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映画「首」相対化の権化としての秀吉(監督北野武覚書)

kitano film
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世界のキタノの最新作は「時代劇」だった

出典:公式サイト

『その男、凶暴につき』(1989)で初メガホンを取って以来、6年ぶり19作目の監督作品となる北野武氏の『首』は、第76回カンヌ国際映画祭(カンヌ・プレミア部門)において上映後、本年2023年11月23日より全国公開中ですが、キャストは北野組の常連を含めた豪華俳優陣の揃い踏みとなります。登場人物のひとりひとりに見せ場を用意する心配りの行き届いた演出が徹底されています。

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キャスト

  • ビートたけし(羽柴秀吉)
  • 西島秀俊(明智光秀) 加瀬亮(織田信長) 中村獅童(難波茂助)
  • 木村祐一(曽呂利新左衛門) 遠藤憲一(荒木村重) 勝村政信(斎藤利三) 寺島進(般若の左兵衛) 桐谷健太(服部半蔵)
  • 浅野忠信(黒田官兵衛) 大森南朋(羽柴秀長)
  • 六平直政(安国寺恵瓊) 大竹まこと(間宮無卿) 津田寛治(為三) 荒川良々(清水宗治)
  • 寛一郎(森蘭丸) 副島淳(弥助)
  • 小林薫(徳川家康) 岸部一徳(千利休)

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コラム
ポスターの構図

本作のメインポスターは、ひと目見るだけで主要人物たちの「内奥」が平易に理解できる、サジェスチョンに満ちた仕上がりになっています。

遠くを見据える目線の類似性に着目するのならば、家康と光秀は具体的な対象物にやたらに視線を注いでいるわけでは決してなく、「ある理想」に瞳を奪われていることが苦もなく読み取れるはずです。それは己の信じる未来(武人の一大目標)である「天下人」であるのでしょう。

これとは異なり、「顔の傾き(鋭利な眼光)」が相似をなす二人の人物にフォーカスしてみれば、信長と秀吉が凝視するのはあくまで「人間」であり、より正確に言えば、射抜かんとする相手の「腹の底の溜まり」に違いありません。

対照的である「魔王」と「人たらし」が共に有する、人を虫ケラと見下す冷徹さ残忍性といった共通項があなたにも伝わってくるはずです。

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パドー

文字数30,000語強となりますが、以下に本作について考えたことを書き記します。作品論を中心に北野映画全般についても触れています。

パドー

内容に言及しますのであらかじめご了承ください(まだ観ていない方はご注意願います)。

kubi

四半世紀近くにわたり北野武作品が世界のクリエイターたちを刺激し続けるのは、想像力をめぐる他を寄せ付けないその演出術にあります。

凡庸な才能であれば、自らの想像力の激成・拡張を目論み、本来観客が想像すべきものを実体化してしまい、映像体験を台無しにする愚から逃れることができません。

しかしながら、キタノ演出は、観る者のイマジネーションに委ねるべきところは一切の躊躇なく任せきることを目的とし、大胆な割愛を惜しげもなく執行する一方で、理解・把握のハレーションを誘発しかねない過剰なまでの映像的饗応を徹底します。ひとつの作品の中でベクトルの異なる運動が展開されているのです。

見せるべき必要なきものは無慈悲なまでに視界から遠ざけ、視界を覆うべき理由あるものはこれでもかと言わんばかりに濃厚かつ細密に見せつける演出こそが、彼を多くの映像作家から厳に隔てている証となります。

本作をご覧になれば、あなたも自身の「想像力の羽ばたき」を存分に楽しめることでしょう。

kubi

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欲動の騒乱

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本作では、日本史を学んだ人であれば馴染みが深い「本能寺の変」に焦点が当てられながら、戦国武将たちの首(命)のかかったパワーゲームが繰り広げられています。物語は信長の首(死)に向かって突き進みますが、そこが極点ではありません。

コラム
敵は本能寺

本能寺の変(1582年)

織田信長の家来である明智光秀は一万余りの大軍を率い、京都の本能寺に宿していた憎き主君を急襲しました。もはやこれまでと観念した信長は寺に火を放ち自害したと伝えられています。

無念にも光秀は敵将信長の首を見つけられなかったようですが、静岡県西山本門寺には、首が埋めてあると伝わる首塚が祀られています。

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過去に多くの表現方法(媒体)により描かれてきた有名な状況設定(信長のクライマックス)が借用されながらも、本作品でくり抜かれているのは赤裸々な人間の欲動であり、欲動の騒乱です。

ここでは、ロマンティックな成分が全くと言っていいほどにきれいさっぱり除去され、ヒロイズム的要素もこれまた周到に選り分けられながら、物語は進行していきます。

あなたの目の前に展開されるのは、あくまで壮大なる乱痴気騒ぎであり、滑稽と魂胆でむせ返る「人間劇場」に違いないのです。

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コラム
目眩がいっぱい

家臣を前にして「人間、生まれた時からすべて遊び」と吐き捨てる圧制者信長に対する理解を深めるための補助線として、社会学者ロジェ・カイヨワの「遊び」に関する考察は参考になるはずです。

彼は著書『遊びと人間』の中で「遊び」を競争・運試し・ものまね・めまい、の4つのカテゴリーに分類しています。

この分類の中で、信長の特徴を最もよく表しているのは「めまい」であると思われます。カイヨワの区分けに従うと「めまい」とは、刺激を純粋に求め楽しむ試み全般を指します。

「遊び人間」信長とは「めまいの人」に他なりません。

命懸けで「過激」を追い求めるクレイジーガイの毎度の蛮行に家臣たちは振り回されながら、さぞクラクラと気が遠くなったことでしょう。

著:ロジェ・カイヨワ, 翻訳:多田道太郎, 翻訳:塚崎幹夫
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闇の奥

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北野監督は、欲動を取り(撮り)上げるとき、性愛(情炎)ではなく暴力(死あるいは死を通しての生)に執拗にこだわり続けている映像作家ですが、当作品ではバイオレンス表現のより一層の追求が目指されています。

限度を超えて欲動に肉薄するために、現代社会から戦国時代へと舞台を変え、例外なく誰もが抱える闇の奥に向かってさらに下降していきます。

ごく簡単に定義するのならば、ここで述べる「バイオレンス」とは、意志(理性ではない)や快楽を振り切り、置き去りにする「荒ぶる力」それ自体を指します。必ずしも怒りや恐れといった「心の弱さ」と関係しているわけでもなく、以下に述べる心魂の奈落から出し抜けに産出されるものなのでしょう。

欲動は自己の深淵(闇の奥)より後から後から噴き上がってくるためにまるで制御不能であり、つまりそれを無視したり懐柔することが土台不可能というほかなく、ひとたび暴れ出すと物語、規範、掟や制度により抑えつけることなど絶望的なまでに期待できないゆえに、白旗をあげ飲み込まれるか、あるいは自らの命と引き換えの相討ちに持ち込むぐらいしか対抗手段は決して見つかりはしない「非自己(自己の中の特異点)」であるのでしょう。

