地上波初登場でかぶりついてしまう
みたいみたいと思いつつ、見そびれていた作品がTVで放映。
ということで、「シン・ゴジラ」見ました。
大変面白かったです。
観るものに対して解釈可能性をどこまでも提供しながら、1級のエンターテイメントに仕上げる手腕は嘆息ものです。
なによりも二時間以上を飽きさせない演出力には素直に脱帽です。
以下、言葉遊び的に映画を見終わった感想を書いていきます。
新・ゴジラ
日本国制作としては12年ぶりの新作だそうです。
評判も概ね好評のようです。
なによりも現代に見るべき作品に仕上がっているところが凄い。
真・ゴジラ
原点回帰のような正攻法の作りが本家本元感を一層醸し出しています。
アメリカ作品との比較においてこちらが正真正銘と日本人ならば思わざるをえない出来です。
神・ゴジラ
巨大不明生物ととりあえず名付けているものの、人知を超えた存在であるがゆえに神とみなしていることは明らかです。
ゴジラを神とみなすことは欧米圏にあっては共有できない感情なのかもしれません。
ここらあたりがアメリカでいまいちヒットしない所以なのでしょうか。
神に刃を向けるとはなんと大それた罰当たりであることか。
臣・ゴジラ
大衆はどこまでもマスとして描かれています。
政治家が、大臣が、どこまでもクローズアップされています。
日本国にリーダーシップが不在であることをこの映画はいささかも主張していません。
そうではなく、決断とはいかに大衆とは無縁であるかが語られているだけなのです。
進・ゴジラ
ゴジラは生物の最終進化形として描かれています。
劇中において驚くほどのスピードで実際ゴジラは進化します。
二足歩行へ。
身の丈が二倍あまりも巨大化していくのです。
と同時にゴジラの取る進路は破壊を避けられません。
進化(原子力利用)の先が破壊でしかないことのひとつの文明批評が成立しています。
深・ゴジラ
海底深く不法投棄された核廃棄物を食らいゴジラはゴジラとなりました。
当然に米国はそれをウォッチし続けていたのです。
彼らの頭にはそもそもの始めから「核をもって核を制す」しかなかったのかもしれません。
慎・ゴジラ
ゴジラに対する総攻撃をいないはずの住民の人影を認めることで総理は中止を宣言します。
これは上陸しないとの識者の見解を受けて記者会見で発表した矢先に上陸されてしまう自らの面目丸つぶれと対をなすコントラストを示します。
このような失敗を回避せんがために躊躇は臆病と、つまり決断力のなさと映ります。
けれども、このような慎重はリーダーとしての当然の慎ましやかさと地続きであることこそあなたは見逃してはならないのでしょう。
唇・ゴジラ
本作は異常にクローズアップが多出します。
要するに俳優の顔を見ろというサインなのでしょう。
米国大統領特使のカヨコ・アン・パターソン役の石原さとみの豊穣なる下唇。
防衛省統合幕僚長である財前正史役の國村隼の怜悧な上唇。
日米間のコンプレックスな感情が唇に収斂しているかのようです。
侵・ゴジラ
侵入者としてのゴジラ。
突然の侵入により、侵略が起動します。
米国を筆頭に世界が一斉に日本に侵攻しようとするのです。
暴力をちらつかせ、あくまで復興支援として、和平的に。
外交が牙をむくのです。
信・ゴジラ
若きリーダー候補たちはあくまで自国の底力を信じています。
作戦の成功を信じます。
政治家の信念が日本国という器の破壊を食い止めるのです。
震・ゴジラ
多くの人間が指摘するように、この物語を見るものはごく自然に東日本大震災を想起します。
圧倒的な暴威による日常の崩壊です。
突然の絶望に人々はただただ震え上がらざるをえません。
審・ゴジラ
総監督が庵野秀明であるために必然的にエヴァンゲリオンとの相似を認めてしまいます。
最後の審判を下すがごとく無慈悲にゴジラ(使徒)が現れるのです。
最後の最後に核攻撃という世界からの審判を日本国はかろうじて回避し、物語は終わります。
針・ゴジラ
最後の作戦である「ヤシオリ作戦」において重要な役目を果たすのは言うまでもなく、クレーン車と特急列車です。
スクリーン上では棒状というよりもほとんど針と見紛うばかりの印象をあなたに与えるでしょう。
いくつもの一刺しが功を奏するのです。
親・ゴジラ
どこまでもあなたにとって本作は顔なじみの親しい存在であるはずです。
国難に対し正面から立ち向かう政治家たちは権謀術数をあからさまに駆使しません。
ハリウッドの演出との決定的な違いがここにあります。
想像してみてください。
ゴジラを人食いグマに。
政府関係者を村の長老に。
舞台を前近代の村落共同体に置き換えてみましょう。
それほど違和感なく物語が展開しエンドロールを迎えることが容易に想像できるはずです。
本作はあなたにとってとても馴染みのある親しい日本の物語なのです。
身・ゴジラ
この映画は身体の映画と言えます。
ゴジラの身体の変化が主題です。
圧倒的な力を有する身体は身体であるがゆえに日本国民の前に屈します。
なぜなら身体とは生物的な限界を意味するからです。
生物である限り無敵ではありません。
ゆえに本作は宗教的側面を巧みに遠ざけることに成功したのでしょう。
清・ゴジラ
怪獣映画、娯楽映画の矜持を死守するために、破壊は描かれていても凄惨は排除されています。
よって幅広い世代がある種の安心感をもって見ることを可能にしました。
映画的な清々しさがここに実現されています。
心・ゴジラ
いくつもの解釈を可能にしながら、エンターテイメントとして成立している本物の映画です。
多くの人の心にいつまでも残る映画の一つであると思います。
何度でも見たくなる傑作なのです。