読書感想文を書くならダントツ一位でおすすめの傑作です。とにかく時間を忘れて読んでしまうこと間違いなし!
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昨年末に出版された恩田陸氏の直木賞受賞作「蜜蜂と遠雷」。
「蜜蜂と遠雷」とは何を意味するのか?
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もったいぶらずに最初に書いておきます(だってこの記事、そこそこ長いですから)
蜜蜂と遠雷の意味するものとは、
- 風間塵とホフマン先生の教え
- 命の躍動としての音楽
- 外、すなわち喜ばしき世界を象徴する記号(世界共通語=音符)
- 人間と神、つまり絶対的な隔たり
- 可能性の塊としての人
- 音楽家と音楽
感動の嵐の中、読み終えたばかりです。
久しぶりに小説の愉楽に全身を覆われました。
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素晴らしいの一言
音楽を語る言葉の数々が超絶技巧。
村上春樹氏の新刊は読み始めたばかりですが、私にとっての今年のベストはこれで決まりとなりそうです。
以下、内容に言及しておりますので、あらかじめご了承ください。
2018年11月1日追記:祝 映画化決定!
映画化決定のようです。
2019年の秋公開!10月4日ROADSHOW
主なキャストは次のとおり。
・高島明石には松坂桃李
・栄伝亜夜には松岡茉優
・マサル・カルロス・レヴィ・アナトールには森崎ウィン
・風間塵には鈴鹿央士
原作をそのまま映像にすると確実に失敗してしまうほど、小説の世界観があまりに確立しています。
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いかにその世界観を脱臼させるのかの勝負となりそうです。
石川慶監督に期待大です。
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10月19日映画を観てきました。素晴らしい!
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コミックスも出ているので、これから読んでみます。
天才の競演が本当にシビレる
いまや一大産業と化した芳ヶ江国際ピアノコンクールが小説の舞台です。
二週間にわたる戦いの過程で三人の天才が共鳴しあい、どんどん高みに登っていきます。
- 大音楽家ユウジ・フォン=ホフマンの弟子である、養蜂家の息子、野生児、風間塵(蜜蜂王子)
- かつて天才少女と呼ばれ、音楽の表舞台から消えてしまっていた栄伝亜夜
- ハイブリッド・チャイルド、大本命マサル・カルロス・レヴィ・アナトール(ジュリアードの王子様)
そう、三人は出会うべくして出会った。お互いがお互いのために、出会うことが必要であり、必然だったのだ。
この小説の魅力は、才能が才能と出会うことにより、一段も二段も高みに成長していくその過程が繊細に生き生きと描かれているところにあります。
表層的な小説技巧を凝らさず、物語は時系列どおりに進行する王道の安心感が横たわっています。
名脇役たちも実にいいんです
この三人以外にも魅力的な登場人物はたくさんいます。
亜夜の天才性を信じる浜崎奏、調律師浅野、ステージマネージャー田久保など。
その中で、特に心惹かれたのは、おなじコンテスタントの高島明石。
音楽家になることを諦め、今は大手楽器店に勤務する会社員です。
思うところがあり、コンクールに出場することを決意しました。
おそらく、三人の天才の物語だけが描かれていたのであれば、物語はもっと平板に終わっていたことでしょう。
明石の登場により、この物語は立体的な構造を獲得したのです。
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実にうまい小説の作り。
練習を一日休むと本人に分かり、二日休むと批評家に分かり、三日休むと客に分かる
このようなシビアな世界に明石は帰還しようと試みます。
彼の戦いを客席で聞き終えた妻満智子はつぶやきます。
あたしは音楽家の妻だ。
この場面は本当に泣けます。心震えます。
天才風間塵登場!
それにしても、この一次の選曲は、正直言って、とんでもない天才かとんでもない阿呆かのどちらかだな。
すべてが規格外の天才は当然のように自らの天才性を証明します。
なんだ、この音は。どうやって出しているんだ?
