世界のキタノの最新作は「時代劇」だった
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『その男、凶暴につき』(1989)で初メガホンを取って以来、6年ぶり19作目の監督作品となる北野武氏の『首』は、第76回カンヌ国際映画祭(カンヌ・プレミア部門)での上映後、本年11月23日より全国にて公開中ですが、キャストは北野組の常連を含めた豪華俳優陣の揃い踏みとなります。登場人物のひとりひとりに見せ場を用意する心配りの行き届いた演出が徹底されています。
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キャスト
- ビートたけし(羽柴秀吉)
- 西島秀俊(明智光秀) 加瀬亮(織田信長) 中村獅童(難波茂助)
- 木村祐一(曽呂利新左衛門) 遠藤憲一(荒木村重) 勝村政信(斎藤利三) 寺島進(般若の左兵衛) 桐谷健太(服部半蔵)
- 浅野忠信(黒田官兵衛) 大森南朋(羽柴秀長)
- 六平直政(安国寺恵瓊) 大竹まこと(間宮無卿) 津田寛治(為三) 荒川良々(清水宗治)
- 寛一郎(森蘭丸) 副島淳(弥助)
- 小林薫(徳川家康) 岸部一徳(千利休)
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以下に、少し長いですが本作について考えたことを書き記します。
作品論を中心に北野映画全般についても触れています。
内容に言及しますのであらかじめご了承ください(まだ観ていない方はご注意願います)。
kubi
想像力をめぐる他を寄せ付けないその演出術にあります。
四半世紀近くにわたり北野武作品が世界のクリエイターたちを刺激し続けるのは、凡庸な才能であれば、自らの想像力の拡張を目論み、本来観客が想像すべきものを実体化してしまい、映像体験を台無しにする愚から逃れることができません。
大胆な割愛を惜しげもなく執行する一方で、過剰なまでの映像的饗応を徹底します。ひとつの作品の中でベクトルの異なる運動が展開されているのです。
しかしながら、キタノ演出は、観る者のイマジネーションに委ねるべきところは一切の躊躇なく任せきることを目的とし、見せるべき必要なきものは無慈悲なまでに視界から遠ざけ、視界を覆うべき理由あるものはこれでもかと言わんばかりに濃厚かつ細密に見せつける演出こそが、彼を多くの映像作家から厳に隔てている証となります。
本作をご覧になれば、自身の「想像力の飛翔」を存分に楽しめることでしょう。
kubi
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欲動の騒乱
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本作では、日本史を学んだ人であれば馴染みが深い「本能寺の変」に焦点が当てられながら、戦国武将たちの首のかかったパワーゲームが繰り広げられます。
過去に多くの表現方法(媒体)によって描かれてきた有名な状況設定(信長のクライマックス)が借用されながらも、ここで切り取られているのは赤裸々な人間の欲動であり、欲動の騒乱です。
それは壮大なる乱痴気騒ぎであり、滑稽と魂胆でむせ返る「人間劇場」に違いありません。
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北野監督は、欲動を取り(撮り)上げるとき、性愛(情炎)ではなく暴力(死あるいは死を通しての生)に執拗にこだわり続けている映像作家ですが、当作品ではバイオレンス表現のより一層の追求が目指されています。
欲動に肉薄するために、現代社会から戦国時代へと舞台を変え、さらに闇の奥に向かって下降することとなります。
ごく簡単に言うのならば、欲動は自己の深い所より後から後から噴き上がってくるゆえに制御不能であり、つまりそれを無視したり飼い慣らしたりすることが土台不可能というほかなく、ひとたび暴れ出すと物語、規範、掟や制度により抑えつけることなど絶望的なまでに期待できないために、白旗をあげ飲み込まれるか、あるいは自らの命と引き換えの相打ちに持ち込むぐらいしか対抗手段は決して見つかりはしない「代物」であるのでしょう。
