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現役人事部長 (元営業マン) の言い切る雑記ブログ

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恩田陸さん「蜜蜂と遠雷」誰にも教えたくないタイトルの真の意味

投稿日:2017-03-05 更新日:

早くも今年読んだベストの予感⇒

参りました

昨年末に出版された恩田陸氏の直木賞受賞作「蜜蜂と遠雷」。

おすすめ度:

読みだしたら止まらない。止まりたくない。

「蜜蜂と遠雷」とは何を意味するのか?

・塵とホフマン先生の教え

・命の躍動としての音楽

・外、すなわち喜ばしき世界を象徴する記号(世界共通語=音符)

・人間と神、つまり絶対的な隔たり

遅ればせながら今週読了しました。

久しぶりに小説の愉楽に全身を覆われた。

素晴らしいの一言。

音楽を語る言葉の数々が超絶技巧。

村上春樹氏の新刊は読み始めたばかりだが、私にとっての今年のベストはこれで決まりとなりそうです。

以下、内容に言及しておりますので、あらかじめご了承ください。

雷に打たれる小説

天才の競演

魂の邂逅

小説の舞台はいまや一大産業と化した芳ヶ江国際ピアノコンクール。

二週間にわたる戦いの過程で三人の天才が共鳴しあい、どんどん高みに登っていきます。

大音楽家ユウジ・フォン=ホフマンの弟子である、養蜂家の息子、野生児、風間塵(蜜蜂王子)

かつて天才少女と呼ばれ、音楽の世界から消えてしまっていた栄伝亜夜

ハイブリッド・チャイルド、大本命マサル・カルロス・レヴィ・アナトール(ジュリアードの王子様)

そう、三人は出会うべくして出会った。お互いがお互いのために、出会うことが必要であり、必然だったのだ。

この小説の魅力は、才能が才能と出会うことにより、一段も二段も高みに成長していくその過程が繊細に生き生きと描かれているところにあります。

表層的な小説技巧を凝らさず、物語は時系列どおりに進行する王道の安心感が横たわっています。


名脇役たち

音楽家の矜持

この三人以外にも魅力的な登場人物はたくさんいます。

亜夜の天才性を信じる浜崎奏、調律師浅野、ステージマネージャー田久保などなど。

その中で、特に心惹かれたのは、おなじコンテスタントの高島明石です。

彼は、音楽家になることを諦め、今は大手楽器店に勤務する会社員ですが思うところがあり、コンクールに出場することを決意しました。

おそらく、三人の天才の物語だけが描かれていたのであれば、物語はもっと平板に終わっていたことでしょう。

明石の登場により、この物語は立体的な構造を獲得したものと思われます。

練習を一日休むと本人に分かり、二日休むと批評家に分かり、三日休むと客に分かる

このようなシビアな世界に彼は帰還しようと試みます。

彼の戦いを客席で聞き終えた妻満智子は言います。

あたしは音楽家の妻だ。

この場面は本当に泣けます。


天才風間塵

それにしても、この一次の選曲は、正直言って、とんでもない天才かとんでもない阿呆かのどちらかだな。

すべてが規格外の天才は当然のように天才を証明します。

贈り物

なんだ、この音は。どうやって出しているんだ?

