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映画「首」相対化の権化としての秀吉(北野武覚書)

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世界のキタノの最新作は「時代劇」だった

出典:公式サイト

『その男、凶暴につき』(1989)で初メガホンを取って以来、6年ぶり19作目の監督作品となる北野武氏の『首』は、第76回カンヌ国際映画祭(カンヌ・プレミア部門)での上映後、本年11月23日より全国にて公開中ですが、キャストは北野組の常連を含めた豪華俳優陣の揃い踏みとなります。登場人物のひとりひとりに見せ場を用意する心配りの行き届いた演出が徹底されています。

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キャスト

  • ビートたけし(羽柴秀吉)
  • 西島秀俊(明智光秀) 加瀬亮(織田信長) 中村獅童(難波茂助)
  • 木村祐一(曽呂利新左衛門) 遠藤憲一(荒木村重) 勝村政信(斎藤利三) 寺島進(般若の左兵衛) 桐谷健太(服部半蔵)
  • 浅野忠信(黒田官兵衛) 大森南朋(羽柴秀長)
  • 六平直政(安国寺恵瓊) 大竹まこと(間宮無卿) 津田寛治(為三) 荒川良々(清水宗治)
  • 寛一郎(森蘭丸) 副島淳(弥助)
  • 小林薫(徳川家康) 岸部一徳(千利休)

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コラム
ベストマッチング

キャスティングについては様々な意見を耳にしますが、はまり役としての衆目の一致は岸辺一徳氏の「千利休」となるでしょう。

このような人となりだったに違いない以外の感想が出てこないパーフェクト感。曲者中のクセモノ

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出典:公式サイト

パドー

以下に、少し長いですが本作について考えたことを書き記します。
作品論を中心に北野映画全般についても触れています。

パドー

内容に言及しますのであらかじめご了承ください(まだ観ていない方はご注意願います)。

kubi

四半世紀近くにわたり北野武作品が世界のクリエイターたちを刺激し続けるのは、想像力をめぐる他を寄せ付けないその演出術にあります。

凡庸な才能であれば、自らの想像力の拡張を目論み、本来観客が想像すべきものを実体化してしまい、映像体験を台無しにする愚から逃れることができません。

しかしながら、キタノ演出は、観る者のイマジネーションに委ねるべきところは一切の躊躇なく任せきることを目的とし、大胆な割愛を惜しげもなく執行する一方で、過剰なまでの映像的饗応を徹底します。ひとつの作品の中でベクトルの異なる運動が展開されているのです。

見せるべき必要なきものは無慈悲なまでに視界から遠ざけ、視界を覆うべき理由あるものはこれでもかと言わんばかりに濃厚かつ細密に見せつける演出こそが、彼を多くの映像作家から厳に隔てている証となります。

本作をご覧になれば、自身の「想像力の羽ばたき」を存分に楽しめることでしょう。

kubi

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欲動の騒乱

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本作では、日本史を学んだ人であれば馴染みが深い「本能寺の変」に焦点が当てられながら(物語は信長の首(死)に向かって突き進みますが、そこが極点ではありません)、戦国武将たちの首(命)のかかったパワーゲームが繰り広げられます。

コラム
敵は本能寺

本能寺の変 1582年に織田信長の家来である明智光秀は一万余りの大軍を率い、京都の本能寺に宿していた憎き主君を急襲しました。もはやこれまでと観念した信長は寺に火を放ち自害したと伝えられています。

敵将信長の首を光秀は見つけられなかったようですが、静岡県西山本門寺には、首が埋めてあると伝わる首塚が祀られています。

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過去に多くの表現方法(媒体)により描かれてきた有名な状況設定(信長のクライマックス)が借用されながらも、本作で切取られているのは赤裸々な人間の欲動であり、欲動の騒乱です。

ここでは、ロマンティックな成分が全くと言っていいほどに除去され、ヒロイズム的要素も周到に避けられています。

展開されているのは、あくまで壮大なる乱痴気騒ぎであり、滑稽と魂胆でむせ返る「人間劇場」に違いないのです。

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コラム
目眩がいっぱい

家臣を前にして「人間、生まれた時からすべて遊び」と吐き捨てる圧制者信長に対する理解を深めるための補助線として、社会学者ロジェ・カイヨワの「遊び」に関する考察は参考になるはずです。

彼は著書『遊びと人間』の中で「遊び」を競争・運試し・ものまね・めまい、の4つのカテゴリーに分類しています。

この分類の中で、信長の特徴をよく表しているのは「めまい」であると思われます。カイヨワの区分けに従うと「めまい」とは、刺激を純粋に求め楽しむ試み全般を指します。

「遊び人間」信長とは「めまいの人」に他なりません。

命懸けで「過激」を追い求めるクレイジーガイの毎度の蛮行に家臣たちは振り回されながら、さぞクラクラと気が遠くなったことでしょう。

著:ロジェ・カイヨワ, 翻訳:多田道太郎, 翻訳:塚崎幹夫
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北野監督は、欲動を取り(撮り)上げるとき、性愛(情炎)ではなく暴力(死あるいは死を通しての生)に執拗にこだわり続けている映像作家ですが、当作品ではバイオレンス表現のより一層の追求が目指されています。

限度を超えて欲動に肉薄するために、現代社会から戦国時代へと舞台を変え、さらに闇の奥に向かって下降するのです。

著:ジョゼフ・コンラッド, 翻訳:高見浩
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ごく簡単に言うのならば、欲動は自己の深淵より後から後から噴き上がってくるために制御不能であり、つまりそれを無視したり飼い慣らしたりすることが土台不可能というほかなく、ひとたび暴れ出すと物語、規範、掟や制度により抑えつけることなど絶望的なまでに期待できないゆえに、白旗をあげ飲み込まれるか、あるいは自らの命と引き換えの相討ちに持ち込むぐらいしか対抗手段は決して見つかりはしない「非自己(自己の中の特異点)」であるのでしょう。

他人の命を奪うことと自らの生を断つことの見境がまるでつかない欲動の奴隷たち(欲動の勝者たち)こそが「戦国の武人」に他ならず、それゆえに北野は「彼等」にピントを合わせたに違いないのです。

ここで述べた「見境がつかない」とは、他人の首を狙うために自らの命を賭けるといった覚悟では全くなく、突き上がってくる欲動に振り回されるがままにとりあえず他人の命を奪ってはいるが、なんなら自らの首でも一向に構わないといった心的状況下にあるというほどの意味となります。

コラム
源泉としての性愛

本作において性愛が暴力の原動力(駆動力)として据えられていることは否定しません。

しかしながら、性愛を真正面から取り上げていると言い切れるほど、確信的にエロスに力点が置かれているとは思えないのです。

添え物以上サブテーマ未満といったところでしょうか。

著:プラトン, 著:久保 勉
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バイオレンス表現の徹底化を鋭角的に推し進めることを目的とし、グロテスクばかりがやたらに瞳を覆ってしまわぬように、人殺しが常態化している戦国時代という「舞台」があえて選び取られているのでしょう。

その舞台は「良識派」の手が届かない、人権や命の尊重に関する省察とは無縁の「昔々(ロングロングアゴー)」の時空世界となります。

剥き出しの生が激しく乱舞する世界(ステージ)。

「野生の王国(非倫理的フィールド)」にあっては、無論のこと生命に重さも軽さもないのです。

コラム
狂った人々

玉座の主である信長の狂気ばかりに注目が集まる本作ですが、光秀が夜の闇に紛れ鬱憤ばらしに罪のない者を信長らに見立てて自邸の庭先で斬り殺し、銃で撃ち殺すシーンを目の当たりにすれば、それが武人の「日常」であるとしても、農民上がりの秀吉は大悪党には違いあるまいが気狂いではなかったなと口にしたくもなり、とはいえ、異常者だらけの中にあって正気を保っているのならば、彼もまたある種の狂人であったかと妙に得心してしまうのです。

