでもなく「いとこ」に対する同情心であり親切心からです。

これは実のところ「いとこ」の発言にも当てはまると言えます。

彼がおうむ返しに言っていることに注意するならば、周りに対して「結論を出せないでいる中学生」を演じることが最善であることを彼が認識していることがあなたにも理解できるはずでしょう。

彼は周囲が思っている以上に利口です。

難聴が精神の不調(神経症)に起因していることなど「いとこ」本人が絶望的なまでに理解しています。

それは百も承知の「事実」なのです。

インディアンを見ることができる(耳が聞こえにくいという症状は疑いのない事実だ)ことが、インディアンがいない(すなわち、耳の機能には問題がないのであなたの精神的な問題である)ことに直結します。極めて凡庸な決めつけを誰もが口にしてしまいます。

あからさまな事実からとりあえずの「不能性」が導き出されているのです。

インディアンを見ることができる
インディアンがいない
  • 耳が聞こえにくいという症状(事実)
  • 精神的な問題である(証明不能)

これは同時に、

インディアンを見ることができる(精神的な問題である)ことが、インディアンがいない(すなわち、問題の所在が「いとこ」自身に直結している実存的問題であるために解決不能である)ことに接続しています。救いのない諦念によって彼は窒息寸前であるのだ、という事態が噴出しているのでしょう。

消去法的な合意点から決定的な「不能性」が導き出されているのです。

インディアンを見ることができる
インディアンがいない
  • 精神的な問題である(解決できるかもしれない)
  • 実存的な問題である(解決不能)

「何か」から目を逸らすために、あえてわかりの良い「矮小」が選択されているかのようです。

難聴を通じて、彼は十代にして、人生の消尽に取り囲まれています。

難聴は同情の対象となりますが、彼の諦念には誰ひとり気づくことはないのでしょう。

つまり、

実存的孤独とともに彼は「彼自身の生」を生きており、これからもその生は続いていくという「諦め」が彼にぶら下がっているのです。

「同じようなところを同じようにひっかきまわされるから、今じゃなんだかすりきれちゃったみたいな気がするよ。自分の耳ってかんじがしないんだ」

同じことですが、「諦め」に宙吊りになっているのが「彼自身」に違いありません。

本作も村上が繰り返し取り上げてきた「喪失」の物語の一変奏であると言えます。この物語の場合は同じ失うでも「失調」に焦点が当てられています。あるべき精神の機能の調子は狂ったままなのです。

「僕」のみたもの

物語の中で、見えているものの姿形を無条件に信用してはいけないことが執拗に描写されています。

主人公の「僕」が見たものの中で決定的に重要なものは次の4つとなります。

  • 腕時計
  • バスの乗客である老人たち
  • 友人の彼女の平らな白い肉
  • いとこの耳

現実的に、物理的に「僕」の瞳は対象を捉えますが、彼が視ているものは、全く別の「何か」なのです。

そのことは僕と僕の友人の間でのかつてのやり取りに既に示唆されていたと言えます。

「変じゃないことは俺にだってわかっているよ」と彼は言った。「それで何か変だっていう気がするんだ」「たとえばどういうところが?」友だちは首を振った。「よくわからないけどさ、場所とか時間とかさ、きっとそういうものだな」