他人の命を奪うことと自らの生を断つことの見境がまるでつかない欲動の奴隷たち(欲動の勝者たち)こそが「戦国の武人」に他ならず、それゆえに北野は名の知れた「輩ども」をスクリーン上に引っ張り出したに違いないのです。

ここで言及する「見境がつかない」とは他人の首を狙うために自らの命を賭けるといった覚悟では全くなく、突き上がってくる欲動に振り回されるがままにとりあえず他人の命を奪ってはいるが、なんなら自らの首でも一向に構わないといった心的状況下にあるというほどの意味となります。

コラム
源泉としての性愛

本作において性愛が暴力の原動力(駆動力)として据えられていることは否定しません。武士の惚れた腫れたが、事が荒立てられる「推進力」となっています。

しかしながら、性愛を真正面から取り上げていると言い切れるほど、確信的にエロスに力点が置かれているとは思えないのです。

添え物以上サブテーマ未満といったところでしょうか。

この中途半端感が、「BL理解の不足」や「紋切型の同性愛描写」といった辛口なご意見を招き寄せているのかもしれません。

昔々の世界

出典:公式サイト

バイオレンス表現の徹底化を鋭角的に推し進めることを目的とし、グロテスクばかりがやたらに瞳を覆ってしまわぬように、人殺しが常態化している戦国時代という「舞台」があえて選び取られているのでしょう。

その舞台は「良識派」の手が届かない、人権や命の尊重に関する省察とは無縁の「昔々(ロングロングアゴー)」の時空世界となります。

剥き出しの生が激しく乱舞する世界(ステージ)。

「野生の王国(非倫理的フィールド)」にあっては、無論のこと生命に重さも軽さもないのです。

コラム
狂った者ども

玉座の主である信長の狂気ばかりに注目が集まる本作ですが、光秀が夜の闇に紛れ鬱憤ばらしに罪のない者を信長らに見立てて亀山城内の庭先にて斬り殺し、銃で撃ち殺すシーンを目の当たりにすれば(村重にマントを纏わせ信長に見立てて殺す一歩手前でとどまるシーンは彼らの奇妙な三角関係を念頭に置くのならば、非常に意味深な場面であろう)、それが武人の「日常」であるとしても、農民上がりの秀吉は紛れもなく大悪党には違いあるまいが気狂いではなかったなと口にしたくもなり、とはいえ、異常者だらけの中にあって正気を保っているのならば、彼もまたある種の狂人であったかと妙に得心してしまうのです。

「アウトレイジ」シリーズの単なる延長線として本作を評する意見もあるようです。

しかしながら、反社会的勢力の抗争という状況設定のリミットを超えて映像表現が志向されているために、コンプライアンス全盛の今日の表現を取り巻く時代的制約(映倫的規定)に鑑み、「戦国時代・武将」が消去法的に選択されたのだと思われます。

現代の東京を舞台にしてしまうと、斬首の応酬はNG確定となり、猟奇性だけが悪目立ちするスプラッターフィルムとなってしまうことでしょう。

コラム
タテとヨコの運動

「アウトレイジ」シリーズより多用される俯瞰のシーン・ショットは本作でも効果的に挿入されていますが、これに加え、水平の移動がことさらに強調されている点も見逃すわけにはいかないでしょう。

村重に迫る重量感あふれる攻城兵器や船上の切腹場面におけるフライング気味の秀吉軍のとんぼ返りにみられる律儀な横移動

一方で、ワイヤーアクションによる劇画タッチの忍び同士のつばぜり合いや西部劇を意識した吊り下げられた死体を映し出すカメラの舐め上げるような上昇(垂直)運動を思い出してみてください。

加えて、村重が収められた木の檻が闇夜の崖を転げ落ちる下降(垂直)運動を忘れてはなりません。

タテヨコの強調が縦横無尽に物語の展開に効果的なアクセントを刻んでいます。

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首の映画である

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シンプルに『首』と題された本作は、ご想像の通り人間の首(命)をめぐる物語となります。

コラム
蟹のハサミ

冒頭の川の浅瀬に倒れている首なし死体の切断面のあたりを這うサワガニは、蟹→平家蟹→平家→滅亡へのイメージの連鎖を招き寄せる特権的なまでの道具立てに違いありません。本作のテーマのひとつであろう「滅び」を鮮やかに印象付けるオープニングシーンです。

蟹のハサミの白さと大きさに思わず視線が吸い寄せられるとき、切断という一点において振り下ろされた刀の刃と否応なく呼応してしまう想像をもはやあなた自身、止めることなど不可能であるのかもしれません。

首が落とされた亡骸が浅瀬に転がる物語の幕開けでは、あるべきところに首がないために、かえって在ったはずの首の存在性がざわめきはじめます。

不在の寂静さを味わう暇もなく、物語は首取り闘争へと掻き立てられながら、ラストシーンにおいて「モノ」と化した首が呆気なく蹴り飛ばされ、その首(擬似サッカーボール)があるべきはずもないゴールマウスに低い弾道を描きながら吸い込まれるであろう妄想の瞬間の訪れとともに、唐突にエンドロールへと雪崩れ込みながら映画はひたすらに終息に突き進みます。

首の消失に始まり、首の退場に終わる眼前のフィルムが、紛れもなく首の映画に他ならないことを、同じことですが、血も涙もない残虐さのために血も涙も無い(枯れ果てた)物体に変じた首こそが主役の地位にふさわしい映画であったなと、あなたはただただ肯首せざるを得ないのです。

コラム
サッカーの起源

8世紀頃のイングランドにおいては、戦争に勝利すると敵の将軍の首を切り取り、それを蹴りあい、勝利を祝したと言われており、これがサッカーの起源であるという説もあるそうです。

本作のペナルティキックのようなラストシーンはそのことを否応なく想起させる躍動感が認められます。

どの首も首を欲する

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ひとたび戦さとなれば、敵将の首をあげられない無様(たわけ)は何があっても避けるべき失態であり、武人の本分(魂・威厳・気骨)を左右しかねません。

落とされた敵の首は自らの勢力拡大己の身の危険のとりあえずの回避を約束するものでしょう。

首を取られないために首を取り続けるデス・ゲーム(勢力争い)から誰も降りられないのです。

敵の手に自らの首が渡ることは武将にとっては死んでも死にきれない無念であると同時に、ある意味、武者としての存在価値の証明(誉れ)であると言い得ます。

欲しければ首をくれてやるとの大見得を切るためなのか、武士は武士であることを命尽きるまで決してやめないのです。

コラム
安らかな死に顔

刎ねられた茂助の首が首実検のために秀吉たちの前に並べられたとき、その表情に無念さが欠片もなく、幾分安らかに微笑みをたたえているように見えてしまうのは、単なる錯覚などではなく、武士だからこそ斬首されたある種の「幸福感」、曲がりなりにも武士の端くれとして死ねることの「達成感」がスクリーンの上を漂っているからでしょう。