他人の命を奪うことと自らの生を断つことの見境がつかない欲動の奴隷たち(欲動の勝者たち)こそが「戦国の武人」に他ならず、それゆえに北野は「彼等」にカメラを向けたに違いないのです。
ここで述べた「見境がつかない」とは、他人の首を狙うために自らの命を賭けるといった覚悟では全くなく、突き上がってくる欲動に振り回されるがままにとりあえず他人の命を奪ってはいるが、なんなら自らの首でも一向に構わないといった心的状況下にあるというほどの意味となる。
バイオレンス表現の徹底化を鋭角的に推し進めることを目的とし、グロテスクばかりがやたらに瞳を覆ってしまわぬように、人殺しが常態化している戦国時代という「舞台」があえて選び取られているのでしょう。
その舞台は「良識派」の手が届かない、人権や命の尊重に関する省察とは無縁の「昔々(ロングロングアゴー)」の時空世界となります。
剥き出しの生が激しく乱舞する世界(ステージ)。
「野生の王国(非倫理的フィールド)」にあっては、無論のこと生命に重さも軽さもないのです。
「アウトレイジ」シリーズの単なる延長線として本作を評する意見もあるようです。
しかしながら、反社会的勢力の抗争という状況設定のリミットを超えて映像表現が志向されているために、コンプライアンス全盛の今日の表現を取り巻く時代的制約(映倫的規定)に鑑み、「戦国時代・武将」が消去法的に選択されたのだと思われます。
現代の東京を舞台にしてしまうと、斬首の応酬はNG確定となり、猟奇性だけが悪目立ちするスプラッターフィルムとなってしまうことでしょう。
首の映画である
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シンプルに『首』と題された本作は、ご想像の通り人間の首(命)をめぐる物語となります。
首が落とされた亡骸が浅瀬に転がる物語の幕開けでは、あるべきところに首がないために、かえって在ったはずの首の存在性がざわめきはじめます。
不在の寂静さを味わう暇もなく、物語は首取り闘争へと掻き立てられながら、ラストシーンにおいて「モノ」と化した首が呆気なく蹴り飛ばされ、その首(擬似サッカーボール)があるべきはずもないゴールマウスに吸い込まれるであろう妄想の瞬間の訪れとともに、唐突にエンドロールへと雪崩れ込みながら映画はひたすらに終息に突き進みます。
首の消失に始まり、首の退場に終わる眼前のフィルムが、紛れもなく首の映画に他ならないことを、同じことですが、血も涙もない残虐さのために血も涙も無い(枯れ果てた)物体に変じた首こそが主役の地位にふさわしい映画であったなと、あなたはただただ肯首せざるを得ないのです。
どの首も首を欲する
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ひとたび戦さとなれば、敵将の首をあげられない無様(たわけ)は何があっても避けるべき失態であり、武人の本分(魂・威厳・気骨)を左右しかねません。
落とされた敵の首は自らの勢力拡大と己の身の危険のとりあえずの回避を約束するものでしょう。
首を取られないために首を取り続けるデス・ゲーム(勢力争い)から誰も降りられないのです。
敵の手に自らの首が渡ることは武将にとっては死んでも死にきれない無念であると同時に、ある意味、武者としての存在価値の証明(誉れ)であると言い得ます。
欲しければ首をくれてやるとの大見得を切るためなのか、武士は武士であることを命尽きるまでやめないのです。
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底辺を抜け出したいと乞い願う農民や地べたを這う下級武士どもにとって、敵の大将の首を取る(手に入れる)ことは、微々たる人生の一発逆転を可能とする「値千金」に違いありません。
一方、自衛と略奪を兼ねた落武者狩りに精を出す農民たちには、侍の首とは(多い少ないに関わらず)金品との「引換券」程度の意味しか持たないのです。
