衣食住を「人とのつながり」から考えてみる。社会性が本当に大事なのです。
衣食住とはわたしたちの生活の基盤となるものです。
ある意味、生活それ自体であるのかもしれません。
毎日を気持ちよく生きるためには、
この衣食住のすべてに関心をもつことがとても大事であると思われます。
「この程度でいいや」とか「まあいいかな」をできるだけ少なくし、
日々の暮らしのなかで、衣食住に関する時間を定期的に取ることがあなたの生活をカラフルなものにしていくはずです。
わたしも衣食住について立ち止まって考えてみました。
考えを重ねるうちに、少しばかりわかってきたことは、
人はひとりで生きてはならないという結論でした。
「社会性」がいかに大事であるのかが、衣食住について考えることを通して理解することができたのです。
以下に、衣食住について個別に説明をしていきます。ぜひご参考にしてください。
あなたの毎日の生活が、周りの大切な人たちと共に光り輝くことを願ってやみません。
衣食住のことを考えることになったきっかけは語句の収まりの悪さでした
衣食住は人が生きていく上で、最低限必要な生活条件のようなものであると考えられています。
この言葉をはじめて耳にしたとき、あなたに違和感は訪れなかったでしょうか?
大事なものが3つあります。それはセットになっています。それが衣食住です。
このように言われたときに、すんなりと同意できたでしょうか?
食べることが大事なのは、生命を維持しなければならないので、すぐに理解できます。
住むところが必要である。
これも生命の危機回避の観点から直感的にわかります。
最後に「衣」が残りました。
裸で生活するわけにはいかないのですから、必要であることは認識しています。
「食」や「住」と比較して重要度において少しばかり低いのではないかと、あなたは思わなかったでしょうか。
わたしはなにか違うなと思ったので、考えることにしました。
同格であり同列である理由がおそらくあるはずです。
理由を見つけ出す前に、まずは個別に考えてみることにしました。
衣食住を考えるための2冊
衣食住を考えるときに、まず思い出される2冊をご紹介します。
ふたりの著者はいずれも自らのライフスタイルを確立されています。いずれもシンプルで力強いものばかりです。そのこだわり、考え方はとても参考になります。
はじまりの一歩としての衣について
自然界においては、人は単独の個体としては極めて脆弱な存在です。
ゆえに、集団を成し、共同体を作り上げることで生存率を高めてきました。
人はひとりでは生きていけませんでした。
何にも増して「社会性」を身につけることが要求されたのでしょう。
お互いの社会性を確認するその取っ掛かりとなるのが実は「衣」だったのです。
「衣」を通じて、相手の持つ多くの情報を得ることが可能になりました。
このことが共同体を強固にし、その成長を促したことは想像に難くありません。
関係強化のための食
食には2つの意味があります。
「食物・食料それ自体」を指す場合と「食事」を指す場合です。
そして、この食事も実は2つの意味を持っています。
「栄養の摂取・補給」と「関係性の強化」
食事はひとりでする場合もあれば、集団の場合もあります。
ひとりで食べる場合は大抵の場合、栄養の摂取・補給と言えるでしょう。
一方、複数で食卓を囲むことで絆は強まります。
共に食するという行為は親睦・関係を深め、集団の仲間意識の強化には欠かせないものなのです。
主役が住になることの危うさについて
雨露をしのぐことを目的とする「住」はその始まりは屋根(傘)であったと言えるでしょう。
そのような住もその後、象徴的存在と化す可能性を有していたのです。
住む人が主役であるはずが、住そのものが主役となってしまうことはいつの時代にもありました。
自然の猛威から身を守り、プライバシーの確保を可能にした住は、度が過ぎると権力や富の象徴として機能し始めてしまいます。
ある意味、衣と同じくらいに住はその人の「ひととなり」を雄弁に物語るのでしょう。
社会性という観点で衣食住を考えてみる
以上、個別にみてきましたが、お分かりの通り、はっきりとした共通点がみられたはずです。
それは「社会性」です。
個が生き延びるためには共同体に帰属する道を選びます。
その際に不可欠なのが社会性の獲得なのです。
社会性を獲得し、それを維持し、かつ強化するという側面からみるとき、
衣食住はどれもが同格であることが理解できることと思われます。
社会的動物であるわれわれ人間はひとりで生きることが絶望的なまでに困難な生き物です。
だから、集団を形成し、意思を伝え、意図を汲み取ろうと悪戦苦闘します。
ひとりで生きることができないのだから、ひとりで生きてはならないのです。
決してひとりきりで生きてはならないのです。
なぜなら、わたしたちは人間(社会的存在)なのだから。
人を大いにあてにして、同時に人に大いにあてにされるような存在。
それが社会的存在としての人間であるに違いありません。
8月15日追記(戦争が終わった日に)
衣食住という語は多層的な意味を持っています。
それは単体・単独の思想ではなく、共存・共栄の考えに基づき口にされた言葉であると思えてなりません。
70年あまり前の自分が生まれる前の「戦争当時の話」というものを私の貧しい想像力では十分には理解することができません。
戦争という事態は想像力でつかみ取れるほど簡単なものではないでしょう。
力が全ての世界が眼前で展開されていたに違いありません。
終戦直後の混乱の時期において、当時の人達が衣食住をなんとかしなければならなかったときに、
人を思いやる気持ちが「大きな力」となったであろうことだけは、貧しいわたしの想像力でも理解できると言い切ることができます。
生きる力を与える「大きな力」が。
助け合う気持ちが行為となり、そこかしこで自然発生したに違いありません。
なぜなら、わたしたちは人間(社会的存在)なのだから。