著:ミシェル フーコー, 編集:康夫, 小林, 編集:寿輝, 松浦, 編集:英敬, 石田, 原名:Foucault,Michel
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「アウトレイジ」シリーズの単なる延長線として本作を評する意見もあるようです。

しかしながら、反社会的勢力の抗争という状況設定のリミットを超えて映像表現が志向されているために、コンプライアンス全盛の今日の表現を取り巻く時代的制約(映倫的規定)に鑑み、「戦国時代・武将」が消去法的に選択されたのだと思われます。

現代の東京を舞台にしてしまうと、斬首の応酬はNG確定となり、猟奇性だけが悪目立ちするスプラッターフィルムとなってしまうことでしょう。

コラム
タテとヨコの運動

「アウトレイジ」シリーズより多用される俯瞰のシーン・ショットは本作でも効果的に挿入されていますが、これに加え、水平の移動がことさらに強調されている点も見逃すわけにはいかないでしょう。

村重に迫る重量感あふれる攻城兵器や船上の切腹場面におけるフライング気味の秀吉軍のとんぼ返りにみられる律儀な横移動

一方で、ワイヤーアクションによる劇画タッチの忍び同士のつばぜり合いや西部劇を意識した吊り下げられた死体を映し出すカメラの舐め上げるような上昇(垂直)運動を思い出してみてください。

タテヨコの強調が縦横無尽に物語の展開に効果的なアクセントを刻んでいます。

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首の映画である

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シンプルに『首』と題された本作は、ご想像の通り人間の首(命)をめぐる物語となります。

コラム
蟹のハサミ

冒頭の川の浅瀬に倒れている首なし死体の切断面のあたりを這うサワガニは、蟹→平家蟹→平家→滅亡へのイメージの連鎖を招き寄せる特権的なまでの道具立てに違いありません。本作のテーマのひとつであろう「滅び」を鮮やかに印象付けるオープニングシーンです。

蟹のハサミの白さと大きさに思わず視線が絡みつくとき、切断という一点において振り下ろされた刀の刃と否応なく呼応してしまう想像をもはやあなた自身、止めることなど不可能であるのかもしれません。

首が落とされた亡骸が浅瀬に転がる物語の幕開けでは、あるべきところに首がないために、かえって在ったはずの首の存在性がざわめきはじめます。

不在の寂静さを味わう暇もなく、物語は首取り闘争へと掻き立てられながら、ラストシーンにおいて「モノ」と化した首が呆気なく蹴り飛ばされ、その首(擬似サッカーボール)があるべきはずもないゴールマウスに吸い込まれるであろう妄想の瞬間の訪れとともに、唐突にエンドロールへと雪崩れ込みながら映画はひたすらに終息に突き進みます。

首の消失に始まり、首の退場に終わる眼前のフィルムが、紛れもなく首の映画に他ならないことを、同じことですが、血も涙もない残虐さのために血も涙も無い(枯れ果てた)物体に変じた首こそが主役の地位にふさわしい映画であったなと、あなたはただただ肯首せざるを得ないのです。

著:ジュリア・クリステヴァ, 著:ジュリア・クリステヴァ, 著:塚本 昌則, 翻訳:星埜 守之
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コラム
サッカーの起源

8世紀頃のイングランドにおいては、戦争に勝利すると敵の将軍の首を切り取り、それを蹴りあい、勝利を祝したと言われており、これがサッカーの起源であるという説もあるそうです。

本作のラストシーンはそのことを否応なく想起させる一種の躍動感が認められます。

どの首も首を欲する

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ひとたび戦さとなれば、敵将の首をあげられない無様(たわけ)は何があっても避けるべき失態であり、武人の本分(魂・威厳・気骨)を左右しかねません。

落とされた敵の首は自らの勢力拡大己の身の危険のとりあえずの回避を約束するものでしょう。

首を取られないために首を取り続けるデス・ゲーム(勢力争い)から誰も降りられないのです。

敵の手に自らの首が渡ることは武将にとっては死んでも死にきれない無念であると同時に、ある意味、武者としての存在価値の証明(誉れ)であると言い得ます。

欲しければ首をくれてやるとの大見得を切るためなのか、武士は武士であることを命尽きるまで決してやめないのです。

コラム
安らかな死に顔

刎ねられた茂助の首が首実検のために秀吉たちの前に並べられたとき、その表情に無念さが欠片もなく、幾分安らかに微笑みをたたえているように見えてしまうのは、単なる錯覚などではなく、武士だからこそ斬首されたある種の「幸福感」、曲がりなりにも武士の端くれとして死ねることの「達成感」がスクリーンの上を漂っているからでしょう。

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底辺を抜け出したいと乞い願う農民や地べたを這う下級武士どもにとって、敵の大将の首を取る(手に入れる)ことは、微々たる人生の一発逆転を可能とする「値千金」に違いありません。

一方、自衛と略奪を兼ねた落武者狩りに精を出す農民たちには、侍の首とは(多い少ないに関わらず)金品との「引換券」程度の意味しか持たないのです。

山菜取りやキノコ狩りに極めて近かったといえば、口が過ぎるでしょうか。

コラム
弱肉強食

多人数の農民たちがひとりの落武者に対して竹槍を突き刺す生々しさは、大地と共に生きる者どもの逞しさ禍々しい生命力を観る者に焼き付けます。

このような弱肉強食の「リアル」は『七人の侍』を撮った黒澤明がスクリーン上に引きづり出した、先入観で頭が一杯の連中が眼を背けたくなるような「土着性」です。本作においても、戦国社会の多層性への目配りのためには外せないシーンであるのでしょう。

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コラム
戦慄する茂助

茂助がその手で殺めた幼馴染の為三の亡霊に苦しむのは、罪の意識からではありません。女房子どもの惨殺遺体を前にしても動じない「人でなし」がたかだか幼馴染の男の死(殺人)に対して罪悪感に悶絶する訳などあろうはずがないからです。

彼が死んだ人間に震え慄くのは一種のドッペルゲンガーを執拗に体験したからに違いありません。

ドッペルゲンガーとは、自分自身の姿を自分で見てしまう幻覚の一種。「自己像幻視」と呼ばれもする現象のひとつ。

為三の計画(武士になり人生を転換(逆転)する)を盗んだ茂助の人生は殺害した為三(同時に自分自身)の「人生」に他ならないために、もうひとりの「自分(視覚的には為三)」が見えてしまうことは恐怖以外の何ものでもなかったはずです。

その理由は、瞳に映るもうひとりの自分にいつでもとって代わられる(自分が自分に殺される)可能性(脅威)が「盗人」である茂助には「現実」であったからなのでしょう。自分の首を自分自身に狙われる怯えから逃れられない事態が「彼の人生(デッドエンド)」なのです。

著:エドガー・アラン・ポー, 著:河合 祥一郎
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首の扱いよりどりみどり

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正真正銘の第一級の首であった信長や光秀の首の行方は今もって史実上の謎ですが、監督の北野は独自の解釈を本作で展開します(何十にも及ぶ諸説があるそうです)。