山菜取りやキノコ狩りに極めて近かったといえば、口が過ぎるでしょうか。
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首の扱いよりどりみどり
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正真正銘の第一級の首であった信長及び光秀の首の行方は今もって史実上の謎ですが、監督の北野は独自の解釈を本作で展開します(何十にも及ぶ諸説があるそうです)。
あなたが見るべきはその解釈のユニークネスではなく、首に対するアイロニカルな扱いの手触りの方でしょう。
後述する、信長、光秀、宗治、そして村重や利休にその感触が端的に表現されています。
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信長
理不尽を強いられてきた家臣の弥助に信長は実にあっさりと首を刎ねられます。燃え盛る本能寺において弥助は主君の首を引っ掴み、炎の中に消え去っていきます。
明智軍の必死の捜索を嘲笑うかのように、弥助は未来永劫「彼(戦利品)」を独占するのです。
武将としての最期に自らピリオドを打つことを許さず、独裁者の生涯の決算を宙吊りにすることが、男色としての衆道に触れている本作においては、主君への歪な「愛」の形であったといえば、やはり言い過ぎでしょうか。
光秀 首
山崎の戦い後に秀吉が実施する首実検において、落武者狩りの「成果」として光秀と茂助の首はたくさんの首の一部として持ち込まれ並べられます。
かろうじて茂助の首ではないかと秀吉たちが首を傾げる一方で、顔の原形をとどめ難い光秀の首は本人と断定されることなく、言葉本来の意味で秀吉により足蹴にされます。
もはや光秀の首など大勢が決した今、まるで(首のない胴体のように)無価値であるのだと非情にもラストシーンは断じます。
宗治
和睦の条件としての清水宗治の切腹(辞世の句:浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して)は、船上にて厳かに時間をじっくりとかけて執り行われますが、水面へと転げ落ちた介錯後の首を家臣が慌てて拾い上げようとし、自らも無様に落水するシーンは、現代のお笑い番組のドタバタコントを観るものに容易に想像させてしまう演出が意図されているかのようです。
義に厚く仁を重んじる武将の首が笑いの単なる小道具に一瞬にして転化する様がフィルムの表層を疾走します。
村重
冒頭シーン直後に、攻め込まれる有岡城を後に退散する家臣に対して逃げるなと連呼し孤軍奮闘ぶりを発揮しながらも、落城するやあっさりと姿をくらましたが早々に捕えられる村重。右手に悲壮感、左手に可笑しみを握らせる演出には脱帽するしかありません。
後半に至り、その生死をめぐる駆け引きの顛末からもはや首をとる対象(意味)ではなくなってしまい、首が落とされることもなく木の檻に入れられたまま、崖から突き落とされます。
かつては名の知れた武将であったことなど全否定される程の扱い(命)の軽量さが、淡々と描かれているのです。
利休
史実として最後は秀吉に切腹を命じられる茶人は本作では首が落ちることはありません。
戦国の世の荒波を巧みに泳ぎわたる「芸術と政治に通じた経済人」は劇中において次のようなセリフを口にします。
わては毎朝、自分の首をよう洗うようにしております。天下平定まで、着物の襟はパリッとキレイにしたいもんですわ
慣用句的には「首を洗う(首を洗って待っている)」とは自らの犯した罪を自覚しながら裁きを待つ心情を表わすことから、利休自身が権力の中枢に深く関わり過ぎたので、いつかは口封じをされるとの覚悟が仄めかされているのでしょう。
天下平定という大義のために自分はどのような汚れ仕事にも奔走するが、芸術家(文化人)としての美意識は片時も枯れることなく、いつでも死ぬ覚悟はできている(武士の如き)矜持が吐露されているのです(シミひとつない雪の如き死装束のイメージ)。
残りの主要人物である秀吉と家康については次のように言えるでしょう。
- 秀吉
- 家康
