「騎士団長殺し」。喜ばしき方向へ踏み出していく
「1Q84」から7年ぶりの長編新作「騎士団長殺し」を読了。

至福の読書時間。
これ以上つけ足す言葉はなにもない。
巷間では好意的な書評が多くないようです。
村上春樹氏に読者の多くが何を求めているのかは不明です。
しかしながら、この作品から村上がこれまでと違ったところに向かっていることは明瞭にみてとれるはずです。
それはもちろん喜ばしき方向に違いありません。
以下、内容に言及しますので予めご了承ください。
好きなことだけ、やる
これまでと違ったところに向かっていることの一つ目は、本当に好きなことだけをやっている、です。
これは、好き放題わがままにやっているとは似て非なることです。
年を取って、ようやく自分の好きなように小説を創作する地点に意識の上でも到着したという意味となります。
創作技量的にはとうの昔にはじめていてもいいはずなのに、あくまで禁欲的な姿勢を貫かれていたように思えます。
それが、68才に至り、自然体がようやく前景化したようです。
東京新聞のインタビューで次のように答えています。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も「グレート・ギャツビー」も、好きな小説はたいてい一人称。そういう小説を翻訳しているうちにまた書きたくなった。一人称小説が向いているのかもしれない。
これまで様々な話法で小説を構成してきましたが、元のフィールドに戻られたのでしょう。
今回、マイ・フェイバリットスタイルを散りばめようとする意志がここかしこにみられます。
構成はあくまで、チャンドラーの探偵小説の話法が採用されています。
準主役級の免色渉という人物はギャツビーそのものであると言い切ってよいでしょう。
大きな邸宅から向こう側を眺めるという設定がそのものズバリ。
クラシックへの言及は言うに及ばず、ブルース・スプリングスティーンまで登場する気前の良さです。
初期作品に多く見られた洒落た例えも、いくつかみられます。
そして、極めつけは井戸。
「ねじまき鳥クロニクル」において決定的な役割を果たした井戸の登場です。
これらの採用を二番煎じであるとか、自己引用、才能の枯渇というのはやはり見当違いと言わざるを得ません。
村上にとって生理的に自然である方法がここでは躊躇なく採用されているとみるべきでしょう。
重ねてきたキャリアが「もうそろそろいいんだよ」と助言しているかのようです。
想定される批判や批評など取るに足らないぐらいに作者にとっては自然の成り行きであるはずです。
最近出版された「村上春樹翻訳ほとんど全仕事」において、最重要人物のひとりであるレイモンド・カーヴァーについて次のよう言及されています。
僕が彼から学んだいちばん大事なことは、「小説家は黙って小説を書け」ということだったと思う。小説家にとっては作品が全てなのだ。それがそのまま僕の規範ともなった。
「小説家は黙って小説を書け」と言い切れる境涯に達した作家が満を持して作品を世に問うてきました。
それが「騎士団長殺し」という作品であることをわれわれはよくよく認識しなければなりません。
ここには、チャンドラーもサリンジャーもフィッツジェラルドもカーヴァーもすべてぶちこまれています。
ここに至りすべてが投入されても、それらが喧嘩しないだけの確信を作家は持ったのでしょう。
40年近く職業作家を第一線で続けてきた者だけが達した自由のフィールドに著者は紛れもなく屹立しています。
絶対的な肯定へ
二つ目は、信じる力に対する絶対的な肯定、です。
これまでの作品構成であれば否応なく免色渉的思想が色濃く出てたはずです。
その二つの可能性を天秤にかけ、その終わることのない微妙な振幅の中に自己の存在感を見出そうとしている。
このような考えが小説的技法として採用されてきたことは否定できません。
それ以上に宙吊り化、遅延化してしまう可能性にまどろみたいモラトリアム思想の典型が積極的に肯定されていたはずです。
そのような思想的心地の良さに世界中の多くの読者は共鳴し共感を覚えてきました。
ゆえに「騎士団長殺し」の物語の回収の仕方に物足りなさや違和感を感じるのも無理からぬ事でしょう。

しからば、村上氏はどのような方向にかじを切ったのか?
物語の終わりで語られているように「信じる力」を肯定すると宣言しているのです。
村上の言う「信じる力」とは
「騎士団長殺し」においても、これまでの作品と同様に摩訶不思議は摩訶不思議のままに置き去りにされています。
しかしながら、決定的に違うのは、そのような摩訶不思議は現実の一部であるのだから、合理的説明がつこうがつくまいが現実として受け止めなければならないという主張が強くなされているところです。
これまでは、なんとなくそういうものなのだ、これが小説の、物語の仕掛けであるのだと、ある意味毅然とした書き方であったと思います。
けれども、この作品では、物語でしか伝えることのできない真実があるために、摩訶不思議を提示するがそこに思わせぶりなマジックワードは一切施さないという姿勢が貫かれているかのようです。
世界はミラクル
不可思議なことが生起します。
なぜそうなったのかは、誰にも確信的なことは言い切れません。
目の前にある事実を正面から過不足なく認め、受け入れること。
それが「信じる力」であるのでしょう。
絵にはそのまま語らせておけばよろしい。隠喩は隠喩のままに、暗号は暗号のままに、ザルはザルのままにしておけばよろしい。
顕れたイデアである騎士団長は次のように語ります。
真実とはすなわち表象のことであり、表象とはすなわち真実のことだ。そこにある表象をそのままぐいと呑み込んでしまうのがいちばんなのだ。
また次のようにも言います。
寓意や比喩は言葉で説明されるべきものではない。呑み込まれるべきものだ。
小説において邪悪なものの象徴として語られる「二重メタファー」。
「二重メタファー」とは寓意や比喩を言葉で説明する行為にほかなりません。
そのような行為は一見すると正当で適切な行為であると思われがちですが、そうではありません。
なぜなら、目の前に起こったことを受け入れず、人生を前に推し進めることをあくまで阻害するからです。
とは言え、信じる力の肯定には当然に慎重のうえに慎重が必要となります。
信じる力を主張することはある種の困難を必然的に伴うはずなのです。
「信じる力を肯定すること」は一歩間違えば「盲目的に信を置くこと」へと地滑りしかねません。
そのことの脆弱性を村上はかつて特定宗教団体の取材を通じていやというほど理解しているはずです。
このような誤解の可能性もすべて考慮した上で「信じる力」を絶体肯定する境地に至ったのでしょう。
それには少なくない時間が必要であったはずです。
2017年、村上春樹はようやく「時間」を味方につけました。
「きみはそれを信じた方がいい」