あなたが見るべきはその解釈のユニークネスではなく、首に対するアイロニカルな扱いの手触りの方でしょう。

後述する、信長、光秀、宗治、そして村重や利休にその感触が端的に表現されています。

コラム
トリオ・ザ・秀吉

秀吉軍の「ビートたけし」「大森南朋」「浅野忠信」という三匹のサムライが作り出す、脱力感満載の一筋縄ではいかない「胡散臭さ」の素晴らしさをぜひ堪能してください。

優れたキャスティングがもたらす想像を超えた「化学反応」と言わざるを得ない「良質のムード」が醸成されています。

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信長

理不尽を強いられてきた家臣の弥助に信長は実にあっさりと首を刎ねられます。燃え盛る本能寺において弥助は主君の首を引っ掴み、炎の中に消え去っていきます。

明智軍の必死の捜索を嘲笑うかのように、弥助は未来永劫「彼(戦利品)」を独占するのです。

武将としての最期に自らピリオドを打つことを許さず、独裁者の生涯の決算を宙吊りにすることが、男色としての衆道に触れている本作においては、主君への歪な「愛」の形であったといえば、やはり言い過ぎでしょうか。

著:小室直樹
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コラム
ホモソーシャルな団結はない

本作では、武士団において一般的に認められるホモソーシャルな団結に関しては「男同士の色恋沙汰」の意図的な前景化のためか、特に力を入れて描かれてはいません。

「ホモソーシャル」とは、女性および同性愛(ホモセクシャル)を排除して成立する男性間の緊密的な連帯性や関係性を意味する概念。アメリカの文学研究者であるイヴ・コゾフスキー・セジウィックの著作『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望(1985)』によりその用語は広まっていった。

穿った見方ですが、「殿」を頂点とした「たけし軍団」との訣別の決意が作品構成において少なからず影響しているのでしょうか。

少なくと『アウトレイジ・シリーズ』では、ホモソーシャルな絆と自壊がいずれも描かれていたはずなのですが・・・

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光秀

山崎の戦い後に秀吉が実施する首実検において、落武者狩りの「成果」として光秀と茂助の首はたくさんの首の一部として持ち込まれ並べられます。

かろうじて茂助の首ではないかと秀吉たちが首を傾げる一方で、顔の原形をとどめ難い光秀の首は本人と断定されることなく、言葉本来の意味で秀吉により足蹴にされます。

もはや光秀の首など大勢が決した今、まるで(首のない胴体のように)無価値であるのだと非情にもラストシーンは断じます。

コラム
弧を描く光秀

オープニング近くにおいて光秀は興奮する信長に足蹴りを喰らい後方に吹き飛びますが、これはラストシーンの秀吉によって蹴り飛ばされる自身の首と同じ円弧を期せずして描きます(これらは山崎の戦いにおいて放たれた夥しい量の矢の放物線にも重なり合う)。

最初から最後まで、まさに踏んだり蹴ったりなのです。

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宗治

和睦の条件としての清水宗治の切腹(辞世の句:浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して)は、船上にて厳かに時間をじっくりとかけて執り行われますが、水面へと転げ落ちた介錯後の首を家臣が慌てて拾い上げようとし、自らも無様に落水するシーンは、現代のお笑い番組のドタバタコントを観るものに容易に想像させてしまう演出が意図されているかのようです。

義に厚く仁を重んじる武将の首が笑いの単なる小道具に一瞬にして転化する様がフィルムの表層を疾走します。

コラム
間をつかむ

第60回ヴェネツィア国際映画祭の監督賞(銀獅子賞)を受賞した『座頭市』において完成されたと言える、台詞終わりに続くアクションが始動するまでの間の見事さは船上シーンをはじめ本作においても随所に認めることができます。やはり一流漫才師の間合いを掴む「握力」は尋常ではありません。

監督:北野武
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村重

冒頭シーン直後に、攻め込まれる有岡城を後に退散する家臣に対して逃げるなと連呼し孤軍奮闘ぶりを発揮しながらも、落城するやあっさりと姿をくらましたが早々に捕えられる村重。右手に悲壮感、左手に可笑しみを握らせる演出には脱帽するしかありません。

後半に至り、その生死をめぐる駆け引きの顛末からもはや首をとる対象(意味)ではなくなってしまい、首が落とされることもなく木の檻に入れられたまま、崖から突き落とされます。

かつては名の知れた武将であったことなど全否定される程の扱い(命)の軽量さが、淡々と描かれているのです。

コラム
忘れえぬ目玉

檻の中で最期の刻を待つ村重のこぼれ落ちそうな眼球の磁力に逆らうことができないあなたは、これは『パピヨン』のマックイーンや『シャイニング』のニコルソンも確かに見せたことがあった絶望と狂気により濁る目の玉の鈍色に違いないと、思わず口をつくことでしょう。

と同時に、遠藤憲一の瞳から放出される「シェイクスピア的な悲壮感」に触れるとき、これは『乱』の中で仲代達也の落ち窪んだ目玉からだらしなく漏れていた自暴自棄の気配と密かに共振しているのだなと、ひとり合点がいくのかもしれません。

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利休

史実として最後は秀吉に切腹を命じられる茶人は本作では首が落ちることはありません。

戦国の世の荒波を巧みに泳ぎわたる「芸術と政治に通じた経済人」は劇中において次のようなセリフを口にします。

わては毎朝、自分の首をよう洗うようにしております。天下平定まで、着物の襟はパリッとキレイにしたいもんですわ

慣用句的には「首を洗う(首を洗って待っている)」とは自らの犯した罪を自覚しながら裁きを待つ心情を表わすことから、利休自身が権力の中枢に深く関わり過ぎたので、いつかは口封じをされるとの覚悟が仄めかされているのでしょう。

天下平定という大義のために自分はどのような汚れ仕事にも奔走するが、芸術家(文化人)としての美意識は片時も枯れることなく、いつでも死ぬ覚悟はできている(武士の如き)矜持が吐露されているのです(シミひとつない雪の如き死装束のイメージ)。

著:波多野 聖, その他:   
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残りの主要人物である秀吉と家康については次のように言えるでしょう。

  • 秀吉
  • 家康

史実通り、これらの野生(サルとタヌキ)の首は劇中ではもちろんのこと落ちません。

天下統一に辿り着いた二つの首には死神も追いつけませんでした。

一点集中キャラ

出典:公式サイト

商業シネマである限り、劇場での上映時間という物理的制約からどのような映画も決して逃れることはできません。効率よく儲ける・稼ぐの立場からすれば、上映時間が12時間を超す「超大作」を映写したい映画館などほぼ皆無のはずです。

現代の資本回収の観点より、本作も観る者の理解を促進すること(尺の巻上げ)を目的とした、潔い「交通整理」が講じられています。

そのひとつが、登場人物の造形における振り切ったキャラクター設定となります。

信長・秀吉・家康の三人ともに、ある角度から強烈に光をあてて、キャラクターをわかり良く立ち上げているために、全体像把握のキーとなる「体臭」や「心根」が影に隠れざるを得ない人物描写となっています(二時間あまりの物語の中で、ひとりひとりの解剖学的掘り下げなど考えるまでもなく不可能であろう)。

コラム
恋愛対象ではない

信長と秀吉の「濡れ場」がないとの言いがかり的な見解も一部ありますが、衆道においては、主君と家来の間の倫理的結合が無視できないとは言え、命を預けた・預けられた「戦国の日常」にあって、絆を実感するための「肉の手応え」の必要から、武将間の同性愛事情は戦場では言うに及ばず、普段から「日常茶飯事」であったと推測できます(同時に、「武士の嗜み」の観点からみても「平常運行」であったのでしょう)。

けれども、そのような関係はあくまで「同種(族)」の仲間内ではじめて可能であって「異種(族)」は排除(選別)の対象とならざるを得ないのでしょう。

つまり、「身分違い」の秀吉はそもそも「恋愛対象」にはならなかったゆえに、二人の「関係」が描かれていないことは「正解(必然)」であると言えるのです。

本作で展開する「情欲(色恋)バトル」においても、秀吉は蚊帳の外であることから(演者であるたけしが参戦するシナリオ案を忌避した可能性が大だが)、紛れもなくサルは非武士的存在であり、衆道とはどこまでも「武士の領分」であることが明示されているのです。