天下統一に辿り着いた二つの首には死神も追いつけませんでした。
一点集中キャラ
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商業シネマである限り、劇場での上映時間という物理的制約からどのような映画も決して逃れることはできません。効率よく儲ける・稼ぐの立場からすれば、上映時間が12時間を超す「超大作」を映写したい映画館などほぼ皆無のはずです。
現代の資本回収の観点より、本作も観る者の理解を促進すること(尺の巻上げ)を目的とした、潔い「交通整理」が講じられています。
そのひとつが、登場人物の造形における振り切ったキャラクター設定となります。
信長・秀吉・家康の三人ともに、ある角度から強烈に光をあてて、キャラクターをわかり良く立ち上げているために、全体像把握のキーとなる「体臭」や「心根」が影に隠れざるを得ない人物描写となっています(二時間あまりの物語の中で、ひとりひとりの解剖学的掘り下げなど考えるまでもなく不可能であろう)。
信長
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信長の類を見ない革新性(先進感覚)は一切合切切り捨てられ、賛否は分かれますが残虐性のみが極端にデフォルメされています。
黒マントをひるがえすご乱心が通り過ぎた後には、理不尽だけが四方八方に飛び散り、怨嗟の炎があちらこちらで揺らぐばかりです。
絵に描いたような暴虐性を体現する本作の暴君信長は、刀で口内を血まみれにした村重の唇を吸い上げる行為に代表されるように、愛情表現の最上位が暴力であると言わんばかりの振る舞いに終始します。
炎上さなかの本能寺における森蘭丸への有無を言わせぬ介錯もこれと同様の「アイラブユー」なのでしょう。
この意味において、彼は「愛の人」であるのかもしれません。
家康
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信長、秀吉、家康のキャラクターをひと言で表現する場合に、頻繁に引用される時鳥に関する句の中で「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」というフレーズはご存知の通り、家康の性格(人生哲学)を表す句として有名です。
「鳴くまで待とう」と耳にすれば、徳川幕府の礎を築いた巨木のイメージからの「泰然自若感」や「鷹揚さ」を想像するかもしれません。
けれども、本作で描かれている「飄々とした身のこなしの軽やかさ」や「間一髪を実現する逃げ足の早さ」、つまり、影武者の執拗な用意に代表される「病的なまでの臆病さ(石橋を叩いた後に身代わりに渡らせる神経症的細心)」こそが「鳴くまで待とう」を可能とする「土台」に他ならないのです。
家康が持する強かな老獪さが飄々とした身軽さに集約されているがゆえに(柳に風のごとき勁さは十分に伝わっている)、重厚感や思慮深さという特質が遥かに後退する造形となっているのでしょう。
秀吉
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秀吉は、ひと言で言えば人を化かすタヌキのようなズル賢いサルとなるでしょうか。
しかしながら、戦国の世を生き抜く武将の必要十分条件が「強かさ」であるために、キャラの被りはある程度は仕方がないのですが、間抜けなサルに化けた食えないタヌキの方がむしろしっくりくるのかもしれません(演者ビートたけしの風貌・容姿に引っ張られているわけではない)。
サル知恵と思わせながら、その実、タヌキのように至極鮮やかに人を騙します。
滑稽を身に纏い低頭を徹底する策士は人にすり寄り説得し、好機を断じて見逃さない才の塊です。
人に仕えることに飽き飽きした男は、ひとたび「使える」とみるや、その人物の「取扱説明書」をスラスラと書き上げ、「賞味期限」を算定します。
光秀から新左衛門まで、誰もが手の内を隠す秀吉の手の中で踊り、駆けずり回るのです。
彼は桁違いの観察眼と知的腕力を持つ極めて優秀な「猿回し」であったに違いありません。
求めても決して手に入らない