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底辺を抜け出したいと乞い願う農民や地べたを這う下級武士どもにとって、敵の大将の首を取る(手に入れる)ことは、微々たる人生の一発逆転を可能とする「値千金」に違いありません。

一方、自衛と略奪を兼ねた落武者狩りに精を出す農民たちには、侍の首とは(多い少ないに関わらず)金品との「引換券」程度の意味しか持たないのです。

山菜取りやキノコ狩りに極めて近かったといえば、口が過ぎるでしょうか。

コラム
弱肉強食

多人数の農民たちがひとりの落武者に対して竹槍を突き刺す生々しさは、大地と共に生きる者どもの逞しさ禍々しい生命力を観る者に焼き付けます。

このような弱肉強食の「リアル」は『七人の侍』を撮った黒澤明がスクリーン上にいぶり出した、先入観で頭が一杯の連中が眼を背けたくなるような「土着性」です。

光秀の首を手にした茂助の栄光(束の間の悦び)を一瞬にして奪うかのような、侍もどきに対する竹槍の雨霰はひときわ熾烈を極め、欲望や嫉妬、憎悪が溢れかえる、おぞましき印象を与えます。

本作においても、戦国社会の多層性への目配りのためには、外せないシーンであるのでしょう。

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コラム
戦慄する人でなし

茂助がその手で殺めた幼馴染の為三の亡霊に苦しむのは、罪の意識からではありません。女房子どもの惨殺遺体を前にしても動じない「人でなし」がたかだか幼馴染の男の死(殺人)に対して罪悪感に悶絶する訳などあろうはずがないからです。

彼が死んだ人間に震え慄くのは一種のドッペルゲンガーを執拗に体験したからに違いありません。

ドッペルゲンガーとは、自分自身の姿を自分で見てしまう幻覚の一種。「自己像幻視」と呼ばれもする現象のひとつ。

為三の計画(武士になり人生を転換(逆転)する)を盗んだ茂助の人生は殺害した為三(同時に自分自身)の「人生」に他ならないために、もうひとりの「自分(視覚的には為三)」が見えてしまうことは恐怖以外の何ものでもなかったはずです。

その理由は、瞳に映るもうひとりの自分にいつでもとって代わられる(自分が自分に殺される)可能性(脅威)が「盗人」である茂助には「現実」であったからなのでしょう。自分の首を自分自身に狙われる怯えから逃れられない事態が「彼の人生(デッドエンド)」なのです。

絶命の刹那、群がる農民たちのうちに為三の「姿」を認めてしまうのは、殺されることの脅威からの解放、すなわち、ようやくに安寧(罪の浄化とは程遠いが)へと辿り着いたからに違いありません。

首の扱いよりどりみどり

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正真正銘の第一級の首であった信長や光秀の首の行方は今もって史実上の謎ですが、監督の北野は独自の解釈を本作で展開します(何十にも及ぶ諸説があるそうです)。

あなたが見るべきはその解釈のユニークネスではなく、首に対するアイロニカルな扱いの手触りの方でしょう。

後述する、信長、光秀、宗治、そして村重や利休にその感触が端的に表現されています。

コラム
トリオ・ザ・秀吉

秀吉軍の「ビートたけし」「大森南朋」「浅野忠信」という三匹のサムライが作り出す、脱力感満載の一筋縄ではいかない「胡散臭さ」の素晴らしさをぜひ堪能してください。

弟である秀長役を演じる大森の兄秀吉との距離感(肉親の甘えが抜けきらない主従関係)を意識した自然な演技が「ゴールデントライアングル」に一層の風味を与えているのでしょう。

優れたキャスティングがもたらす想像を超えた「化学反応」と言わざるを得ない「良質のムード」が醸成されています。

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信長 独占される首

理不尽を強いられてきた家臣の弥助に信長は実にあっさりと首を刎ねられます。燃え盛る本能寺において弥助は主君の首を引っ掴み、炎の中に消え去っていきます。

明智軍の必死の捜索を嘲笑うかのように、弥助は未来永劫「彼(戦利品)」を独占するのです。

武将としての最期に自らピリオドを打つことを許さず、独裁者の生涯の決算を宙吊りにすることが、作中で男色としての衆道に触れている点に鑑みれば、主君への歪な「愛」の形であったと言えるはずです。

コラム
主従の相似性

一般的に愛情と独占欲は切っても切れないものですが、信長の村重や光秀に対する愛情表現を目の当たりにするとき、気高きならず者にとっての愛とは支配欲に他ならなかったのだと思わざるを得ません。

この観点から眺めると、本能寺での信長に対する弥助の「行為」は憎しみのコーティングが施された支配欲(異常な独占欲)のなせる業と見えなくもないことから、やはり主君を「愛していた」と言えるでしょう。

支配され続けられた男(海の向こうから来た家来)は男(主君)を支配(愛)したかったに違いありません。

かつて光秀が宣教師の刃にかかろうとしたとき、親方様を以前よりお慕い申しておりましたとの機転をきかした咄嗟の命乞いとそれに続く信長の鼻の下の尋常ならざる伸び加減を目の当たりにした弥助のショットを思い出してみてください。

そこには隠しきれない嫉妬と諦めが画面を覆い尽くそうと棚引き始めており、選ばれたのは自分ではないために、いつか自分だけのものにしたい占有欲に着火がなされた瞬間が見て取れることでしょう。

後日、燃え盛る炎を背景として絞り出される、黄色に対する黒色の侮蔑(積年の憎悪)を確かに耳にしたとしても、あなたは信長と弥助が「同根」であることをきっと疑わないはずです。

著:小室直樹
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コラム
アンチ・ホモソーシャル

本作では、武士団(武家集団)において一般的に認められるホモソーシャルな団結に関しては「男同士の色恋沙汰」の意図的な前景化のためか、特に力を入れて描かれてはいません(むしろ織田軍の不協和音が聞こえてくるばかりです)。

「ホモソーシャル」とは、女性および同性愛(ホモセクシャル)を排除して成立する男性間の緊密的な連帯性や関係性を意味する概念。アメリカの文学研究者であるイヴ・コゾフスキー・セジウィックの著作『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望(1985)』によりその用語は広まっていった。

穿った見方ですが、「殿」を頂点とした「たけし軍団」との訣別の決意が作品構成において遠からず影響しているのでしょうか。

少なくと『アウトレイジ・シリーズ』では、ホモソーシャルな美談的絆と自壊(なし崩しの死)がいずれも描かれていたはずなのですが・・・

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光秀 ボールのごとき首

山崎の戦い後に秀吉が実施する首実検において、光秀と茂助の首はその他大勢と同様に「戦利品の一部(落武者狩りの成果)」として持ち込まれ並べられます。

かろうじて茂助の首ではないかと秀吉たちが首を傾げる一方で、顔の原形をとどめ難い光秀の首は本人と断定されることなく、言葉本来の意味で秀吉により足蹴にされます。

もはや光秀の首など大勢が決した今、まるで(首のない胴体のように)無価値であるのだと非情にもラストシーンは断じます。

コラム
動点としての光秀

オープニング近くにおいて光秀は興奮する信長に足蹴りを喰らい後方に吹き飛び、また別のシーンでは信長の命を受けた弥助に力任せに放り投げられ障子を突き破ります。これらはラストシーンの秀吉によって蹴り飛ばされる自身の首と同じ円弧を描くのです。