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信長

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信長の類を見ない革新性(先進感覚)は一切合切切り捨てられ、賛否は分かれますが残虐性のみが極端にデフォルメされています。

黒マントをひるがえすご乱心(第六天魔王)が通り過ぎた後には、理不尽だけが四方八方に飛び散り、怨嗟の炎があちらこちらで揺らぐばかりです。

絵に描いたような暴虐性を体現する本作の暴君信長は、刀で口内を血まみれにした村重の唇を吸い上げる行為に代表されるように、愛情表現の最上位が暴力であると言わんばかりの振る舞いに終始します。

炎上さなかの本能寺における森蘭丸への有無を言わせぬ介錯もこれと同様の「アイラブユー」なのでしょう。

この意味において、彼は「愛の人」であるのかもしれません。

家康

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信長、秀吉、家康のキャラクターをひと言で表現する場合に、頻繁に引用される時鳥に関する句の中で「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」というフレーズはご存知の通り、家康の性格(人生哲学)を表す句として有名です。

「鳴くまで待とう」と耳にすれば、徳川幕府の礎を築いた巨木のイメージからの「泰然自若感」や「鷹揚さ」を想像するかもしれません。

けれども、本作で描かれている「飄々とした身のこなしの軽やかさ」や「間一髪を実現する逃げ足の早さ」、つまり、影武者の執拗な用意に代表される「病的なまでの臆病さ(石橋を叩いた後に身代わりに渡らせる神経症的細心)」こそが「鳴くまで待とう」を可能とする「土台」に他ならないのです。

家康が持する強かな老獪さ飄々とした身軽さに集約されているがゆえに(柳に風のごとき勁さは十分に伝わっている)、重厚感や思慮深さという特質が遥かに後退する造形となっているのでしょう。

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秀吉

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秀吉は、ひと言で言えば人を化かすタヌキのようなズル賢いサルとなるでしょうか。

しかしながら、戦国の世を生き抜く武将の必要十分条件が「強かさ」であるために、キャラの被りはある程度は仕方がないのですが、間抜けなサルに化けた食えないタヌキの方がむしろしっくりくるのかもしれません(演者ビートたけしの風貌・容姿に引っ張られているわけではない)。

サル知恵と思わせながら、その実、タヌキのように至極鮮やかに人を騙します。

滑稽を身に纏い低頭を徹底する策士は人にすり寄り説得し、好機を断じて見逃さない才の塊です。

人に仕えることに飽き飽きした男は、ひとたび「使える」とみるや、その人物の「取扱説明書」をスラスラと書き上げ、「賞味期限」を算定します。

光秀から新左衛門まで、誰もが手の内を隠す秀吉の手の中で踊り、駆けずり回るのです。

彼は桁違いの観察眼と知的腕力を持つ極めて優秀な「猿回し」であったに違いありません。

コラム
芸人の起用

木村祐一氏の出演は賛否が分かれているようですが、登場直後の「同業者か」というセリフがつぶやかれる刹那、彼を起用した監督の結論に異を唱える気力など消え失せるはずです。

本能寺の炎上を見届ける彼のクローズアップが直ちに『戦場のメリークリスマス』のラストにおけるビートたけし本人にオーバラップすることを認めるならば、「恩師」大島渚への「映画的愛情」がフィルムに溢れていると、あなたも支持の意を表明することでしょう。

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求めても決して手に入らない

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首取り合戦の様相を呈する本作品の主題のひとつは「求めても手に入らない。それが(だから)人生である」という教訓(真理)なのでしょう。

あるときは悲劇の幕、あるときは茶番の幕、また別のときには皮肉の幕が上がり下がります。

信長は家康の息の根を止めようと何度も試みますがことごとく失敗し、また愛憎半ばする村重の身柄を求めながら、突然にこの世から強制退場させられます。

光秀は憎き敵将(信長)の首を懸命に捜索し所望するも、その首を抱くこともなく自らの首を落とされます。

コラム
幻の光秀役

当初、明智光秀役には渡辺謙が予定されており、他の作品の撮影スケジュールの都合上、キャスティングできなかったために、西島秀俊の起用に至ったという記述を目にしました。

お二人とも、シリアスの中にユーモアを自在に放り込むことのできる日本を代表する技巧派です。

起用をめぐる真意のほどは確かめようもなく、ハリウッド常連のKENの光秀も観たかったという純粋な好奇心も抑えられません。

けれども、西島氏の光秀はまさに適役としか言いようのない収まりを誇示していました。

本作における光秀のキャラクターは一言でいえば「不徹底」です。

詰めの甘さや深慮の中途半端感を西島光秀はごくごく自然体で発散しています。

信長にヘッドロックされたシーンの苦悶の表情は、おそらく西島氏にしか表現できないであろう唯々諾々の葛藤が滲み出ているのです。

著:渡辺 謙
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家康は一夜の供として醜女を指名しますが、職務を淡々と果たす配下は女を斬り捨てます。

村重は光秀の心を強く欲しますが、彼の愛はすでに村重のもとを去っているのです。

茂助は侍大将を夢見ますが、同根である農民どもに命(夢)を奪われます。

コラム
組織を掠め取る者

これまでの北野作品において、北野武が演じてきた役どころは、単なるアウトローというよりも、組織の原理により切り捨てられた人物(ある種の純粋性を体現する孤高のダークヒーロー)が大部分を占めます。

組織の原理に誰よりも忠実であろうとするその言動(忠誠)により、結果として組織の「敵(疫病神的存在)」と見なされ、組織内からの排除の「対象」となってしまう逆説的な生き(死に)様を強いられるキャラクター設定であると言えるでしょう。

しかしながら、本作において北野(「ビートたけし」クレジットではあるが)が演じる秀吉は、史実からの大幅な逸脱を好まない演出であることを割り引いても、これまでの主人公(主役級)とは、いささか毛色が違っています。

組織の弱体化の回避よりも個人の欲得を最優先し、組織に殉じる風を装いながら狡猾に組織の実権を握ろうとするアンチヒロイックな行動を徹底する人物が演じられているのです。

冷めた目で組織を客観視する一匹狼的な設定ではなく、武士世界に対する農民視線の導入による「相対化」が図られているところに、人物造形に関する一層の成熟化が見て取れます。

主要な登場人物たちと比較し、異質なのはやはり秀吉です。彼はどうあっても埒外なのでしょう。

腹黒いサルは望んだもののすべてを手中に収めるのです

信長の書状の買取に成功し、和睦を成立させ、主君の死を手繰り寄せます。

けれども、ひとつだけ(すぐそばにあるにも関わらず)、光秀の首だけは手に入りません。

探しても見つからないとなるやいなや、途端にそんなものは要らないと、手のひらを返します(蹴り飛ばします)。

首が主題の映画にあって、首を欲しがらないその言動から明らかなように、彼はどこまでも例外的な存在(規格外)に違いありません。

人体の一部としての物理的な首に過剰な意味を求めず、その象徴性に一片の価値をも見出さない秀吉の首(命)こそが今や最も価値あるもの(天下人)へと競り上がっていく、その逆説性を監督は鮮やかにあなたの目の前に差し出すのです。

コラム
草履が意味するもの

家康の草履を懐で温める秀吉の連続する動作は剽軽猿の面目躍如と言わざるを得ませんが、一連のシーンにおいて注目すべきは、馬鹿馬鹿しいとばかりに投げ捨てられた草履が庭の小池に浮かぶショットが顕にする、なんとも不吉さを漂わすその有様にあります。