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首取り合戦の様相を呈する本作品の主題のひとつは「求めても手に入らない。それが(だから)人生である」という教訓(真理)なのでしょう。
あるときは悲劇の幕、あるときは茶番の幕、また別のときには皮肉の幕が上がり下がります。
強制退場させられます。
信長は家康の息の根を止めようと何度も試みますがことごとく失敗し、また愛憎半ばする村重の身柄を求めながら、突然にこの世から自らの首を落とされます。
光秀は憎き敵将(信長)の首を懸命に捜索し所望するも、その首を抱くこともなく醜女を指名しますが、職務を淡々と果たす配下は女を斬り捨てます。
家康は一夜の供として光秀の心を強く欲しますが、彼の愛はすでに村重のもとを去っているのです。
村重は同根である農民どもに命(夢)を奪われます。
茂助は侍大将を夢見ますが、主要な登場人物たちと比較し、異質なのはやはり秀吉です。彼はどうあっても埒外なのでしょう。
腹黒いサルは望んだもののすべてを手中に収めるのです。
信長の書状の買取に成功し、和睦を成立させ、主君の死を手繰り寄せます。
けれども、ひとつだけ(すぐそばにあるにも関わらず)、光秀の首だけは手に入りません。
探しても見つからないとなるやいなや、途端にそんなものは要らないと、手のひらを返します(蹴り飛ばします)。
首が主題の映画にあって、首を欲しがらないその言動から明らかなように、彼はどこまでも例外的な存在(規格外)に違いありません。
人体の一部としての物理的な首に過剰な意味を求めず、その象徴性に一片の価値をも見出さない秀吉の首(命)こそが今や最も価値あるもの(天下人)へと競り上がっていく、その逆説性を監督は鮮やかにあなたの目の前に差し出すのです。
価値をめぐって
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よく知られた江戸時代の落首(世相を風刺した狂歌)のひとつである「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」(この歌を題材とした絵師歌川芳虎の版画『道外武者御代の若餅』も有名)の通り、一般的には、織田信長は変革者(革命家)であり、その路線を秀吉が継承し、家康が完成したと評されています。
しかしながら、その畢生、思想や方法論はやはり三者三様です。
信長 | 秀吉 | 家康 |
---|---|---|
ザ・狂人 | 腹黒いサル | 抜け目のないタヌキ |
首を刎ね続けた一生 | 首を賭け続けた一生 | 首を取られることから逃げ続けた一生 |
価値の絶対化 | 価値の相対化 | 価値の恒久化 |
何度も重なり合った人生の途上で、「天下統一」に向かって「存在(生存)価値」を高めるために、それぞれが「価値というもの」に粘着し、拘泥していきます。
信長は価値の絶対化を叫び、秀吉は価値の相対化を徹底し、家康は価値の恒久化を祈るのです。
- 暴力と緊張を操る信長にとっての価値とは「己自身」です。それ以外の価値を「生きるも死ぬも俺次第」の魔王は決して認めません。価値の絶対化とは、自己以外の存在の殲滅(この世の人間を全部血祭りに上げる)を意味します。
- 煮ても焼いても食えない家康が求めるのは信じる価値が決して廃れないことなのです。(自身が守り抜きたい)価値が未来永劫続くことそれ自体が、彼にとっての「価値そのもの」であると言えます。
- 結果が全ての秀吉には「天下統一」を別格として、それ以外のどのような価値も「同等」であるのでしょう。つまり、すべてが等しく「無価値」なのです。相対化の嵐の前では「価値の高低」などいともたやすく消し飛びます。
あまりに絶対的な相対化
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旧来の価値観を踏み潰す「クラッシャー」である信長の後釜を狙う野心家は、武士の意気地や誇りを最大限に利用し、天下取りのためであれば恥も外聞も一切構わない姿勢を断固貫き通します。
出自が農民である秀吉は侍大将でありながら「正統」の武士とは認められてはいません。
