監督森田芳光の最高傑作は今も色褪せない
1983年公開の本作は、その年のキネマ旬報ベスト・テン(日本映画)の第一位に輝きました。
その年に公開された主な邦画は次の通り。
「人生劇場」「卍」「時をかける少女」「戦場のメリークリスマス」「楢山節考」「細雪」「東京裁判」。あらためてラインナップを眺めるとランキングが激戦であったことが実によく分かります。
新進気鋭の監督であった森田芳光を一躍メージャーにした快作は、40年近くたった現在もいささかも古びていません。
すばる文学賞受賞作品(1981)を原作とする本作は、プロットを小説から借りているものの、映画はより重層的に組み立てられています。
以下、内容に言及しますので、あらかじめご了承ください。
ストーリー
風変わりな父の沼田孝助(伊丹十三)、専業主婦である母の千賀子(由紀さおり)、上位校に通う長男の慎一(辻田順一)、高校受験を控えた中学三年の次男茂之(宮川一朗太)の4人から構成される沼田家に、次男の家庭教師として、三流大学の七年生、吉本(松田優作)がやってきます。
「家族ゲーム」とのタイトルの通り、核家族化が進む当時の家庭が抱える問題について、時にユーモアが溢れ、時にシニカルなタッチが前面にせり出すシュール劇という見方が、本作に対する一般的な評価となります。
実際、家庭教師の吉本と受験生の茂之とのやりとりは、独特の間合いと切れ味鋭いセリフの応酬から、観客を一瞬たりとも飽きさせません。
松田優作、伊丹十三、由紀さおり、宮川一朗太という類稀なる才能をキャスティングした時点で、本作が傑作となることは約束されたも同然でした。
その「化学反応」は、おそらく監督の想像を遥かに超えたものであったと想像します。
横並ぶ食卓
原作を下敷きとして第一義的にテーマとして取り上げられているのは「家族関係の脆弱性・偽善性」であると言えるでしょう。
社会を構成する基礎的単位である「家族」という幻想が、もはやその機能を果たせないような「地点」にまで来てしまっているという当時の人々の予感や直感を、森田は掬い上げたうえで誇張し、滑稽にかつ巧妙に描き出しました。
その手際の良さに、誰もが驚嘆し、劇中の家族の奇妙さを笑う自分たち自身が、単に「鏡」を見ているに過ぎないという批評性を観客に突きつけた意義は大きかったはずです。
本作を語る時に常に象徴として取り上げられ、誰もが直ちに想起してしまう、横並びの食卓の構図は見事というほかありません。
団地の間取りの狭さからくる物理的必然性が、向き合うことをしようとしない家族の心情や関係性を鮮やかに切り取ります。
横並びという構図はコミュニケーションの貧困や不在を象徴すると共に、メンバー間の階層がフラットであることも雄弁に物語ります。
奥行きのない構図が、登場人物たちの人としての深みの無さや関係性の希薄さを顕在化させます。
ここでは、家父長的威厳は消散し、誰もが個人として公平の立場を担保されながらも、誰ひとりとして責任ある主体としては個が確立していないことが如実に表現されているのです。
誰も責任を取らないのであれば、全員に責任があるという「道徳性・倫理性」は見事に枯れ果てています。
森田は、いつ空中分解してもおかしくない、もしくはもうすでにバラバラになっている家族(人間)の関係を、地上から離れた団地の一室を舞台に選び、その不安定な物理的位置(高層)を通して、クールに私たちの目の前に差し出しました。
動かない乗り物
本作は移動手段としての乗り物がその運動性を基準に周到に選別されていると言えるでしょう。
乗り物としての役割を果たしているのは吉本が乗る「船(ボート)」だけとなります。
次男が唯一興味を持っているジェットコースターの模型の球体運動はそのダイナミズムを強調されてはいます。
しかしながら、これは彼の自閉の強固さを表すものに過ぎず、堂々と乗り物であるとは言い難いので除外していいはずです。
沼田家のマイカーは決して道路を疾走することはなく、マンションのエレベーターに乗っているシーン(エレベーターの直線運動性)は意図的に排除されています。
同様に、長男が訪ねるクラスメイト(女子)が居住する屋内エレベーターのシーンは全くの静止画(エレベーター内部であることの意味性の極端な剥奪)となっています。
次男が同級生に毎度連れて行かれる原っぱを走る路線バスは確かに走行してはいるものの、後景の一部として鎮座しているような疾走感(動体性)のなさです。
これは何を意味しているのでしょうか。
沼田家の人々のコミュニケーションの渋滞性・停滞感が象徴的に表現されていると言えるのです。
吉本の沼田家への積極的な意思疎通ぶりが目立つばかりで、それ以外は、全くといっていいほどに関係者間でコミュニケーションが成立していないことが乗り物を通じて語られているに違いありません。