審査員は一同驚愕する。
根こそぎ持っていかれる。
遭難するぞ
圧倒的な破壊力そして豊穣性。
この子は、音楽の神様に愛されているんだ。
強烈な嫉妬と恍惚感がない混ぜになり、審査員席を中心に会場を席巻します。
人知を超えた才能に、才能の塊たちはだれもかれもが恐怖するのです。
天才マサル・カルロス・レヴィ・アナトール降臨
客席全体がひとつの耳になり、目になり、発情している。
とんでもないスター性を正統的に発散する私たちのプリンスの降臨です。
鳴る、鳴る。凄い。
スケール感の大きさに誰もがぺちゃんこにされてしまいます。
どうしてこんな人間が、この世には存在しているんだろう。
才能の圧倒的な不公平の露呈。
本コンクールの大本命の登場に歓喜のファンファーレが鳴り響きます。
天才栄伝亜夜の帰還
モノが違う。
かつて天才少女と呼ばれ、表舞台から降りていた彼女はただの神童ではなく、本物の天才でした。
見よ。今、舞台の上にいるのは、音楽を生業とすることを生まれながらに定められたプロフェッショナルなのだ。
「際立って成熟している」弾き手がそこにいます。
そろそろいい加減に目を覚まさせたい子がいるんだよ。
もう覚醒しているんじゃないか。
コンクールを通じ、怪物は目を覚ました。
音楽という王に仕える、有能な臣下が帰還した。
最後の怪物も目を覚まし、誰が一番音楽の神に愛されるのかの火ぶたが切って落とされたのです。
弾けると弾く、その圧倒的な差
「弾ける」と「弾く」のとは、似て非なるものであり、両者の間には深い溝がある
「嫌になっちゃうほど弾けちゃう」才能がしのぎを削るのがコンクールという舞台です。
「弾けることを示す」のではなく、「弾くこと」があくまで求められます。
しかしながら、「天才」はいつもその上を軽々といってしまいます。
彼女を使って誰かが「弾いて」いる
言うまでもなく、その誰かとは「音楽の神様」なのです。
三位一体の必然
塵という存在が触媒となり、連鎖的に「才能たち」が爆発的進化を遂げます。
彼自身の才能が起爆剤となって、他の才能を秘めた天才たちを弾けさせているのだ。
「理解できる天才」のマサルと「理解できない天才」塵。
ふたりの重なる部分があるとすれば、そこが亜夜です。
「分かりにくい天才」のマサルと「分かり易い天才」塵。
ふたりの重なる部分があるとすれば、そこが亜夜です。
亜夜はある意味、このコンクールを通じ、彼らとの魂の交換を通して、もっとも進化を遂げます。
天才少女の帰還、というわけね。
「理解できない天才」かつ「分かり易い天才」塵はただの型破りでも野生児でもありません。
彼は大人だ。人間としても、演奏家としても。
マサルの師匠はそもそもの始まりからマサルの本質を的確に見抜いていたのです。
君は元々知っていたんだ。
元々君の中にあったものを、君に思い出させているだけなんだ。
マサルの天才性もコンクールを通じ、大きく開花していきます。
タイトルの意味は重層的かつ重奏的であった
著者は本文中において蜜蜂について次のように表現しています。
明るい野山を群れ飛ぶ無数の蜜蜂は、世界を祝福する音符であると。
才能を開花させる触媒の役目を担っていた風間塵はこの蜜蜂と自ずと二重写しとなります。
花粉を媒介することにより、多くの花たち(才能)の受粉を助け、やがて実(豊かな人間性)がなるのでしょう。
遠雷については次のように描写されています。
遠いところで、低く雷が鳴っている。冬の雷。何かが胸の奥で泡立つ感じがした。稲光は見えない。
この遠雷は、まるでホフマン先生の意志の残響のようです。
姿は見えませんが、その存在感は圧倒的なのです。
本文中の記述を基に推測するならば、タイトルの「蜜蜂と遠雷」とは、
「塵とホフマン先生の教え(ホフマンその人ではない)」と読み替えることができるでしょう。
遠雷をホフマンとみなす意見もあるでしょうが、あえてホフマン(個体)とホフマン先生の教え(理念)をセパレートしたいと考えます。 ホフマン先生の教えとは、ホフマンその人のオリジナルな考え方というよりも、真の音楽家が自らの音楽を極める時に目指すべき「理想」のようなものです。 「個人」に直結するものではなく、もっと「普遍性」を持ったものだと思います。その普遍性に塵は共鳴したのでしょう(共振しようと決意したのでしょう)。
ここまでが、ごく一般的な解釈となります。
ここで終わらないのが、恩田陸という作家の凄みです。
作者はタイトルに「それ以上の意味」を込めているような気がします。
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恩田さんは一筋縄ではいかないようです。