所詮、親方様の「猿真似」であることは誰よりも彼自身が自覚しており、信長の家臣団の中での自らの「異質性」をはっきりと認識しています。
この異質性(異物感)こそが彼の力の源泉となります。
サルと揶揄されてきた男の真の武器は、群を抜く行動力や追随を寄せ付けない知略ではなく、恐ろしいまでの「相対化の徹底」です。
「絶対化(恒久化)」が武士の原理に基づく「絢爛たる力の行使」であるのならば、「相対化」とは農民の哲学を下敷きにした「忍耐強い地道な作業」と言うことができます。
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農民の視点(思想)による武士的な価値観の完膚なきまでの相対化が、彼の才幹(真骨頂)に違いありません。
単なる否定であればそれはある種の「農民革命(鍬や鋤による下剋上)」となるのですが、日本一の出世男はあくまで武士の地位に留まりながら(利用しながら)、武士的価値(精神)を無に帰すように葬り去ります。
この相対化は相手の価値(観)の制圧ではなく、全ての価値(観)の解体が目指される、価値(観)同士の相殺(共倒れ)の徹底化と言えます。
天下取りに向かって、あらゆる価値が無価値の泥沼の底(価値の墓場)に沈められていきます。
彼にとって長きに亘り唯一無二の価値であった「天下統一」は、ある意味「朝鮮出兵(その先にあるのは明国の征服)」によって相対化されたと言えなくもないが、ここでは指摘するに留めます。
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相対化の権化である秀吉が実践する「圧倒的な相対化」とは、別の表現を借りるのならば「清々しいまでの使い捨て」と言い換えられるはずです。
天下統一の「御前」では、全ての価値は平等(つまりは差がないのだから必然的に全ての価値は無価値)となり、何ひとつ手元に置く必要などなくなります。
安土の天守を超えるために、彼は思いつく限りの全てを使い捨てます。
サルの前では、金も言葉も、兵も水も忍びも、主君も信頼も、何もかもが等しく使い捨てるための単なる「用品(通過点)」でしかないのです。
使い勝手のいい元忍びも切れすぎる軍師も、散々使い倒した挙げ句にそのうちに切り捨てよう(殺害)と密かに企んでいます。
彼の瞳の中央に映るのは、信長の黒星に燃え盛っていた絶対化が実現する絶対価値などでは決してなく、絶対的な相対化を支える使用価値であったに違いありません。
ラストシーンの「首なんかどうでもいい(死んだ事実だけが大事)」との秀吉の啖呵は、現実至上主義者(相対主義の化け物)の「勝利宣言」なのです。
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相対化の徹底としての演出
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北野武の演出は、役柄の秀吉と同様に「絶対的な相対化」が目指されているかのようです。
ここで述べる「相対化」とは、既存の伝統的価値観(通念)を無効化(陳腐化)する試みを意味します。
常識の揺さぶり。権威の引きづり下ろし。通念の転倒。アンチとカウンターが数えきれません。
唯一絶対や未来永劫などというものはこの世に存在しないし、自らの価値観を含めすべての価値観の優位性をなし崩しの死へと誘う企て(ディレクション)なのです。
クライマックスや大円団、音楽的扇動、包装されたセリフ、終わりなきテイク、史実への忠誠などを悉く排除(廃棄)するその手つきを、よくよく立ち止まり凝視しなければなりません。
『気狂いピエロ』(65)をあの時代に発表して、映画の作り方を一新させたジャン=リュック・ゴダールみたいなひっくり返し方で、映画はもっともっと進化しなきゃおかしい。それに俺自身、こうでなきゃいけないっていう既存の常識をぶっ壊してスゴい映画を作りたいと思っているんでね。
公式サイトの監督インタビューより抜粋
- 大河ドラマに代表される「キレイな戦国絵巻・武勇伝」を骨抜きにする武将たちの下世話・破廉恥ぶり。