死んでしまって今はいない友人の鋭敏な感性は、間違いなく、別の「何か」に触れていたはずです。

当然のように「僕」もまたその「何か」を確実に共有していたのでしょう。

そのことが、ごく簡単に次のように描写されています。

僕も笑って煙草に火をつけ、それから外の風景を眺めた。

「僕」が風景を見ながら、その瞳には何も映っていないこと、正確には別の何かが瞳を捉えている事態が、極めてシンプルに表現されているのです。

外の風景とは常に「心象風景」に他ならず、同じことですが、風景とはいつでも「内外」が反転可能であることがさりげなく示されています。

と同時に、

あなたが押さえるべき点は、瞳に映る像(表層)はその本質的な意味(深部)というものに必ずしも焦点を結んでいないという「村上的主題」であるべきなのです。

腕時計

神経症患者の特徴的行動のように「いとこ」は過度に時間を気にします。

今何時何分であるのか、と。

「いま何分?」といとこが訊ねた。「二十六分」と僕は言った。「バスは何分に来るの?」「三十一分」と僕は答えた。

現在時刻を簡便に担保するものが腕時計という機器です。

「いまここ」に存在することを客観的に証明する装置を「いとこ」は身につけません。

彼は「いまここ」を意図的に遠ざけながら「いまここ」を常に希求します。

「いとこ」に聞かれるたびに「僕」は何度も文字盤を辛抱強く確かめます。

「いま何分?」といとこが訊ねた。「二十九分」と僕は言った。バスがやってきたのは十時三十二分だった。

「僕」が感知するのは、流れている時間ではなく、細切れに分割される(た)時間に他なりません。

「僕」自身の生きられた時間の総体が「死んだ時間」の堆積物に瓜二つであるのです。

バスの乗客である老人たち

バスの中は思ったより混んでいた。立っている客はいなかったが、我々二人が並んで座れる余裕はなかった。

いつもであれば、せいぜい二、三人といった客数であるはずの路線バスは、山に登る格好をした老人の一群に占拠されています。

奇妙な気配が漂っていることに気づいた「僕」は、バスが老人たちによる貸切状態であることに茫然(慄然)とします。

それは何かしら非現実的で不思議な光景だった。

ここで彼がみているものは、端的に言うと「死」そのものです。

老人たちが淡い影にように彼のまわりを取り囲んでいた。しかし彼らの目から見れば影のように見えるのは僕たちの方なのかもしれなかった。彼らにとっては本当に生きているのは彼ら自身の方で、僕たちの方が幻のようなものなのだ。

老人たちと「僕」たちが明らかに別々の違う「世界」に属していることがわかるはずです。

間違いない。間違っているとすれば、彼らの方が間違っているのだ。

彼ら(死)から見れば、「僕」たち(生)は「対岸」に位置する「幻のようなもの」に違いありません。

彼がバスのなかで見たものは、年老いた人間でなく、生のすぐ側に控える「死」それ自体なのです。

老人の群れが山を目指すとあることから、あなたは直ちに「姥捨山」を想起することでしょう。江戸時代のように肉親に背負われて山(死に場所)に向かうのではなく、さも趣味の一環(延長)として親しげに連れ立っていく点が、かえって不気味さを増長させていると言えます。

友人の彼女の平らな白い肉

「僕」は17歳の夏に友人の彼女を見舞いに海沿いの古い病院を訪れます。

手術とはいってもそれほどたいしたものではなく、生まれつき胸部の骨の一本が少し内側に向かってずれていたので、それを正常に戻すといったようなことだったと思う。

「僕」は偶然に、彼女が屈んだ際のV字型の襟元から乳房の間の平らな部分を目にします。

平らな白い肉。

本来的には彼女の肉体は若々しさの象徴であるにも関わらず、「僕」は彼女の身体の一部(言うまでもなくそれは肉体と精神の合作)に「暗いもの」を認めざるを得ません。

その当時の僕には、骨の位置をずらせるために肉を切り裂くということが、どうしてもうまくうけいれられなかったのだと思う。

彼女が術後に急変し死亡する予感に囚われているというのではなく、健康な「平らな白い肉」の下に隠れている「死の影」のようなものが思わず彼の視界を横切ったのでしょう。

それは「いとこ」を待つ間、食堂で時間を潰していた時に「僕」を捉えたものと同質のものであるはずです。

目を閉じると、ぶ厚い暗闇の中にしこりのようなものが見えた。それは白いダイヤ型のガス体で、顕微鏡で見る微生物みたいに膨らんだり縮んだりした。奇妙なものだった。

いとこの耳

診察が終わり、バスの停留所で待つ間、「いとこ」は「僕」に耳を見て欲しいと頼みます。

じっと見ていると、耳にはどこかしら不思議なところがあった。予想もつかないところでくねくねと曲がっていたり、へこんでいたり、とびでたりしている。

一般論として、耳の形の奇妙さにあらためて気づいたものの、「いとこ」の耳に関しての外見上の奇妙さは認められず、変わった雰囲気も「僕」は感じとることはありません。

「ごく普通の耳だと思うよ。みんなと同じだよ」と僕は言った。

ここで語られているのは、本作のテーマそれ自体であることに注意すべきでしょう。

外形(目に見えるもの)はその内実(本質)をいささかも表現してはいないのです。

「外から見る限り変わったところは何もないよ」と僕は言った。

あまりになんらの不自然さも違和感も感じさせない程に「普通」であり「平凡」であることの「奇妙さ」は、極めて逆説的に我々の生に絡みついているに違いありません。

めくらやなぎと眠る女とは何か

タイトルの「めくらやなぎと眠る女」とは、「僕」の友人の彼女が入院中に学校からの夏休みの宿題(課題)として書いた詩(詩のタイトル)を意味します。

容易に想像できるように、その内容においては自分自身が綴られています。

入院中の孤独な不安が、彼女の想像力を刺激したのでしょう。

眠る女とはベッドでの生活を余儀なくされている彼女自身であり、めくらやなぎとは彼女の不安な心に違いなさそうです。

「めくらやなぎの外見はとても小さいけれど、根はちょっと想像できないくらい深いの」と彼女は説明した。「じっさい、ある年齢に達すると、めくらやなぎは上にのびるのをやめて下へ下へと伸びていくの。暗闇を養分として育つの」