本作のタイトルである「蜜蜂と遠雷」が宮沢賢治の「春と修羅」からインスパイアされたことは、コンクールの課題曲名が「春と修羅」であることからほぼ間違いないと思われます。 天才詩人が名付けたタイトルである「春と修羅」とは何を指すのかには諸説あります。研究者たちの意見は尽きません。 私が支持するのは「春」とは故郷の情景ではなく、最愛の妹トシを指し、「修羅」とは妹を失った賢治自身の精神の危機的状況を示しているという分析です。 「春」とは、季節の始まりであり、幼さや若さを象徴すると同時に、再び生まれてくる命の息吹(復活)を連想させます。生き返るはずのない妹の復活(蘇り)を実の兄はどこまでも夢想しているのです。
一方、「修羅」は、詩のなかの一説にあるように「おれはひとりの修羅なのだ」という叫びそのままに、賢治自身を名指しています。 しかしながら、それは一個人の心象風景を表すというのにはあまりにも荒れ果てているために、むしろ「修羅という現象」が「人の形」をなしているといったほうが相応しいと言えるでしょう。
以上のことから、「春と修羅」とは「トシと賢治の危機的精神」の言い換えであると結論します。ゆえに、慟哭の詩に多分に影響を受けた「蜜蜂と遠雷」という題名は「塵とホフマン先生その人」ではなく「塵とホフマン先生の教え(理念)」と相似をなすと考えるのです。
外へ、全ての外へ
ホフマン先生と音楽を外に連れ出す約束をした塵は、それがどうやって果たすことができるのかを考え続けています。
本来、人間は自然の音の中に音楽を聴いていた。
であるのならば、蜜蜂の羽音も遠雷も「音楽」であるはずです。
今は誰も自然の中に音楽を聞かなくなって、自分たちの耳の中に閉じ込めているのね。
音楽を音に限定してしまうと、「自然に帰れ」となります。
自然こそが音楽であるという耳なじみのあるエコロジカルな思想に帰着します。
どうやら恩田氏の射程はもう少しばかり長そうです。
人間の最良のかたちが音楽だ。
少なくとも音に限定した意味に解釈が固定化されていません。
この、命の気配、命の予感。これを人は音楽と呼んできたのではなかろうか。
音楽とは生命の躍動。
生きるための、生きることの旋律です。
蜜蜂は生きるために花粉を集め、その蜜により養蜂家は生計を立てます。
遠雷は雨がすぐそこまで来ていることを知らせ、自然の恵みは大地からの豊穣を約束してくれることでしょう。
音楽はいつも生活に寄り添い、その中に感謝や祈りを聞いてきたはずです。
命が育まれ、命が育つことの喜びで世界は満たされています。
彼自身が、彼の動きのひとつひとつが、音楽なのだ。
生きることと生きることの喜びが寸分違わず合致している。
そのような稀有な存在が塵です。
音楽が駆けていく。
彼は前進をやめないのでしょう。これから先もずっと。
おそらく、
「蜜蜂と遠雷」とは「命の躍動としての音楽」の象徴を記しているのでしょう。
スタートラインに立ったばかり
演奏家にとってコンクールはゴールではなくスタートにほかなりません。
このイベントに関わった誰もが、期せずしてスタートラインに立ちました。
これほどまでに「開かれた小説」もないでしょう。
新生活が始まる春にピッタリの物語であるといえます。
ステージマネージャーの可能性に満ち溢れた「はじまりの合図」が聞こえてきます。
栄伝さん、時間です。
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いい小説を読むとなぜかいい批評が読みたくなる。そんなことありませんか?
音楽に関する批評は意外と少ないものです。次の2つは希少かつ稀有な作品です。
2017年8月12日追記「潜在性としての外部へ」
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読後、タイトルについてずっと考えています
今までと異なる解釈も成立するかなと思えたので以下に追記しておきます。
蜜蜂についても遠雷についても、その存在に関心を向ける人物は文中においてたった一人しかいません。
風間塵です。
小説の冒頭において彼は蜜蜂の群れを予感し、たしかにその存在を感じます。
明るい野山を群れ飛ぶ無数の蜜蜂は、世界を祝福する音符である。
ここで重要なのは彼は実際にその群れを視認しているわけではないというところです。
サウンドとしてそのプレゼンスを全身で感じ取るだけなのです。
一方、小説の後半において遠雷が塵の心をノックします。
遠いところで、低く雷が鳴っている。冬の雷。何かが胸の奥で泡立つ感じがした。稲光は見えない。
蜜蜂と同様に雷を見ることもできません。
ここで記述されている蜜蜂と遠雷は塵が日常的に目にしている自然(自然現象)とは似て非なるものです。
世界を祝福し、胸の奥で泡立つ何かなのでしょう。
言うまでもなく、それは潜在性にほかなりません。
「潜在性としての外部」は蜜蜂と遠雷という姿を借りて塵のもとを訪れます。
今はまだ、その外部を塵は予兆として、かすかな兆しとしてしか理解することができていないのです。
けれども、必ずやそれが自分が求める道であることをやがて知ることになるに違いありません。
成長とともに、彼ははっきりと身のうちに感じとることでしょう。
蜜蜂と遠雷とは「外=喜ばしき未来」を象徴する記号(世界共通語=音符)にほかならないのです。