水面に浮かぶ物体がどこまでも討ち取られた武将の首を想像させずにはいられない問答無用のイメージの跳躍を体験しましょう。

著:ジル・ドゥルーズ, 翻訳:財津 理, 翻訳:齋藤 範
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価値をめぐって

出典:公式サイト

よく知られた江戸時代の落首(世相を風刺した狂歌)のひとつである「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」(この歌を題材とした絵師歌川芳虎の版画『道外武者御代の若餅』も有名)の通り、一般的には、織田信長は変革者(革命家)であり、その路線を秀吉が継承し、家康が完成したと評されています。

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しかしながら、その畢生、思想や方法論はやはり三者三様です。

信長秀吉家康
ザ・狂人腹黒いサル抜け目のないタヌキ
首を刎ね続けた一生首を賭け続けた一生首を取られることから逃げ続けた一生
価値の絶対化価値の相対化価値の恒久化
三傑の比較

何度も重なり合った人生の途上で、「天下統一」に向かって「存在(生存)価値」を高めるために、それぞれが「価値というもの」に粘着し、拘泥していきます。

信長は価値の絶対化を叫び、秀吉は価値の相対化を徹底し、家康は価値の恒久化を祈るのです。

  • 暴力と緊張を操る信長にとっての価値とは「己自身」です。それ以外の価値を「生きるも死ぬも俺次第」の魔王は決して認めません。価値の絶対化とは、自己以外の存在の殲滅(この世の人間を全部血祭りに上げる)を意味します。
  • 煮ても焼いても食えない家康が求めるのは信じる価値が決して廃れないことなのです。(自身が守り抜きたい)価値が未来永劫続くことそれ自体が、彼にとっての「価値そのもの」であると言えます。
  • 結果が全ての秀吉には「天下統一」を別格として、それ以外のどのような価値も「同等」であるのでしょう。つまり、すべてが等しく「無価値」なのです。相対化の嵐の前では「価値の高低」などいともたやすく消し飛びます。
コラム
天守閣での漫才

黒人男性の弥助の体の中で白い部分はどこだとの信長の問いに、常識的に歯や手のひらと答える秀吉に対して、黒墨で予めそれらの部分を塗りつぶしておく仕込みを施し、サルの浅知恵と嘲笑しながら、居並ぶ家臣にうすら笑いを強要する信長と困惑気味の秀吉の一連の乾いたやり取り(空気)は、いつか目にした「解散寸前のコンビの漫才」にどこか似ていなくもないなと、あなたは思わず漏らしてしまうことでしょう。

著:おぼん・こぼん
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あまりに絶対的な相対化

出典:公式サイト

旧来の価値観を踏み潰す「クラッシャー」である信長の後釜を狙う野心家は、武士の意気地や誇りを最大限に利用し、天下取りのためであれば恥も外聞も一切構わない姿勢を断固貫き通します。

出自が農民である秀吉は侍大将でありながら「正統」の武士とは認められてはいません。

所詮、親方様の「猿真似」であることは誰よりも彼自身が自覚しており、信長の家臣団の中での自らの「異質性」をはっきりと認識しています。

この異質性(異物感)こそが彼の力の源泉となります。

サルと揶揄されてきた男の真の武器は、群を抜く行動力や追随を寄せ付けない知略ではなく、恐ろしいまでの「相対化の徹底」です。

「絶対化(恒久化)」が武士の原理に基づく「絢爛たる力の行使」であるのならば、「相対化」とは農民の哲学を下敷きにした「忍耐強い地道な作業」と言うことができます。

絢爛たる力の行使の代表例として、信長の「京都御馬揃え(正親町天皇を招待した、いわゆる軍事的パレード)」が描かれています。馬上の光秀の誇らしげな口元に漂うのは、図らずも露呈した武士の原理の限界に違いありません。当然ながらこの華やかなシーンにおいて、農民哲学の実践者である秀吉の姿は映ってはいないのです。

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コラム
ボーダーレス

本エントリーでは議論を進める中で形式的思考(様式美)を軸のひとつに据えているために、武器の所持や集団武装という軍備的側面からの武士と農民の線引きについては、学術論文を目指しているわけではないので一旦棚上げにしています。もちろん、農民層が戦力形成におけるある種の「供給地」であったことは否定できませんし、それを可能とした武士と農民の「距離の近さ(同質性)」も無視はできないのでしょう。

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出典:公式サイト

農民の視点(思想)による武士的な価値観の完膚なきまでの相対化が、彼の才幹(真骨頂)に違いありません。

単なる否定であればそれはある種の「農民革命(鍬や鋤による下剋上)」となるのですが、日本一の出世男はあくまで武士の地位に留まりながら(利用しながら)、武士的価値(精神)を無に帰すように葬り去ります。

この相対化は相手の価値(観)の制圧ではなく、全ての価値(観)の解体が目指される、価値(観)同士の相殺(共倒れ)の徹底化と言えます。

天下取りに向かって、あらゆる価値が無価値の泥沼の底(価値の墓場)に沈められていきます。

彼にとって長きに亘り唯一無二の価値であった「天下統一」は、ある意味「朝鮮出兵(その先にあるのは明国の征服)」によって相対化されたと言えなくもないが、ここでは指摘するに留めます。

著:エンゲルス, 著:向坂 逸郎
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コラム
価値(観)の共倒れ

価値(観)の解体(ある種の無効化であり相対化)を目的とする、価値(観)同士の相殺(共倒れ)の視覚的例示は、極々手短に簡便に表現された曽呂利新左衛門と間宮無卿の相討ち(木村と大竹。芸人同士の刺し違え)や、一時的休戦に持ち込まれた斎藤利三と服部半蔵の鍔迫り合い(北野組常連同士)に認められます。

出典:公式サイト

相対化の権化である秀吉が実践する「圧倒的な相対化」とは、別の表現を借りるのならば「清々しいまでの使い捨て」と言い換えられるはずです。

天下統一の「御前」では、全ての価値は平等(つまりは差がないのだから必然的に全ての価値は無価値)となり、何ひとつ手元に置く必要などなくなります。

安土の天守を超えるために、彼は思いつく限りの全てを使い捨てます。

サルの前では、金も言葉も、兵も水も忍びも、主君も信頼も、何もかもが等しく使い捨てるための単なる「用品(通過点)」でしかないのです。

使い勝手のいい元忍びも切れすぎる軍師も、散々使い倒した挙げ句にそのうちに切り捨てよう(殺害)と密かに企んでいます。

彼の瞳の中央に映るのは、信長の黒星に燃え盛っていた絶対化が実現する絶対価値などでは決してなく、絶対的な相対化を支える使用価値であったに違いありません。

ラストシーンの「首なんかどうでもいい(死んだ事実だけが大事)」との秀吉の啖呵は、現実至上主義者(相対主義の化け物)の「勝利宣言」なのです。

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出典:公式サイト

コラム
書状をめぐる仮説

甲賀の里の首領である多羅尾光源坊から買い取る「信長の書状」とは、元々秀吉が直接甲賀衆に作らせた偽の書状であると仮定するならば、少しばかり見通し(謎の解明)がよくなります。以下は仮説(のようなもの)に基づく推論(思いつき)となります。

信長が家督を実子に譲ることと、その後の家来達の処遇までが書き記された書状の存在を秀吉がどうして知ったのかという疑問(謎)は、秀吉自らが作成依頼したのであれば自ずと解消します。

例えば書状は本物であり、張り巡らされたサルの情報網に存在の事実が引っかかった可能性もゼロではないですが、その手紙が家臣の閲覧を絶対に免れると思っているほどに魔王は「たわけ」ではないので、やはり偽物であることが濃厚であるも、誰が見ようとまるで気に留めない気性・性格を勘案するならば、本物であった可能性も俄かに浮上します。