審査員は一同驚愕する。

根こそぎ持っていかれる。
遭難するぞ。

圧倒的な破壊力そして豊穣性。

この子は、音楽の神様に愛されているんだ。

天才マサル・カルロス・レヴィ・アナトール

客席全体がひとつの耳になり、目になり、発情している。

とんでもないスター性を正統的に発散します。

光の中で

鳴る、鳴る。凄い。

スケール感の大きさに誰もがぺちゃんこにされてしまうのです。

どうしてこんな人間が、この世には存在しているんだろう。

才能の圧倒的な不公平が露呈する。

天才栄伝亜夜

モノが違う。

かつて天才少女と呼ばれ、舞台から降りていた彼女はただの神童ではなく、本物の天才だった。

復活

見よ。今、舞台の上にいるのは、音楽を生業とすることを生まれながらに定められたプロフェッショナルなのだ。

「際立って成熟している」弾き手がそこにいます。

そろそろいい加減に目を覚まさせたい子がいるんだよ。
もう覚醒しているんじゃないか。

コンクールを通じ、怪物は目を覚ました。

音楽という王に仕える、有能な臣下が帰還した。

弾けると弾く

弾く

「弾ける」と「弾く」のとは、似て非なるものであり、両者の間には深い溝がある

「嫌になっちゃうほど弾けちゃう」才能がしのぎを削るのがコンクールです。

ゆえに、弾けることを示すのではなく、弾くことがあくまで求められます。

けれども、「天才」はいつもその上をいってしまう。

彼女を使って誰かが「弾いて」いる

言うまでもなく、その誰かとは「音楽の神様」なのです。

三位一体

レボリューション

塵という存在が触媒となり、連鎖的に才能たちが爆発的進化を遂げます。

彼自身の才能が起爆剤となって、他の才能を秘めた天才たちを弾けさせているのだ。

「理解できる天才」のマサルと「理解できない天才」塵の重なる部分があるとすれば、そこが亜夜です。

「分かりにくい天才」のマサルと「分かり易い天才」塵の重なる部分があるとすれば、そこが亜夜です。

亜夜はある意味、このコンクールを通じ、彼らとの魂の交換を通して、もっとも進化します。

天才少女の帰還、というわけね。

「理解できない天才」かつ「分かり易い天才」塵はただの型破りでも野生児でもありません。

彼は大人だ。人間としても、演奏家としても。

マサルの師匠はそもそもの始まりからマサルの本質を的確に見抜いています。

君は元々知っていたんだ。
元々君の中にあったものを、君に思い出させているだけなんだ。

マサルの天才性もコンクールを通じ、確実に発現していきます。

タイトルの意味

込められたもの

蜜蜂について著者は次のように書いています。

明るい野山を群れ飛ぶ無数の蜜蜂は、世界を祝福する音符であると。

才能を開花させる触媒の役目を担っていた風間塵はこの蜜蜂と二重写しとなります。

花粉を媒介することにより、多くの花たち(才能)の受粉を助け、やがて実(豊かな人間性)がなるのです。

メモ

ミツバチと人類の関わり合いは古く、古代エジプト時代には養蜂が行われていたそうです。シャーロック・ホームズが引退後に養蜂家になったことは有名な話です。なんとなくわかるような気がします。