めくらやなぎの花粉をつけた小さな蠅が女の耳の穴に入り込み、内部から彼女の肉体を蝕んでいくその物語が、不自由な耳を抱える「いとこ」の現在状況に「僕」のなかで繋がり、重なっていきます。

僕はその沈黙の中で、いとこの耳の中に巣喰っているのかもしれない無数の微小な蠅のことを考えてみた。

その意味から、眠る女とは「いとこ」その人であるとも言い得ます。

しかしながら、タイトルに関してこれとは別に、私は次のように解します。

  • 「めくらやなぎ」とは「僕」の精神の暗部である
  • 「眠る女」とは「いとこ」の失調した機能を指す

以下に詳しくみていきます。

「めくらやなぎ」とは「僕」の精神の暗部

うんざりすることが続けざまに起こり、会社を辞めた「僕」は実家に戻ります。

家でのんびりと庭の草をむしったり塀をなおしたりしているうちに急にいろんなことが嫌になって、東京に戻るのを一日のばしにしていた。

これを字義通りに受け取ることはできません。

おそらく「僕」は精神を病んで実家に「退避」しているはずです。

二十代にとって何ひとつ魅力的でも刺激的でもない街に留まる理由はひとつしかありません。

退避=休戦。

「実生活」という戦いを「僕」は回避し続けます。

毎日をぼんやりと過ごすことが最良のリハビリであることは今更言うまでもないでしょう。

灰皿の中にグラニュー糖とクリームと煙草の葉がぐしゃぐしゃに混ざりあったものを見て、それではじめて自分が何をやっていたかに気づくのだ。時々そんな風になることがある。感情がうまく抑えられないのだ。

「ぐしゃぐしゃに混ざりあった」彼の心の奥深い根の張り具合を「再現」するかのように、彼は無意識のうちに気がつけば、灰皿の中で「精神の暗部」を追いかけます。

感情がうまく抑えられないのは、感情に押さえ込まれているのが日頃の「僕」であるからでしょう。

「眠る女」とは「いとこ」の失調した機能

「眠る女」とは「いとこ」の失調した機能の隠喩であるに違いありません。

端的には失調している耳の機能のことですが、もう少し広げていうのならば、彼の精神の機能を指すはずです。

正常化の糸口は一向につかめないのです。

どうあっても「眠れる」ままです。

おそらくは、二度と起きない(正常に機能しない)のでしょう。

二人の物語

ゆえに、

この物語はどこまでいっても「僕」と「いとこ」の物語となります。

「めくらやなぎ(「僕」の精神の暗部)」と「眠れる女(「いとこ」の失調した機能)」の物語(人生)なのです。

みんなは僕とそのいとこを一対として考えるようになっていた。

ある意味、「僕」は「いとこ」の未来形であり、「いとこ」は「僕」の過去形であるのでしょう。

そして僕といとこは二人で肩を並べるようにして、バスの扉が開くのを待った。

彼らが乗り込んだバスには本来相容れないものどもが「同乗」しています。

自分たち自身を含めて。

死者と生者。未来形と過去形。不在と在。

本来的には、同じ空間を分け合うはずのない「対極・排反」が同居し対峙する「バス」はどこに向かうのでしょう。

「バス」はどこから来てどこに向かうのであろうか。乗客(我々)は誰一人そのことを知りはしない。

ただのひとりも。

Please share!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

✒︎ writer (書き手)

人事屋パドーのアバター 人事屋パドー レビューブロガー

本サイト「シンキング・パドー」の管理人、人事屋パドーです。
非常に感銘を受けた・印象鮮烈・これは敵わないという作品製品についてのコメントが大半となります。感覚や感情を可能な限り分析・説明的に文字に変換することを目指しています。
書くという行為それ自体が私にとっての「考える」であり、その過程において新たな「発見」があればいいなと毎度願っております。

タップできる目次