秀吉が使いを出して書状を甲賀の里に買い取りに行かせた理由は、そこが高度な秘密を扱う専門機関(業者)として知る人ぞ知る結社であったために、某所から入手したという事実が書状の信憑性を高めるからであろう。秀吉はあらゆる「穴」を事前に塞ごうとする計略家である。

*甲賀の里が人里離れた竹林の奥にあるのは、秘密結社であるがゆえに(守りの面からも)ロケーション的に当然のことと思えるが、真偽の扱いを生業の一部とする集団の居が結果として「藪の中」であることはやはり象徴的であろう。

甲賀の里を殲滅したのは明智軍であると劇中に描かれているが、その動機は十分に説明されておらず(間諜に対する報復とみてとれないこともないが)、書状のいきさつの口封じのための秀吉軍の偽装(もしくは明智軍への巧妙な焚き付け)であった可能性が高い。

書状をめぐる一連のシーンでの秀吉の対応は全て分かった上での単独の「猿芝居」とみれば、「タヌキ」も顔負けの役者ぶり(策略家)であるが、そうではなく官兵衛を含めてのチーム秀吉の仕業である可能性も捨てきれない。

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相対化の徹底としての演出

出典:公式サイト

北野武の演出は、役柄の秀吉と同様に「絶対的な相対化」が目指されているかのようです。

ここで述べる「相対化」とは、既存の伝統的価値観(通念)を無効化(陳腐化)する試みを意味します。

常識の揺さぶり。権威の引きづり下ろし。通念の転倒。アンチとカウンターが数えきれません。

威光を茶化し、不謹慎を大量投下する本作は、漫才の世界で一斉を風靡した北野の芸風に一脈通じるどころか、「原点回帰」の様相を呈しています。

唯一絶対や未来永劫などというものはこの世に存在しないし、自らの価値観を含めすべての価値観の優位性をなし崩しの死へと誘う企て(ディレクション)なのでしょう。

クライマックスや大円団、音楽的扇動、包装されたセリフ、終わりなきテイク、史実への忠誠などを悉く排除(廃棄)するその手つきを、よくよく立ち止まり凝視しなければなりません。

『気狂いピエロ』(65)をあの時代に発表して、映画の作り方を一新させたジャン=リュック・ゴダールみたいなひっくり返し方で、映画はもっともっと進化しなきゃおかしい。それに俺自身、こうでなきゃいけないっていう既存の常識をぶっ壊してスゴい映画を作りたいと思っているんでね。

公式サイトの監督インタビューより抜粋
コラム
映画は戦場だ

『気狂いピエロ』の冒頭近くで、ゴダールは映画に対する自らの考え(宣戦布告)を映画監督のサミュエル・フラー(本人役として出演)に語らせています。

「映画とは、戦場のようなものだ。愛、憎しみ、アクション、暴力、そして死。要するに、エモーションなのだ。」

北野が『気狂いピエロ』を評価するのは、作品が持つ革新性に舌を巻くと共に、ゴダールの映画観に共感したからなのでしょう。

愛。憎しみ。アクション。暴力。死。それらが戦場を舞台として繰り広げられているキタノフィルム。

ゴダールが並べ立てる要素を欠く映画を撮る方が、むしろ難しいのかもしれませんが、『首』にはすべてが詰まっています。

何よりも、観る者の感情がシェイクされます。

映画監督北野武は、ゴダールの定義(信念)に忠実に従い、本作を撮り上げたのだろうかと邪推したくもなるのです。

出演:ジャン=ポール・ベルモンド, 出演:アンナ・カリーナ, 出演:グラツィエ・カルヴァーニ, 監督:ジャン=リュック・ゴダール
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  • 大河ドラマに代表される「キレイな戦国絵巻・武勇伝」を骨抜きにする武将たちの下世話・破廉恥ぶり。
  • コンプライアンス全盛の風潮に真正面から風穴をあけていく、人間の死を無機的・無感覚なレベルにまで押し上げる(押し下げる)ことを目的とした斬首のオンパレード。
  • 嫁と子供の惨殺を目の当たりにして自由になったと断言させる、生ぬるいヒューマニズムへの宣戦布告。
  • 侍大将の目を見張るような活躍ではなく、後方での高みの見物的な指揮や川を渡る時の疲労困憊に起因する嘔吐の汚らしさが連想させる存在の醜悪さ。
  • スポーツ(マラソン等)と戦さが実のところ同根であると言わんばかりの秀吉軍のとんぼがえりにおける給水や握り飯の提供風景の現代の競技中継との二重写。
  • シリアスな合戦絵巻の持続的期待にたびたび風穴をあける笑いの闖入。
  • 本能寺の変をド派手なクライマックスとして決して位置付けない、一歩引いたアンチクライマックス的構成。
  • 家康と影武者の交代が役者とスタントの入れ替わりと見間違えるほどのボーダーレス化。
  • 多様性を逆手に取った、異形の者たちの無秩序な乱舞的登場かつ浪費的退場。
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コラム
似て非なるもの

北野が自身の最後の監督作品にしようとの決意で撮影に臨んだ『ソナチネ』(1993)は、ヤクザ映画の脱構築化が成功している傑作として高い評価(特に欧州圏)を得ていますが、これと比較して本作の『首』は、いささか芸術性に欠けるや、今ひとつ静謐さが足りないなどの論評を一部で浴びせられています。

しかしながら、両作品における描出の目的地を正確に見定めるのならば、それらの酷評がお門違いであることがよく理解できるはずです。

ごく簡単に言うと、『ソナチネ』がフィルム上に奇跡的に刻印したのは「圧倒的な生の否定」であり、『首』において映し出されているのは「死をめぐる意味及び無意味の没収」に他なりません。

前者においては、間違いなく死が描かれているはずなのですが、それは「一切の躊躇・留保なき生の否定」としか言いようのない「死に似ている何か」として、我々は非自発的に受容せざるを得ないのです。

一方、後者においては、死が死であることを全く放棄したような形骸だけがスクリーン上のそこここに散布されています。

いずれも死それ自体が取り扱われているにも関わらず、映っているものは似て非なるものなのです。

監督:北野武
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ピカソの絵なんか見ちゃうと、風景画や写実的な絵の何がいいんだ?って思うよね。それと同じ感覚になるような映画を作りたいという想いがずっと続いているんだよ。

公式サイトの監督インタビューより抜粋

史実へのアプローチを含めた今回の彼の試みを定説(通俗)とは毛色が異なる北野流解釈、洒落っ気したたる戯作精神、あるいはカネのかかった悪ふざけと安直に括ることは、単純化が過ぎます(そもそも北野は「風景画」や「写実的な絵」を撮る意志が毛頭ないのです)。

ましてや本作を「アウトレイジ」の戦国版とする一面的な理解は笑えない冗談にもなりません。

コラム
イタリアの巨匠

「アウトレイジ」シリーズとの関連を指摘するのであれば、題材の擬似的親近性ではなく、「群像劇(集団劇)」を撮り終えたその実り豊かな撮影体験にこそ目を向けるべきでしょう。

本作で北野が実現したかった「戦国スペクタル」に一連の経験が活かされていることは間違いないのですが、物語の多層構造化を一層推し進めるために、おそらく「フェリーニ的祝祭空間」が念頭に置かれていたものと思われます。