間違いなく監督のこだわりが認められるこのような放物線の軌跡は、山崎の戦い(秀吉軍VS光秀軍)において放たれた夥しい量の矢が実現する「美しい曲線の重なり」としても登場しています。

これらの曲線運動が教え諭すところは、浮薄な行動を繰り返す光秀(孤を描く男)の実存的かつ物理的な存在の軽さに違いないのです。

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宗治 小道具としての首

和睦の条件としての清水宗治の切腹(辞世の句:浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して)は、船上にて厳かに時間をじっくりとかけて執り行われますが、水面へと転げ落ちた介錯後の首を家臣が慌てて拾い上げようとし、自らも無様に落水するシーンは、現代のお笑い番組のドタバタコントを観るものに容易に想像させてしまう演出が意図されているかのようです。

義に厚く仁を重んじる武将の首が笑いの単なる小道具に一瞬にして転化する様がフィルムの表層を疾走します。

コラム
間をつかむ

第60回ヴェネツィア国際映画祭の監督賞(銀獅子賞)を受賞した『座頭市』において完成されたと言える、台詞終わりに続くアクションが始動するまでの間の見事さは船上シーンをはじめ本作においても随所に認めることができます。やはり一流漫才師の間合いを掴む「握力」は尋常ではありません。

監督:北野武
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村重 落ちない首

冒頭シーン直後に、攻め込まれる有岡城を後に退散する家臣に対して逃げるなと連呼し、臆病者となじりながら孤軍奮闘ぶりを発揮するも、落城するやあっさりと姿をくらましたが早々に捕えられる喜劇人的要素がたっぷりの村重。右手に悲壮感、左手に可笑しみを握らせる演出には脱帽するしかありません。

後半に至り、その生死をめぐる駆け引きの顛末からもはや首をとる対象(意味)ではなくなってしまい、首が落とされることもなく木の檻に入れられたまま、崖から突き落とされます。

かつては名の知れた武将であったことなど全否定される程の扱い(命)の軽量さが、淡々と描かれているのです。

コラム
忘れえぬ目玉

檻の中で最期の刻を待つ村重のこぼれ落ちそうな眼球の磁力に逆らうことができないあなたは、これは『パピヨン』のマックイーンや『シャイニング』のニコルソンも確かに見せたことがあった絶望と狂気により濁る目の玉の鈍色に違いないと、思わず口をつくはずです。

と同時に、遠藤憲一の瞳から放出される「シェイクスピア的な悲壮感」に触れるとき、これは『乱』において仲代達也の落ち窪んだ目玉からだらしなく漏れ出ていた自暴自棄の気配と密かに共鳴しているのだなと、ひとり合点がいくのかもしれません。

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利休 洗われる首

史実として最後は秀吉に切腹を命じられる茶人は本作では首が落ちることはありません。

戦国の世の荒波を巧みに泳ぎわたる「芸術と政治に通じた経済人」は劇中において次のようなセリフを口にします。

わては毎朝、自分の首をよう洗うようにしております。天下平定まで、着物の襟はパリッとキレイにしたいもんですわ

堺の自邸で光秀を前にして口にされたこのセリフは、村重と一脈通じているとの噂が広まっていること自体、ワキの甘さの表れであるとの光秀へのソフトな戒め(忠告)に他なりません。

と同時に、慣用句的には「首を洗う(首を洗って待っている)」とは自らの犯した罪を自覚しながら裁きを待つ心情を表わすことから、利休自身が権力の中枢に深く関わり過ぎたので、いつかは口封じをされるとの覚悟が仄めかされているのでしょう。

天下平定という大義のために自分はどのような汚れ仕事にも奔走するが、芸術家(文化人)としての美意識は片時も枯れることなく、いつでも死ぬ覚悟はできている(武士の如き)矜持が吐露されているのです(シミひとつない雪の如き死装束のイメージ)。

著:波多野 聖, その他:   
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残りの主要人物である秀吉と家康については次のように言えるでしょう。

  • 秀吉 首にこだわらない首
  • 家康 逃げ回る首

史実の通り、これらの野生(サルとタヌキ)の首は劇中ではもちろんのこと落ちません

獰猛な虎臆病な兎を己の内奥に飼い慣らす二頭の「巨星」はある意味よく似ているのでしょう。

互いが互いの「影」であるかの如く、大胆かつ繊細な振る舞いを常とし共に登り詰めます。

天下統一に辿り着いた二つの首には死神も追いつけませんでした。

コラム
浮かぶ草履

家康の草履を懐で温める場面での秀吉の連続する動作は剽軽猿の面目躍如と言わざるを得ません。

その中で注目すべきは、馬鹿馬鹿しいとばかりに目にも止まらぬ速さのスナップを効かせて後方に投げ捨てられた草履が庭の小池に浮かぶショットが顕にする、なんとも不吉さを漂わすその有様にあります。

かつて秀吉が信長の草履を懐に温めた、よく知られたエピソードを彷彿させるこの一連のシーンは水面に浮かぶ草履のショットにより一転し、不気味さの波紋が一気に広がりはじめます。

投げ捨てられた物体(浮遊物)が討ち取られた武将の首を想像させずにはいられない問答無用のイメージの跳躍を楽しむべきなのです。

加えて、本場面はこれとは別の想像の乱舞を可能にする肥沃なシーンであると言えます。

小池の淵の苔を中心とした繁茂する深みどりの生々しさにハッとするあなたは、冒頭の首なし死体が転がる川瀬の後ろに控える一面のうす黄緑が瞬時に脳内に明滅し、これらは確かに逆接しながら呼応しているのだなと直感が確信へとすぐさま変転することでしょう(緋色ではなく翠色が絶命を象徴する彩りとして採用されている)。

一点集中キャラ

出典:公式サイト

商業シネマは産業の一部であるため、劇場での上映時間という物理的制約からどのような映画も決して逃れることはできません。効率よく儲ける・稼ぐの立場からすれば、上映時間が半日あまりに届く「超大作」を映写したい映画館などほぼ皆無のはずです。

現代の資本回収の観点より、本作も観る者の理解を促進すること(尺の巻上げ)を目的とした、小気味の良い「交通整理」が講じられています。

そのひとつが、登場人物の造形における振り切ったキャラクター設定となります。

信長・秀吉・家康の三人ともに、ある角度から強烈に光をあてて、キャラクターをわかり良く立ち上げているために、全体像把握のキーとなる「体臭」や「心根」が影に隠れざるを得ない人物描写となっています。