- コンプライアンス全盛の風潮に真正面から風穴をあけていく、人間の死を無機的・無感覚なレベルにまで押し上げる(押し下げる)ことを目的とした斬首のオンパレード。
- 嫁と子供の惨殺を目の当たりにして自由になったと断言させる、生ぬるいヒューマニズムへの宣戦布告。
- 侍大将の目を見張るような活躍ではなく、後方での高みの見物的な指揮や川を渡る時の疲労困憊に起因する嘔吐の汚らしさが連想させる存在の醜悪さ。
- スポーツ(マラソン等)と戦さが実のところ同根であると言わんばかりの秀吉軍のとんぼがえりにおける給水や握り飯の提供風景の現代の競技中継との二重写。
- シリアスな合戦絵巻の持続的期待をたびたび脱臼させる笑いの闖入。
- 本能寺の変をド派手なクライマックスとして決して位置付けない、一歩引いたアンチクライマックス的構成。
- 家康と影武者の交代が役者とスタントの入れ替わりと見間違えるほどのボーダーレス化。
- 多様性を逆手に取った、異形の者たちの無秩序な乱舞的登場かつ浪費的退場。
ピカソの絵なんか見ちゃうと、風景画や写実的な絵の何がいいんだ?って思うよね。それと同じ感覚になるような映画を作りたいという想いがずっと続いているんだよ。
公式サイトの監督インタビューより抜粋
史実へのアプローチを含めた今回の彼の試みを定説(通俗)とは毛色が異なる北野流解釈、洒落っ気したたる戯作精神、あるいはカネのかかった悪ふざけと安直に括ることは、単純化が過ぎます(そもそも北野は「風景画」や「写実的な絵」を撮る意志が毛頭ないのです)。
ましてや本作を「アウトレイジ」の戦国版とする一面的な理解は笑えない冗談にもなりません。
笑いと死
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本作品における「笑い」の質と量については意見がさまざまに分かれているようです。
「緩急」の程度や限度について触れていたり、シリアスで押し切り、ユーモアの余地を極力減らすべきだとの所感も目にとまりました。
時代劇に対して頑なに厳粛や清廉を求める守旧的発想なのでしょう。
少なくない「笑い」の導入が不可避(不可欠)であったことには、もちろん理由があります。
北野が本作で描きたかったもののひとつは、偶然と突然に蹂躙される人の生き様(死に様)です。
『首』には二種類の「死」が配置されています。
村重の一族郎党が皆殺しとなる「悲壮感と同情が滴る死」と「道端の石ころと同等の死」です。
前者は信長の残虐性を際立たせるために須要な(史実に基づく)演出上の死であると言えます。
このような無条件に物語として消費される死ではなく、北野がフィルムに収めたいのは当然に後者となります。
人の死は、たまたま突き出す足に当たれば前方に転がる(蹴飛ばされてしまう)砂礫と等しく、意味や無意味から距離あるものとして唐突かつ淡白に描かれなければならないのです。
それもあって、初期の作品から“死”をドラマにしたり、劇場型にはしてこなかった。生死の問題はそれだけでものスゴいことだから、飾り立てない。映画やテレビがよくやる大袈裟な“死”はその痛さや残酷さをかえって疎外していると思っていたので、ほかのどうでもいいシーンはこってりやって、“死”は呆気なく描く。そこは昔からずっと変わっていないね。
公式サイトの監督インタビューより抜粋
北野が観客の眼前に差し出したいのはある種の「自然死」であり、それは次から次にスクリーン上で明滅します。修飾や感傷が押し除けられその位置を事実が占めるばかりです。
死の構成要素としての「自然性」、言い換えるならば「(悲)劇的」ではなく「否劇的」としか名づけようのない代物であると言えます。
死が無防備に纏う悲劇性(過剰な意味性)を洗浄する必要が求められているのです。
都合よく「悲劇」に回収されない自然現象としての死、つまり人間の死でありながら「人の手垢」が根こそぎ拭き取られ、「人生の体臭」が脱臭された純粋な概念性に満みちた「死」の表現が目指されたために、悲劇性の中和剤(相対化)としての「喜劇性」が持ち出されたのでしょう。