フェデリコ・フェリーニは、映像の魔術師の異名を持つイタリアの映画監督(1920-1993)。代表作に『道』『甘い生活』『8 1/2』がある。

「フェリーニ的祝祭空間」の特徴は、単純化すると猥雑と退廃(サーカスと娼館)にありますが、そこでは「異形のものたち」が欠くべからざる存在であったことを忘れてはなりません。彼らの登場は、現実がいかに多元的(カラフル)であるのかを実によく教えてくれるのです。

この観点から見ると「多羅尾光源坊とその側近の登場」や「甲賀の里の集団催眠的な踊り」の(奇妙・奇怪が勝ち過ぎる)シーンが本作においてなぜ採用されているのか(あまり好意的ではない意見を目にするが)の理由が理解できるはずです。

北野は泥土に塗れたカーニバル性の導入を『首』において目指していたに違いありません(『座頭市』において既に試みられているが)。現実(世界)が持ちえる重層性を明るみに出すためには、甲賀衆の登場は必然であったのでしょう。

「異形」を散りばめた画面作りを見るにつけ、イタリア人監督のホームグラウンド(賞レースの本場)だった欧州市場(批評)が確実に視野に入っていたと、想像が逞しくなるのです。

出演:ブルーノ・ザニン, 出演:プペラ・マッジオ, 出演:アルマンド・ブランチャ, 出演:マガリ・ノエル, 監督:フェデリコ・フェリーニ
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芸術性の観点から作品を評するというキタノフィルムを鑑賞する上での「欧州経由の約束事」に対して、監督自身による実験的な脱臼がこれまでいくつかの過去作品を通じて試みられてきましたが(総じて不評に至っているものの)、本作においてそのような企てがようやく一定の成果を達成している点に、自己相対化の徹底ぶりをまたしても認めることができるのではないでしょうか。

あくまでクールに撮ろうと思えば苦もなく撮れたであろう「サムライアクション」を笑いの側に傾けたそのバランス感覚(諦めの悪さ・シャイネス)こそが、娯楽作品への完成へと向かう相対化の真骨頂に他ならないのです。

このような潔さこそをあなたは「スタイリッシュ」と手放しで評しなければなりません。

コラム
監督兼主演俳優

北野武の映画的キャリアを考える時、比較対象となる映画人のひとりにクリントイーストウッドが挙げられます。

役者(としての出演)からスタートし、やがて自ら監督を務め、監督作品の多数において主演を張るスタイルからも、その類似性を指摘することができます。

彼らは「監督術における恩師」というべき存在を持っています。北野にとっての大島渚と黒澤明。イーストウッドにおいてはセルジオ・レオーネとドン・シーゲルとなります。当然に作風や演出等に幾つかの影響が見られますが、創り上げたものの間には決定的な違いがあると言えます。ごく簡単に言うと、北野とイーストウッドが提供する幾つかの画面には、これから悪しき何かが決定的に始まってしまう避け難き予兆が乱舞していますが、師の作品のうちにこのような不穏当な前触れを認めることは容易ではないと言わざるを得ません。この意味からも、二人は似た者同士であるのでしょう。

共に高齢(1947年生まれと1930年生まれ)であるがために、演じる役どころは年々制限されてきていますが、興行的理由からか監督業に専念というわけにはいかないようです(イーストウッドに至っては90歳を超えています)。

2021年公開のイーストウッドの『クライ・マッチョ』と2023年公開の『首』に接するとき、スクリーンの中での彼らの自虐的な振る舞いに、ユーモアテイストの品の良さを感じる取ることはそれほど難しいことではないはずです。

彼らは「男の美学」を笑い飛ばし、観客や批評家よりも冷徹な目で自身を徹底的に相対化するシネアストなのです。

自らが創り上げてきたスクリーン上の強面のイメージを呆気なく自己解体するその健全な自己否定は確かに老醜とは無縁であると、あなたは言い切ることができるに違いありません。

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笑いと死

出典:公式サイト

本作品における「笑い」の質と量については意見がさまざまに分かれているようです。

「緩急」の程度や限度について触れていたり、シリアスで押し切り、ユーモアの余地を極力減らすべきだとの所感も目にとまりました。

時代劇に対して頑なに厳粛や清廉を求める守旧的発想なのでしょう。

少なくない「笑い」の導入が不可避(不可欠)であったことには、もちろん理由があります。

北野が本作で描きたかったもののひとつは、偶然と突然に蹂躙される人の生き様(死に様)です。

『首』には二種類の「死」が配置されています。

村重の一族郎党が皆殺しとなる「悲壮感と同情が滴る死」と「道端の石ころと同等(等価)の死」です。

前者は信長の残虐性を際立たせるために須要な(史実に基づく)演出上の死であると言えます。

このような無条件に物語として消費される死ではなく、北野がフィルムに収めたいのは当然に後者となります。

人の死は、たまたま突き出す足に当たれば前方に転がる(蹴飛ばされてしまう)砂礫と等しく、意味や無意味から距離あるものとして唐突かつ淡白に描かれなければならないのです。

それもあって、初期の作品から“死”をドラマにしたり、劇場型にはしてこなかった。生死の問題はそれだけでものスゴいことだから、飾り立てない。映画やテレビがよくやる大袈裟な“死”はその痛さや残酷さをかえって疎外していると思っていたので、ほかのどうでもいいシーンはこってりやって、“死”は呆気なく描く。そこは昔からずっと変わっていないね。

公式サイトの監督インタビューより抜粋

北野が観客の眼前に差し出したいのはある種の「自然死」であり、それは次から次にスクリーン上で明滅します。修飾や感傷が押し除けられその位置を事実が占めるばかりです。

死の構成要素としての「自然性」、言い換えるならば「(悲)劇的」ではなく「否劇的」としか名づけようのない代物であると言えます。

死が無防備に纏う悲劇性(過剰な意味性)を洗浄する必要が求められているのです。

都合よく「悲劇」に回収されない自然現象としての死、つまり人間の死でありながら「人の手垢」が根こそぎ拭き取られ、「人生の体臭」が脱臭された純粋な概念性に満みちた「死」の表現が目指されたために、悲劇性の中和剤(相対化)としての「喜劇性」が持ち出されたのでしょう。

著:T. ホッブズ, 原名:Hobbes,Thomas, 翻訳:洋, 水田
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コラム
絵と言葉による説明

北野監督は自らの創作活動としての原点が「漫才師」であるにも関わらず、自身の映画制作においては、「言葉による説明」を意図的に閉め出してきました。

初期作品群におけるセリフの異常なまでの排除(廃棄)ぶりとそのことによる効用(効果)は、多くの識者が指摘するところです。

映画は視覚芸術の一種であることの配慮からか、彼は「絵による説明」を優先し徹底します。

「視覚的表現」はそれが過剰であれば、「言語的表現」と同等の煩わしさ(野暮さ)を招き寄せ、過小であるのならば、言葉の場合以上に意味を置き去りにしてしまいます。

スクリーン上に展開される「説明」においては、過不足は作品のクオリティを左右しかねない重要性を持つと言えるでしょう。

「絵による説明」においては、イメージの連鎖が第一義的に目指されているのではなく、あくまでフィルムを「読む」ための理解を助けることを目的として、それは成されなければならないのです。

今日、現存する映像作家のうちで、北野武以上にこの点に自覚的な作家の名を挙げることは非常に困難であると言えるでしょう。

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先に引用したインタビューにあるように、北野は「死は呆気なく描く」を心がけています。

これは本作も例外ではないのですが、であるならば、なぜシリアスベースの過去の作品と比較して本作ではこれほどまでに「笑い」がブレンドされているのでしょうか。

理由のひとつとしてここで指摘したいのは、『首』の中で溢れかえる夥しい死に対して観る者が結果として「不感症」に傾くことを止められない事態を回避せんがために、ある程度の物量の「笑い」が投入された点です。死に付着する悲劇性の除去(解毒)として喜劇性が呼び出されたと言えるでしょう。