二時間あまりの物語の中で、ひとりひとりの解剖学的掘り下げなど、考えるまでもなく不可能に違いありません。

コラム
恋愛対象ではない

信長と秀吉の「濡れ場」がないとの言いがかり的な見解も一部あります。もちろん衆道においては、主君と家来の間の倫理的結合は無視できせん。

とは言え、命を預けた・預けられた「戦国の日常」にあって、絆を実感するための「肉の手応え」の必要から、武将間の同性愛事情は戦場では言うに及ばず、普段から「日常茶飯事」であったと推測できますし、同時に、「武士の嗜み」の観点からみても彼らにとっては「平常運行」であったはずです。

けれども、そのような関係はあくまで「同種(族)」の仲間内ではじめて可能であって「異種(族)」は排除(選別)の対象とならざるを得ないのでしょう(天守での蘭丸との嗜みの傍らに見せつけるように光秀だけを待機させていたことからも明白であろう)。

つまり、「身分違い」の秀吉はそもそも「恋愛対象」にはならなかったゆえに、二人の「関係」が描かれていないことは「正解(必然)」であると言えるのです。

本作で展開する「情欲(色恋)バトル」においても、秀吉は蚊帳の外であることから(演者であるたけしが参戦するシナリオ案を忌避した可能性が大だが)、紛れもなくサルは非武士的存在であり、衆道とはどこまでも「武士の領分」であることが明示されているのです。

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信長

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信長の類を見ない革新性(先進感覚)は一切合切切り捨てられ、賛否は分かれますが残虐性のみが極端にデフォルメされています。

黒マントをひるがえすご乱心(第六天魔王)が通り過ぎた後には、理不尽だけが四方八方に飛び散り、怨嗟の炎があちらこちらで揺らぐばかりです。

絵に描いたような暴虐性を体現する本作の暴君信長は、刀で口内を血まみれにした村重の唇を吸い上げる行為に代表されるように、愛情表現の最上位が暴力であると言わんばかりの振る舞いに終始します。

炎上さなかの本能寺における森蘭丸への有無を言わせぬ介錯もこれと同様の「求愛行為(アイラブユー)」なのでしょう。

この意味において、彼は「愛あふるる人」であるのかもしれません。

コラム
天守閣での漫才

黒人男性の弥助の体の中で白い部分はどこだとの信長の問いかけ(賭けの申し出)に、歯や手のひら、足の裏と常識的に答える秀吉に対して、黒墨で予めそれらの部分を塗りつぶしておく仕込みを施し、サルの浅知恵と嘲笑しながら、居並ぶ家臣にうすら笑いを強要する信長と困惑気味の秀吉の一連の乾いたやり取り(空気)は、いつか目にした「解散寸前のコンビの漫才」にどこか似ていなくもないなと、あなたは思わず漏らしてしまうことでしょう。

成果を着実に積み上げてゆく秀吉を信長は稀代の戦力と認めながらも、知恵のまわるサル(侍大将)と賛美せずに浅知恵のサル(農民上がり)の地位にいつまでも貶めたいがゆえに(取って代わられる潜在的恐怖もある)、おそらく座興の名を借りて不定期にこのように皆(武人たち)の前で慰みものにしていたのでしょう。

当然に秀吉は何もかもお見通しだったはずですが、だからこそ過度に感情的に応答することなく、淡々と対処していたに違いありません(密談の際に光秀が秀吉に放ったセリフ「捌けてらっしゃる」を思い出そう)。

家康

出典:公式サイト

信長、秀吉、家康のキャラクターをひと言で表現する場合に、頻繁に引用される時鳥に関する句の中で「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」というフレーズはご存知の通り、家康の性格(人生哲学)を表す句として有名です。

「鳴くまで待とう」と耳にすれば、徳川幕府の礎を築いた巨木のイメージからの「泰然自若感」や「鷹揚さ」を想像するかもしれません。

けれども、本作で描かれている「飄々とした身のこなしの軽やかさ」や「間一髪を実現する逃げ足の早さ」、つまり影武者(替え玉)の執拗な用意に代表される「病的なまでの臆病さ(石橋を叩いた後に身代わりに渡らせる神経症的細心)」こそが「鳴くまで待とう」を可能とする「盤石なる基盤」に他ならないのです。

家康が持する強かな老獪さ飄々とした身軽さに集約されているがゆえに(柳に風のごとき勁さは十分に伝わっている)、重厚感や思慮深さといった特質が遥かに後退する造形となっているのでしょう。

コラム
逆説的警鐘

次から次に登場する家康の影武者たちのインフレーションは、戦国大名の悪党ぶりを強調すると同時に、黒澤明監督の『影武者』へのオマージュに他なりません(本作は黒澤映画の財産である「泥跳ね」「土砂降り」「山里の緑」「肉弾」などが数多く有効活用されています)。

敬愛の情が示されているものの、素材としての影武者の「調理法」は無論のこと異なっています。

繰り返される身代わりの出現が示唆するのは、戦国時代に対する大量生産大量消費といった20世紀的解釈などではなく、生と死の相対化すなわち命の陳腐化を強調することでの逆説的警鐘であるのでしょう。

周りくどく、わかりにくいのですが、北野は命の軽量感をことさらに印象付けることで命の重みを片時も忘れてはいけないと厳に釘を刺しているに違いありません。

ストレートに語気を荒げて表現しないところに北野演出の特徴(シャイネスあるいは全ての想像力への敬意)がよく現れているのです。

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秀吉

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秀吉は、ひと言で言えば人を化かすタヌキのようなズル賢いサルとなるでしょうか。

しかしながら、戦国の世を生き抜く武将の必要十分条件が「強かさ」であるために、キャラの被りはある程度は仕方がないのですが、間抜けなサルに化けた食えないタヌキの方がむしろしっくりくるのかもしれません(演者ビートたけしの風貌・容姿に引っ張られているわけではない)。

サル知恵と思わせながら、その実、タヌキのように至極鮮やかに人を騙します。光源坊の言う「賢い秀吉様」なのです。

滑稽を身に纏い低頭を徹底する策士は、人にすり寄り説得し好機を断じて見逃さない才の塊です。

人に仕えることに飽き飽きした野心家は、ひとたび「使える」とみるや、その人物の「取扱説明書」をスラスラと書き上げ、「賞味期限」を算定します。

光秀から新左衛門まで誰もが、手の内をひた隠す秀吉の掌中で踊り、駆けずり回るのです。

彼は桁違いの観察眼と知的腕力を持つ極めて優秀な「猿回し」であったに違いありません。

コラム
芸人の起用

木村祐一氏の出演は賛否が分かれているようですが、登場直後の「同業者か」というセリフがつぶやかれる刹那、彼を起用した監督の結論に異を唱える気力など消え失せるはずです。

本能寺の炎上を見届ける彼のクローズアップが直ちに『戦場のメリークリスマス』のラストにおけるビートたけし本人にオーバラップすることを認めるならば、「恩師」大島渚への「映画的愛情」がフィルムに溢れていると、あなたも支持の意を表明することでしょう。

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求めても決して手に入らない

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首取り合戦の様相を呈する本作品の主題のひとつは「求めても手に入らない。それが(だから)人生である」という教訓(真理)なのでしょう。