2017年11月12日追記「人間と神」について
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懲りずにタイトルの意味を考え続けています
「蜜蜂」とは社会性を持つ昆虫であるがゆえに、その「社会性」に目を向けることが求められていると言えます。
このことはそのまま社会的生物の代表格である人間に通じ、蜜蜂とは人間に他ならないことが示唆されます。
一方、雷とは古代より恐怖の対象であり、神の怒りを表していると理解されてきました。
遠雷とは神それ自体を現すと言っていいでしょう。
ただ、遠雷とは遠くに音が聞こえるだけの稲光を伴わない雷を指します。
直接的な怒りが振り下ろされない、神の理性がより強調されているに違いありません。
以上より「蜜蜂と遠雷」とは「人間と神」の言い換えとなります。
更にいうと、両者の間の絶対的な差異がここで表現されていることに注目するべきでしょう。
両者の間には決して超えることのできない「境」が存在するのです。
この小説で言えば、「凡人と天才」あるいは「観客と演奏家」、「アマチュアとプロフェッショナル」となります。
であるならば、
この小説のタイトルは、ある種の「絶対的な隔たり」を表しているとは言えないでしょうか。
2018年7月7日追記 この夏多くの学生の方に読んでほしい
多くの学生の方に読んでほしいと心の底から思います。
これほどの熱量と爽やかさを持つ小説は滅多にお目にかかれません。
課題図書に指定されることもこれから増えていくことでしょう。
タイトルの意味は読んだ人がそれぞれ思いを馳せればいいことです。
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わたしの考えがあなたの考えのヒントになれば幸いです。
2019年10月2日追記 スピンオフ短編集「祝祭と予感」
映画の公開に狙いすましたかのように、今月2日にスピンオフの短編集が発売されました。
「蜜蜂と遠雷」の世界観により広がりと深みを与える作品群です。
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また、彼らに会うことができます。
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2019年10月5日 追記(可能性の塊としての人)
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タイトルを単純に捉える姿勢でもって考えてみました
タイトルの「と」に注目します。
「と」によって、言葉(概念)が並列、連結していることから、「関係性」が示されていることがわかるでしょう。
- 二項(対立)である
- 2つでひとつのこと(全体)を表している
例えば「男と女」や「動物と植物」などのように。
次に、
「蜜蜂」と「遠雷」について各々その属性・要素を列挙してみましょう。
- 生物・具象性・集団性
- 非生物・抽象性・単独性
ここで、あらためてこの物語の内容を思い起こしてみてください。
そこには徹頭徹尾、人の素晴らしさや人の可能性が行間に溢れかえっていたはずです。
すなわち、
「人間賛歌」が謳われていました。
「人間の存在それ自体」がテーマのストーリーなのです。
この観点からタイトルを見つめ直すと、逆算的に垣間見えてくるものがあります。
「蜜蜂と遠雷」とは「肉体と精神」の言い換えに他ならないのだと。
可能性の塊である人
その存在としての素晴らしさを余すことなく表現していると言えないでしょうか。
2020年2月24日 追記(批評家としての演奏家)
演奏家とは、作曲家の構想した世界を忠実に再現することを求められます。
したがって、自分勝手な解釈はクラッシックの世界では無価値とならざるを得ません。
演奏家が自らの創造性の羽を伸ばすには、作曲家が音楽を生み出した瞬間を想像し、演奏する必要があります。
すなわち、解釈の徹底です。
高島明石が特別賞を受賞したことは偶然ではありません。
彼は誰よりも解釈を掘り下げていきました。
地べたを這いずり回り、自分勝手な解釈を全て取り払った先に、彼が見たものは作品それ自体だったのです。
彼が、その瞬間に、批評家となったことは言うまでもないでしょう。
優れた演奏家(批評家)は、まだ誰も気付いていない作品が持つ可能性に光を当てるに違いありません。
2023年8月15日 追記(音楽家と音楽)
久しぶりにタイトルの意味を考えてみました。
単純に、もしくは一周まわっての感覚で、次のような解釈でスッキリするのかな、と。
蜜蜂とは、音楽家(たち)。
遠雷とは、音楽。
この物語は、音楽家と音楽のために書き連ねられた言葉の群れから成り、交響楽的構成であるのだということをシンプルに想起する。
蜜蜂たちは休むことも、倦むこともなく、絶えず動きまわり、本当に遠くに一瞬、雷の音が聞こえたような気がするばかり。