想定される反論として『アウトレイジ・シリーズ』においても少なくない死体が転がったわけだから、「不感症」の観点より同シリーズに「笑い」が見当たらない理由に関して説明を求める異議があるのかもしれません。ごく簡単に述べるならば、『アウトレイジ・シリーズ』がフォーカスしているのは死そのもの(死の本質)ではなく、死が独占的に所有している「恐怖」の方であるゆえに、死体の増加に従い恐怖は陰影を色濃くしていきます。よって「笑い」の出る幕など全くないに帰着することとなるのです。

ひとつひとつの死は呆気なく描かれたとしても、斬り取られる首の数が増すごとに、観る者が抱く死に対する観念は「不純物」で一杯になっていくことでしょう。フィクションとはいえ、人の命が奪われることに慣れ過ぎてしまうのです。

北野は、観客が死に対して無感覚や無関心な態度で接することを求めているわけではなく、あらゆる感情を拒絶する死の概念性に強襲されたときに、人は無理解や無感動と等しい「感覚(それはある種の「意味(無意味)の回収不能状況」と言い得る)」に陥らざるを得ないという「自然状態」を描こうとしているに過ぎません。

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物語の進行において悲劇性が隙間から入り込まぬように喜劇性を用いて塞いでいるのであり、同時にスクリーンに映し出される「死」から詩情や無情は遠ざけられることとなります。

感情という「水気」が一切抜け切った「死」を表現するために、感情の爆発の典型である「笑い」が召喚されるその逆説性がなんとも北野監督らしいと言えば言えなくもありません。

コラム
「過ぎない」の徹底

北野映画の特徴のひとつに「過ぎない」の徹底があげられます。

  • カメラを寄せ過ぎない(これは「師の教え」である「大事なシーンは引くべき」と地続き)
  • 説明し過ぎない(説明のためのセリフの圧倒的なまでの淘汰)
  • 演技がくど過ぎない(演者の過剰な作り込みの排除や本職の役者以外の起用の多さ)
  • 繰り返し撮り過ぎない(全てがワンテイクというわけではないが、漫才舞台の経験からライブ感を優先)
  • オープニングが長過ぎない(退屈とは無縁の鮮やかな捌けが印象的)

このような抑制の厳守ぶりが、引き算の美学余白の哲学という(特に海外における)高評に繋がってきたと思われますが、おそらく監督の「生理(浅草の粋)」に基づくものなのでしょう。

著:ジェニファー・ヴァン・シル, 翻訳:吉田俊太郎
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明・渚・武

出典:公式サイト

映像作家北野武の直接・間接的な「師匠」は大島渚と黒澤明と言われて久しいですが、本作には彼らの作品群の映画的記憶が慎ましやかに、そこかしこに散りばめられています。

大島渚(1923-2013) 岡山県出身の映画監督、脚本家。                              代表作:『青春残酷物語』『日本の夜と霧』『新宿泥棒日記』『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』『御法度』

紀伊國屋書店
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映画史とは遺産継承の歴史であり、その意味において映画は紛れもなくアートの領域(参照・引用・模倣・反復)に属している「公然の事実」を今一度思い出すべきでしょう。

北野監督が「相続」した彼らからのギフトとは、人間の業を通じた逆説的な人間讃歌のスピリットであると言い切っても、もはや構わないのかもしれません。

コラム
理解者へのリスペクト

次から次に登場する家康の影武者たちのインフレーションは、戦国大名の悪党ぶりを強調すると同時に、黒澤明監督の『影武者』へのオマージュに他ならないのでしょう。

照れ屋で有名な北野監督らしい演出であると思われます。 

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コラム
セリフの廃棄

北野演出の特色として、先に述べたように説明(描写)のためのセリフの極端な排除があげられますが、当映画においてもそれは有効に機能しています。

言葉が全ての漫才の反動であるかと疑いたくなるほどに、北野が構成する画面は沈黙をことさらに愛しているかのようです。

しかしながら、その沈黙はしゃべくりのDNAを受け継いでいることから、興味深いことにどこまでも「饒舌」であると言えます。

本作における、城の奥の寝室ではなく、大型の天守(ある意味青空の下で)において信長が森蘭丸とまぐわう、ほぼほぼ台詞なき短いシーンは、信長の性格(非人間性)や権力の大きさ(経済的パワー)を実に雄弁に物語ります。

「雄弁は銀、沈黙は金(黙るべきタイミングを知っていることは非常に大事であるの意)」というフレーズをたまに耳にしますが、北野映画では雄弁な沈黙が度々スクリーン上に登場するのです。

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本作をこれまでの時代劇・戦国武将を取り巻く作品群との「拮抗」というような貧しい目線で捉えるのではなく、首というタイトルを持つ「価値観(人体)の解体ショー」が、欲動が蠢く人の心の闇の奥に足を踏み入れていながらも、ショービジネスとしての高次のクオリティを達成している「容姿(複層的構成)」をまずは認めるべきなのでしょう。

映画は視覚的要素を抜きにしては成立しない総合芸術である「キネマ的常識」を無視するつもりは全くありません。そのような行為は単なる暴挙です。

とは言え、

首が右往左往する波乱と混沌に満ちたこのエンターテイメント作品において、何が生み出され、何が生み出されていないのか、はたまた、何が選ばれ、何が選ばれていないのか、さらに、何が捨てられ、何が残されているのか、つまり、何が描かれ、何が描かれていないのか、その殺気だったバランス(在と不在の相克)を見逃してしまう愚を我々は決して犯してはならないのです。

パドー

幾度もの鑑賞に耐えうる傑作です。機会があれば、ぜひご覧ください。

著:モーリス・メルロ=ポンティ, 翻訳:滝浦 静雄, 翻訳:木田 元
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コラム
KITANOとMURAKAMI

日本を代表するクリエイターである北野武(1947生まれ)と村上春樹(1949生まれ)は戦後が始まってまもなくの時期に生を受けた同世代人であり、意外な共通点があります。

世界を股にかける映画監督と国際的文学者は共に「痛み」に関して異常なこだわりを持ちます。

彼らの作品の中で「痛み」は、決して精神的・抽象的なものではなく、極めて肉体的・即物的な次元において度を超えた生々しさをたたえながら描かれています。

「痛み」への執心は第二次世界大戦が終わりを迎えた後の傷跡(大暴力の余韻)が少なからず影響していると考えますが、ここでは指摘するに留めます。

彼らは観る者(読む者)の生理に訴えかける「痛み」の描写を通じて、人間の根源的な存在性を炙り出そうと試みるのです。

痛みとは言うまでもなく、徹頭徹尾私的かつ個別具体的であるために、誰もが他者の痛みに関しては自らの経験により推し量るしか術を持ち得ません。

ゆえに、互いの痛みはいつも隔絶しており、理解への努力は決まって貧しい結末(独善的想像)へと流れつきます。

この意味から「痛み」は実に単独的であり存在論的であると言えるでしょう。

一見すると似ても似つかない二人の創造者は「自己の存立点」に殊更に敏感であり自覚的であるに違いありません。

自己、すなわち「自分とは何か(何者)」という古くて新しい問いは永遠性を有するがゆえに常に今日的課題であり、だからこそあなたは彼らの創り出す作品に度し難く惹かれてしまわざるをえないのです

監修:淀川長治, 読み手:淀川長治
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✒︎ writer (書き手)

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本サイト「シンキング・パドー」の管理人、人事屋パドーです。
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書くという行為それ自体が私にとっての「考える」であり、その過程において新たな「発見」があればいいなと毎度願っております。

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