あるときは悲劇の幕、あるときは茶番の幕、また別のときには皮肉の幕が上がり下がります。

信長は家康の息の根を止めようと何度も試みますがことごとく失敗し、また愛憎半ばする村重の身柄を求めながら、突然にこの世から強制退場させられます。

光秀は憎き敵将(信長)の首を懸命に捜索し所望するも、その首を抱くこともなく自らの首を落とされます。

コラム
明智光秀役

当初、明智光秀役には渡辺謙が予定されており、他の作品の撮影スケジュールの都合上、キャスティングできなかったために、西島秀俊の起用に至ったという記述を目にしました。

お二人とも、シリアスの中にユーモアを自在に放り込むことのできる日本を代表する技巧派です。

起用をめぐる真意のほどは確かめようもなく、ハリウッド常連のKENの光秀も観たかったという純粋な好奇心も抑えられません。

けれども、西島氏の光秀はまさに適役としか言いようのない収まりを誇示していました。

本作における光秀のキャラクターは一言でいえば「不徹底」です。

詰めの甘さや深慮の中途半端感を西島光秀はごくごく自然体で発散しています。

信長にヘッドロックされたシーンの苦悶の表情は、おそらく西島氏にしか表現できないであろう唯々諾々の葛藤が滲み出ているのです。

家康は一夜の供として醜女を指名しますが、職務を淡々と果たす配下は女を斬り捨てます。

村重は光秀の心を強く欲しますが、彼の愛はすでに村重のもとを去っているのです。

茂助は侍大将を夢見ますが、同根である農民どもに命(夢)を奪われます。

主要な登場人物たちと比較し、異質なのはやはり秀吉です。彼はどうあっても埒外なのでしょう。

腹黒いサルは望んだもののすべてを手中に収めるのです

信長の書状の買取に成功し、和睦を成立させ、主君の死を手繰り寄せます。

けれども、ひとつだけ(すぐそばにあるにも関わらず)、光秀の首だけは手に入りません。

探しても見つからないとなるやいなや、途端にそんなものは要らないと、手のひらを返します(蹴り飛ばします)。

首が主題の映画にあって、首を欲しがらないその言動から明らかなように、彼はどこまでも例外的な存在(規格外)に違いありません。

人体の一部としての物理的な首に過剰な意味を求めず、その象徴性に一片の価値をも見出さない秀吉の首(命)こそが今や最も価値あるもの(天下人)へと競り上がっていく、その逆説性を監督は鮮やかにあなたの目の前に差し出すのです。

つながらない首(屍体)に見向きもしない首(主体)だけが首(生存)がつながっていくのです。

コラム
組織を掠め取る者

これまでの監督作品において、北野武が演じてきた役どころは、単なるアウトローというよりも、組織の原理により切り捨てられた人物(ある種の純粋性を体現する孤高のダークヒーロー)が大部分を占めます。

組織の原理に誰よりも忠実であろうとするその言動(忠誠)により、結果として組織の「敵(疫病神的存在)」と見なされ、組織内からの排除の「対象」となってしまう逆説的な生き(死に)様を強いられるキャラクター設定であると言えるでしょう。

しかしながら、本作において北野武(「ビートたけし」クレジットではあるが)が演じる秀吉は、史実からの大幅な逸脱を好まない演出であることを割り引いても、これまでの主人公(主役級)とは、いささか毛色が違っています。

組織の趨勢よりも個人の欲得を最優先し、組織に殉じる風を装いながら狡猾に組織の実権を握ろうと(喰い物に)するアンチヒロイックな行動を徹底する人物が演じられているのです。

冷めた目で組織(内部力学)を見つめる一匹狼的な設定ではなく、武士世界に対する農民視線の導入による「相対化」が図られているところに、人物造形の一層の多様化が窺えます。

価値をめぐって

出典:公式サイト

よく知られた江戸時代の落首(世相を風刺した狂歌)のひとつである「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」(この歌を題材とした絵師歌川芳虎の版画『道外武者御代の若餅』も有名)の通り、一般的には、織田信長は変革者(革命家)であり、その路線を秀吉が継承し、家康が完成したと評されています。

しかしながら、その畢生、思想や方法論はやはり三者三様です。

信長秀吉家康
ザ・狂人腹黒いサル抜け目のないタヌキ
首を刎ね続けた一生首を賭け続けた一生首を取られることから逃げ続けた一生
価値の絶対化価値の相対化価値の恒久化
三傑の比較

何度も重なり合った人生の途上で、「天下統一」に向かって「存在(生存)価値」を高めるために、それぞれが「価値というもの」に粘着し、拘泥していきます。

信長は価値の絶対化を叫び、秀吉は価値の相対化を徹底し、家康は価値の恒久化を祈るのです。

  • 暴力と緊張を操る信長にとっての価値とは「己自身」です。それ以外の価値を「生きるも死ぬも俺次第」の魔王は決して認めません。価値の絶対化とは、自己以外の存在の殲滅(この世の人間を全部血祭りに上げる)を意味します。
  • 煮ても焼いても食えない家康が求めるのは、自らが信じる価値が決して廃れないことなのです。(自身が守り抜きたい)価値が未来永劫続くことそれ自体が、彼にとっての「価値そのもの」であると言えます。
  • 結果が全ての秀吉には「天下統一」を別格として、それ以外のどのような価値も「同等」であるのでしょう。つまり、すべてが等しく「無価値」なのです。相対化の嵐の前では「価値の高低」などいともたやすく消し飛びます。
コラム
ボーダーレス

本エントリーでは議論を進める上で形式的思考(様式美)を軸のひとつに据えています。

本来であれば、武器の所持や集団武装という軍備的側面からの武士と農民の線引きは丁寧に取り扱うべき事項であると考えますが、研究論文を目指しているわけではないので一旦棚上げにし、学術的厳密さを欠きながら筆を進めています。

もちろん、農民層が戦力形成におけるある種の「供給地」であったことは否定できませんし、それを可能とした武士と農民の当時における「距離の近さ(同質性)」も無視できないことは言うまでもありません。

あまりに絶対的な相対化

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旧来の価値観を踏み潰す「クラッシャー」である信長の後釜を狙う野心家は、武士の意気地や誇りを最大限に利用し、天下取りのためであれば恥も外聞も一切構わない姿勢を断固貫き通します。

出自が農民である秀吉は侍大将でありながら「正統」の武士とは認められてはいません。

所詮、親方様の「猿真似」であることは誰よりも彼自身が自覚しており、信長の家臣団の中での自らの「異質性」をはっきりと認識しています。

この異質性(異物感)こそが彼の力の源泉となります。

サルと揶揄されてきた男の真の武器は、群を抜く行動力や追随を寄せ付けない知略ではなく、恐ろしいまでの「相対化の徹底」です。

「絶対化(恒久化)」が武士の原理に基づく「絢爛たる力の行使」であるのならば、「相対化」とは農民の哲学を下敷きにした「忍耐強い地道な作業」と言うことができます。

絢爛たる力の行使の代表例として、信長の「京都御馬揃え(正親町天皇を招待した、いわゆる軍事的パレード)」が描かれています。馬上の光秀の誇らしげな口元に漂うのは、図らずも露呈した武士の原理の限界に違いありません。この華やかなシーンにおいて、農民哲学の実践者である秀吉の姿は当然ながら映ってはいないのです。