先に引用したインタビューにあるように、北野は「死は呆気なく描く」を心がけています。
これは本作も例外ではないのですが、であるならば、なぜシリアスベースの過去の作品と比較して本作ではこれほどまでに「笑い」がブレンドされているのでしょうか。
理由のひとつとしてここで指摘したいのは、『首』の中で溢れかえる夥しい死に対して観る者が結果として「不感症」に傾くことを止められない事態を回避せんがために、ある程度の物量の「笑い」が投入された点です。死に付着する悲劇性の除去(解毒)として喜劇性が呼び出されたと言えるでしょう。
想定される反論として『アウトレイジ・シリーズ』においても少なくない死体が転がったわけだから、「不感症」の観点より同シリーズに「笑い」が見当たらない理由に関して説明を求める異議があるのかもしれません。ごく簡単に述べるならば、『アウトレイジ・シリーズ』がフォーカスしているのは死そのもの(死の本質)ではなく、死が独占的に所有している「恐怖」の方であるゆえに、死体の増加に従い恐怖は陰影を色濃くしていきます。よって「笑い」の出る幕など全くないに帰着することとなるのです。
ひとつひとつの死は呆気なく描かれたとしても、斬り取られる首の数が増すごとに、観る者が抱く死に対する観念は「不純物」で一杯になっていくことでしょう。フィクションとはいえ、人の命が奪われることに慣れ過ぎてしまうのです。
北野は、観客が死に対して無感覚や無関心な態度で接することを求めているわけではなく、あらゆる感情を拒絶する死の概念性に強襲されたときに、人は無理解や無感動と等しい「感覚(それはある種の「意味(無意味)の回収不能状況」と言い得る)」に陥らざるを得ないという「自然状態」を描こうとしているに過ぎません。
物語の進行において悲劇性が隙間から入り込まぬように喜劇性を用いて塞いでいるのであり、同時にスクリーンに映し出される「死」から詩情や無情は遠ざけられることとなります。
感情という「水気」が一切抜け切った「死」を表現するために、感情の爆発の典型である「笑い」が召喚されるその逆説性がなんとも北野監督らしいと言えば言えなくもありません。
明・渚・武
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映像作家北野武の直接・間接的な「師匠」は大島渚と黒澤明と言われて久しいですが、本作には彼らの作品群の映画的記憶が慎ましやかに、そこかしこに散りばめられています。
大島渚(1923-2013) 岡山県出身の映画監督、脚本家。 代表作:『青春残酷物語』『日本の夜と霧』『新宿泥棒日記』『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』『御法度』
映画史とは遺産継承の歴史であり、その意味において映画は紛れもなくアートの領域(参照・引用・模倣・反復)に属している「公然の事実」を今一度思い出すべきでしょう。
北野監督が「相続」した彼らからのギフトとは、人間の業を通じた逆説的な人間讃歌のスピリットであると言い切っても、もはや構わないのかもしれません。
本作をこれまでの時代劇・戦国武将を取り巻く作品群との「拮抗」というような貧しい目線で捉えるのではなく、首というタイトルを持つ「価値観(人体)の解体ショー」が、欲動が蠢く人の心の闇の奥に足を踏み入れていながらも、ショービジネスとしての高次のクオリティを達成している「容姿(複層的構成)」をまずは認めるべきなのでしょう。
映画は視覚的要素を抜きにしては成立しない総合芸術である「キネマ的常識」を無視するつもりは全くありません。そのような行為は単なる暴挙です。
とは言え、
首が右往左往する波乱と混沌に満ちたこのエンターテイメント作品において、何が生み出され、何が生み出されていないのか、はたまた、何が選ばれ、何が選ばれていないのか、さらに、何が捨てられ、何が残されているのか、つまり、何が描かれ、何が描かれていないのか、その殺気だったバランス(在と不在の相克)を見逃してしまう愚を我々は決して犯してはならないのです。
幾度もの鑑賞に耐えうる傑作です。機会があれば、ぜひご覧ください。