本作の特徴として音楽を使用していないことが指摘されます。その代わりに生活音が効果的に画面に緊張感と豊穣性を与えます。見事と言うほかありません。例えば、コミュニケーションの観点から音楽が取り除かれた事実を考えるならば、生活(コミュニケーション空間)には、いかに「ノイズ」が多いのかが雄弁に語られているのでしょう。ここで言う「ノイズ」とは、個人が他者に届けようとする意思に基づかない音響的個別性に他なりません。
多義的な解釈を可能にする
後世に語り続けられるマスターピースは、総じて多義的な解釈を可能とする豊さを持ち合わせているものです。
「家族ゲーム」も例外ではありません。
そこから何を汲み取るのかは、観客の自由であるはずです。
解釈のひとつとして、私はそこに「戦後日本の姿」を認めました。
戦後日本の姿
沼田家とは「戦後日本」それ自体と見なせないでしょうか。
沼田家との対比から、家庭教師の吉本は「アメリカ」であると言い得ます。
彼は沼田家に「船」に乗ってやってきます。
これは海を渡って来た異文化に沼田家=日本国が支配される行く末が表現されているのでしょう。
彼が子供向けの図鑑を手にしながら毎度沼田家を訪れるのは、「科学技術」を背景にした「統治」を想像させます。
と同時に、対象者(我々=日本人)の文化的民度(成熟度)も匂わせているかのようです。
次男の受験に対する両親の役割放棄は、政府の無責任政策や防衛体制の丸投げを容易に連想させるはずです。
次男の進路変更を吉本に押し付ける母親(その背後に隠れる父親)の無責任ぶりは滑稽の一言に尽きます。
目を背けてはならない世界の紛争危機を全くの対岸の火事と決め込むジャパンが二重写しとなるでしょう。
高校合格後の祝いの席を長回しで撮影した賛否両論のシーンは、吉本(アメリカ合衆国)の怒りの爆発で幕を閉じます。
ここで描かれているのは、一線を超えてしまうとあなた方(沼田家=日本国)は途方に暮れますよという、日本列島を隙間なく覆う想像的抑圧に他なりません。
料理と食器が壊滅的な惨状を呈する床の掃除を家族四人で無言に行うあり様は、ここから家族の再生が始まるというよりも、爆撃の後の放心を表現しているといってしまった方がより納得感を増す描写となっているのです。
本作を初めて見た時に、すぐに思い出されたのは、川島雄三の「しとやかな獣」です。団地の一室を舞台としている点やアクロバティックなカメラワークなどの多くの類似性があげられます。
エンディングが表現するものとは
多くの解釈を誘い出すラストシーンは非常に印象深いものです。
沼田家を戦後日本と仮定するのならば、この場面での解釈も結論へは一直線となります。
すなわち、
午睡を貪る兄弟と母親は、疑いもなく平和を無条件で享受する日本国の姿に他ならないのです。
ヘリコプターの爆音が基地を離着陸する米軍機のものであることは今更いうまでもないでしょう。
合衆国の軍事的庇護のもと、経済的な繁栄を日本が謳歌できるのは、映画が公開されてから数年後の我が国の未来であることはもうすでにご存知の通りの歴史的事実です。
窓の外のヘリコプターの音に「何かあったのかしらね」と優雅に言い放ちながら、窓を少しばかり開け、すぐに閉めてしまう母親の一連の行動に、平和に対する日本人の鈍重さが的確に示されています。
ところで、
巧妙な森田は、このラストシーンをヒントとして、作品の解釈にバリエーションを与えています。
もうひと工夫ありました、と言わざるを得ません。
ここで我々は、衝撃的な「三島事件」を想起すべきなのです。
三島由紀夫の自決
ラストシーン近くに、長男が唐突に武道に興味を持ち始めたことを違和感とともに思い出してください。
彼が空手の組み手を正座をしながら見学し、その背後にデカデカと日章旗が映し出されているのは偶然ではありません。
作家三島由紀夫が、市ヶ谷の自衛隊駐屯地に憲法改正を呼びかけ、同志の楯の会メンバーとともに立て篭りを図り、割腹自殺を遂げた1970年の事件を念頭にラストシーンを見直してみてください。
兄弟が死んだように眠っているのは、「死んでいる」からに他なりません。
彼ら兄弟は、ある種の「義兄弟」である自害した三島とメンバーの森田必勝に自ずと重なるはずです。
加えて、眠ってしまう母親は、ひとつの「理念」が三島の死とともにこの世から消えてしまったことを象徴しています。
理念とは、三島が考える、連綿と続いてきた日本国の正統性(栄光)であると言えるでしょう。
窓の外の爆音は、事件が発生した当時の報道ヘリコプターの飛行音に苦もなく重なります。
森田が、三島事件を容易に想像できるような演出をなぜ施したのかのその意図は不明です。
おそらく、制作当時の日本の変化(地殻変動)というものを感じ取ってしまったからなのでしょう。
その意味において、森田は三島とシンクロ(共振)したと言い切れば、想像が過ぎるでしょうか。
社会的・経済的・文化的地滑りは静かに列島中に進行していました。
家族関係の自壊はその現れのひとつであったのかもしれません。
時代の見えない動きに敏感に反応したフィルムは、時代を超えた傑作へと紛れもなく昇華しました。
機会があればぜひご覧ください。