農民の視点(思想)による武士的な価値観の完膚なきまでの相対化が、彼の才幹(真骨頂)に違いありません。

単なる否定であればそれはある種の「農民革命(鍬や鋤による下剋上)」となるのですが、日本一の出世男はあくまで武士の地位に留まりながら(利用しながら)、武士的価値(精神)を無に帰すように葬り去ります。

この相対化は相手の価値(観)の制圧ではなく、全ての価値(観)の解体が目指される、価値(観)同士の相殺(共倒れ)の徹底化と言えます。

天下取りに向かって、あらゆる価値が無価値の泥沼の底(価値の墓場)に沈められていきます。

彼にとって長きに亘り唯一無二の価値であった「天下統一」は、ある意味「朝鮮出兵(その先にあるのは明国の征服)」によって相対化されたと言えなくもないが、ここでは指摘するに留めます。

コラム
価値(観)の共倒れ

価値(観)の解体(ある種の無効化であり相対化)を目的とする、価値(観)同士の相殺(共倒れ)の代表的な視覚的例示をあげるのならば、次の二つとなるでしょう。

ひとつ目は、極々手短に簡便に表現された曽呂利新左衛門と間宮無卿の相討ち(木村と大竹。芸人同士の刺し違え)。

もうひとつは、一時的休戦に持ち込まれた斎藤利三と服部半蔵の鍔迫り合い(北野組常連同士)となります。

特に相討ちの俯瞰的構図が見せる対称性から「相殺性」が明瞭に示されている点が容易に理解できるはずです。

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相対化の権化である秀吉が実践する「圧倒的な相対化」とは、別の表現を借りるのならば「清々しいまでの使い捨て(大量消費)」と言い換えられるかもしれません。

天下統一の「御前」では、全ての価値は平等(つまりは差がないのだから必然的に全ての価値は無価値)となり、何ひとつ手元に置く必要などなくなります。

安土の天守を超えるために、彼は思いつく限りの全てを使い捨てるのです。

智慧猿の前では、金も言葉も、兵も水も忍びも、主君も信頼も、何もかもが等しく使い捨てるための単なる「用品(通過点)」でしかないのでしょう。

使い勝手のいい元忍びも切れすぎる軍師も、散々使い倒した挙げ句にそのうちに切り捨てよう(殺害)と密かに企んでいます。

猿男の瞳の中央に映るのは、信長の黒星に燃え盛っていた絶対化が実現する絶対価値などでは決してなく、絶対的な相対化を支える使用価値であったに違いありません。

ラストシーンの「首なんかどうでもいい(死んだ事実だけが大事)」との実力者秀吉の啖呵は、現実至上主義者(相対主義の化け物)の「勝利宣言」なのです。

コラム
秀吉の分身

元忍である曽呂利新左衛門はまるで秀吉の分身(有能な手下というよりもむしろ秀吉から別れ出たものの意が強い)であるかのごとくに、西に東に暗躍します(本能寺の顛末を知らせるために秀吉の寝床に報告に来る新左衛門と秀吉の連続するアップの入れ子的構図を思い出そう)。

さも道理をぶつけ合っている風を装い、道理を貫こうとする者を道理を外れた罠に嵌めようとする、官兵衛と恵瓊の猿芝居に宗治が騙される様を目撃した新左衛門が思わず漏らした「みんな阿呆か」という呟きは、言うまでもなく、この壮大な茶番劇を相対化する金言(一撃)に違いありません。

騙す者の馬鹿さ加減と騙される者のノロマぶりを全て見渡せる位置に新左衛門は立っています。相対化のポジション、すなわち人の世の営みの全てが「同価」に見えてしまうところに佇んでいるのです。

また、これと同種のセリフ(「世の中みんなケッタイや」)を新左衛門は光源坊のアジトで年に一度の祈祷祭の夜に口にしています。ここでは現世そのものが相対化(ある種の宗教観の提示)されています。

本来であれば、秀吉が口にしたであろうセリフ(絶対相対化宣言)を劇中における「トリックスター(狂言回し)」(史実では落語家の始祖と言われている)に言わせるところが、北野演出の才知なのでしょう。

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コラム
書状をめぐる仮説

甲賀の里の首領である多羅尾光源坊から買い取る「信長の書状」とは、元々秀吉が直接甲賀衆に作らせた偽の書状であると仮定するならば、少しばかり見通し(謎の解明)がよくなります。以下は仮説(のようなもの)に基づく推論(思いつき)となります。

信長が家督を実子に譲ることと、その後の家来達の処遇までが書き記された書状の存在を秀吉がどうして知ったのかという疑問(謎)は、秀吉自らが作成依頼したのであれば自ずと解消します。

例えば書状は本物であり、張り巡らされたサルの情報網に存在の事実が引っかかった可能性もゼロではないですが、その手紙が家臣の閲覧を絶対に免れると思っているほどに魔王は「たわけ」ではないので、やはり偽物であることが濃厚であるも、誰が見ようとまるで気に留めない気性・性格を勘案するならば、本物であった可能性も俄かに浮上します。

秀吉が使いを出して書状を甲賀の里に買い取りに行かせた理由は、そこが高度な秘密を扱う専門機関(業者)として知る人ぞ知る結社であったために、某所から入手したという事実が書状の信憑性を高めるからであろう。秀吉はあらゆる「穴」を事前に塞ごうとする計略家である。

*甲賀の里が人里離れた竹林の奥にあるのは、秘密結社であるがゆえに(守りの面からも)ロケーション的に当然のことと思えるが、真偽の扱いを生業の一部とする集団の居が結果として「藪の中」であることはやはり象徴的であろう。

甲賀の里を殲滅したのは明智軍であると劇中に描かれているが、その動機は十分に説明されておらず(間諜に対する報復とみてとれないこともないが)、書状のいきさつの口封じのための秀吉軍の偽装(もしくは明智軍への巧妙な焚き付け)であった可能性が高い。

書状をめぐる一連のシーンでの秀吉の対応は全て分かった上での単独の「猿芝居」とみれば、「タヌキ」も顔負けの役者ぶり(策略家)であるが、そうではなく官兵衛や利休が暗躍するチーム秀吉の仕業である可能性も捨てきれない。

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相対化の徹底としての演出

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北野武の演出は、役柄の秀吉と同様に「絶対的な相対化」が目指されているかのようです。