遠雷については次のような描写が見られます。

遠いところで、低く雷が鳴っている。冬の雷。何かが胸の奥で泡立つ感じがした。稲光は見えない。

この遠雷は、ホフマン先生の意志の残響のようです。

姿は見えませんが、その存在感は圧倒的です。

これらのことから、タイトルの「蜜蜂と遠雷」とは「塵とホフマン先生の教え(ホフマンその人ではない)」と読み替えることができるかもしれません。

しかしながら、作者はそれ以上の意味を込めているような気がします。

外へ

ここより先へ

ホフマン先生と音楽を外に連れ出す約束をした塵は、それがどうやって果たすことができるのかを考え続けています。

本来、人間は自然の音の中に音楽を聴いていた。

であるのならば、蜜蜂の羽音も遠雷も音楽であるはずです。

今は誰も自然の中に音楽を聞かなくなって、自分たちの耳の中に閉じ込めているのね。

音楽を音に限定してしまうと、「自然に帰れ」となります。

が、どうやら恩田氏の射程はもう少しばかり長そうです。

人間の最良のかたちが音楽だ。

少なくとも音に限定した意味に固定化されていないようです。

この、命の気配、命の予感。これを人は音楽と呼んできたのではなかろうか。

音楽とは生命の躍動です。

生きるための、生きることの旋律です。

蜜蜂は生きるために花粉を集め、その蜜により養蜂家は生計を立てます。

遠雷は雨がすぐそこまで来ていることを知らせ、恵みの雨は大地からの豊穣を約束してくれます。

音楽はいつも生活に寄り添い、その中に感謝や祈りを聞いてきたはずです。

命が育まれ、命が育つことの喜びで世界が満たされているのです。

彼自身が、彼の動きのひとつひとつが、音楽なのだ。

生きることと生きることの喜びが寸分違わず合致している。

塵は前しか向いていません。

音楽が駆けていく。

「蜜蜂と遠雷」とは「命の躍動としての音楽」の象徴を記しているのでしょう。

メモ

蜂の季語は春です。遠雷の季語は夏です。青春真っ只中の若者たちの物語にピッタリの語句のチョイス。

スタートライン

はじまり

コンクールはゴールではなくスタートです。

このイベントに関わった誰もが、期せずしてスタートラインに立ちました。

これほどまでに「開かれた小説」もないでしょう。

新生活が始まる春にピッタリの物語であるといえます。

ステージマネージャーの可能性に満ち溢れた「はじまりの合図」が聞こえてきます。

栄伝さん、時間です

2017年8月12日追記、「可能性としての外部へ」

ジャンプ

タイトルの意味をずっと考えていました。

今までと異なる解釈も成立するかなと思えたので以下追記します。

存在としての音

蜜蜂についても遠雷についても、その存在に関心を向ける人物は文中においてたった一人しかいません。

風間塵です。

小説の冒頭において彼は蜜蜂の群れを予感し、たしかにその存在を感じます。

明るい野山を群れ飛ぶ無数の蜜蜂は、世界を祝福する音符である。

ここで重要なのは彼は実際にその群れを視認しているわけではないということです。

サウンドとしてそのプレゼンスを全身で感じ取るだけです。

一方、小説の後半において遠雷が塵の心をノックします。

遠いところで、低く雷が鳴っている。冬の雷。何かが胸の奥で泡立つ感じがした。稲光は見えない。

ここでも蜜蜂と同様に雷を見ることができません。

蜜蜂と遠雷は決して彼の目の前に姿を現しません。

しかしながら、それは疑いようもなく確かに存在するのです。

存在を感じるとき、塵は胸騒ぎを覚え、予兆に包まれます。

外へ。

「可能性としての外部」は蜜蜂と遠雷という姿を借りて塵の元を訪れるのです。

自分の外へ。

限界の向こう側へ。

今はまだ、その外部を塵は予兆として、かすかな兆しとしてしか理解することができていません。

けれども、必ずやそれが自分が求める道であることをやがて知ることになるのでしょう。

蜜蜂と遠雷とは「外=喜ばしき未来」を象徴する記号(世界共通語=音符)にほかならないのです。

2017年11月12日追記、「人間と神」

絶対的な

人間と神
蜜蜂とは社会性昆虫であるがゆえに、その社会性に目を向ける必要があるでしょう。このことはそのまま社会的生物の代表格である人間に通じ、蜜蜂とは人間に他ならないことが示唆されます。一方、雷とは古代より恐怖の対象であり、神の怒りを表していると理解されてきました。よって、遠雷とは神それ自体を現すことになります。ただ遠雷とは遠くに音が聞こえるだけの稲光を伴わない雷を指します。ゆえに直接的な怒りが振り下ろされない、神の理性がより強調されているといえるでしょう。以上より「蜜蜂と遠雷」とは「人間と神」の言い換えとなります。更にいうと両者の間の絶対的な差異がここで表現されていることに注目すべきでしょう。両者の間には決して超えることのできない「境」が存在するのです。この小説で言えば、「凡人と天才」あるいは「観客と演奏家」、「アマチュアとプロフェッショナル」となります。であるならば、この小説のタイトルは、ある種の「絶対的な隔たり」を表しているとは言えまいか。







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パドー1000

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