ここで述べる「相対化」とは、既存の伝統的価値観(通念)を無効化(陳腐化)する試みを意味します。

常識の揺さぶり。権威の引きづり下ろし。通念の転倒。アンチとカウンターが数えきれません。

威光を茶化し、不謹慎を大量投下する本作は、漫才の世界で一斉を風靡した北野の芸風に一脈通じるどころか、「原点回帰」の様相を呈しています。

唯一絶対や未来永劫などというものはこの世に存在しないし、自らの価値観を含めすべての価値観の優位性をなし崩しの死へと誘う企て(ディレクション)なのでしょう。

コラム
ユーモアにあふれている

一般的なユーモアの定義は「人の心を和ませるおかしみ」ですが、それに従うならば、「本作は思った以上にユーモアに満ちている」という感想が口にされても積極的に否定はできないでしょう。実際、秀吉を中心にしたユーモラスなやり取りは演出の成功であり、笑いを禁じ得ないはずです。

以下にこれとは異なるユーモアの定義を導入し、別の角度から本作がユーモアに溢れていることの説明を試みてみます。

批評家の柄谷行人氏はユーモアに関してフロイトを引用し次のように論じています。

「しかし、超自我のこうした性質は何よりも、「ユーモア」という論文(一九二八年)において端的に示されている。フロイトによれば、ユーモアとは、超自我が苦境におかれた無力な自我に「そんなことは何でもないよ」と励ますものなのである。」

「そんなことは何でもないよ」とは究極の相対化に違いありません。

「励まし」とは決まって価値の平準化(無効化)の完成へ向かいます。

柄谷を経由したフロイトのユーモアに対する解釈に従えば、これまで述べてきたように「相対化」を主題のひとつとする『首』とは、ユーモアで溢れ返ったフィルムと言い得るのです。

北野が意識的に講じた、クライマックスや大円団、音楽的扇動、包装されたセリフ、終わりなきテイク、史実への忠誠などを悉く排除(廃棄)するその手つきこそを、よくよく立ち止まり凝視しなければなりません。

『気狂いピエロ』(65)をあの時代に発表して、映画の作り方を一新させたジャン=リュック・ゴダールみたいなひっくり返し方で、映画はもっともっと進化しなきゃおかしい。それに俺自身、こうでなきゃいけないっていう既存の常識をぶっ壊してスゴい映画を作りたいと思っているんでね。

公式サイトの監督インタビューより抜粋
コラム
映画は戦場だ

『気狂いピエロ』の冒頭近くで、ゴダールは映画に対する自らの考え(宣戦布告)を映画監督のサミュエル・フラー(本人役として出演)に語らせています。

「映画とは、戦場のようなものだ。愛、憎しみ、アクション、暴力、そして死。要するに、エモーションなのだ。」

北野が『気狂いピエロ』を評価するのは、作品が持つ革新性に舌を巻くと共に、ゴダールの映画観に共感したからなのでしょう。

愛。憎しみ。アクション。暴力。死。それらが戦国の世を舞台として繰り広げられているサムライ・アクションフィルム。

ゴダールが並べ立てる要素を欠く映画を撮る方が、むしろ難しいのかもしれませんが、『首』にはすべてが詰まっています。

何よりも、観る者の感情がシェイクされます。

映画監督北野武は、ゴダールの定義(信念)に忠実に従い、本作を撮り上げたのだろうかと邪推したくもなるのです。

出演:ジャン=ポール・ベルモンド, 出演:アンナ・カリーナ, 出演:グラツィエ・カルヴァーニ, 監督:ジャン=リュック・ゴダール
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  • 大河ドラマに代表される「キレイな戦国絵巻・武勇伝」を骨抜きにする武将たちの下世話・破廉恥ぶり。
  • コンプライアンス全盛の風潮に真正面から風穴をあけていく、人間の死を無機的・無感覚なレベルにまで押し上げる(押し下げる)ことを目的とした斬首のオンパレード。
  • 嫁と子供の惨殺を目の当たりにして自由になったと断言させる、生ぬるいヒューマニズムへの宣戦布告。
  • 侍大将の目を見張るような活躍ではなく、後方での高みの見物的な指揮や川を渡る時の疲労困憊に起因する嘔吐の汚らしさが連想させる存在の醜悪さ。
  • スポーツ(マラソン等)と戦さが実のところ同根であると言わんばかりの秀吉軍のとんぼがえりにおける給水や握り飯の提供風景の現代の競技中継との二重写。
  • シリアスな合戦絵巻の持続的期待にたびたび風穴をあける笑いの闖入。
  • 本能寺の変をド派手なクライマックスとして決して位置付けない、一歩引いたアンチクライマックス的構成。
  • 家康と影武者の交代が役者とスタントの入れ替わりと見間違えるほどのボーダーレス化。
  • 多様性を逆手に取った、異形の者たちの無秩序な乱舞的登場かつ浪費的退場。

ピカソの絵なんか見ちゃうと、風景画や写実的な絵の何がいいんだ?って思うよね。それと同じ感覚になるような映画を作りたいという想いがずっと続いているんだよ。

公式サイトの監督インタビューより抜粋
コラム
似て非なるもの

北野が自身の最後の監督作品にしようとの決意で撮影に臨んだ『ソナチネ』(1993)は、ヤクザ映画の脱構築化が成功している傑作として高い評価(特に欧州圏)を得ていますが、これと比較して本作の『首』は、いささか芸術性に欠けるや、今ひとつ静謐さが足りないなどの論評を一部で浴びせられています。

しかしながら、両作品における描出の目的地を正確に見定めるのならば、それらの酷評がお門違いであることがよく理解できるはずです。

ごく簡単に言うと、『ソナチネ』がフィルム上に奇跡的に刻印したのは、「自己破壊衝動の変異化」と言うよりも「圧倒的な生の否定」であり、『首』において映し出されているのは、「殺戮の嵐とその後」などでは決してなく、「死をめぐる意味及び無意味の没収」に他なりません。

前者においては、間違いなく死が描かれているはずなのですが、それは「一切の躊躇・留保なき生の否定」としか言いようのない「死に似ている何か」として、我々は非自発的に受容せざるを得ないのです。

一方、後者においては、死が死であることを全く放棄したような形骸だけがスクリーン上のそこここに散布されています。

いずれも死それ自体が取り扱われているにも関わらず、映っているものはまるで似て非なるものなのです。

監督:北野武
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史実へのアプローチを含めた今回の彼の試みを定説(通俗)とは毛色が異なる北野流解釈、洒落っ気したたる戯作精神、あるいはカネのかかった悪ふざけと安直に括ることは、単純化が過ぎます(そもそも北野は「風景画」や「写実的な絵」を撮る意志が毛頭ないのです)。

ましてや本作を『アウトレイジ』の戦国版とする一面的な理解は笑えない冗談にもなりません。

『アウトレイジ(シリーズ)』及び『首』が描く世界には「共存への企て」基調音として流れており、この点から二作品の類似性が若干認められることは否定できません。しかしながら、両者の間には決定的な違いがあります。前者が国家権力との共存(隷属)なくして勢力(存続)の拡大(維持)が困難である一方で、後者においてはそのような「絶対的権勢機関(当時の帝は確かに権能を有してはいるが、万能の支配者と言い切ることには少しばかり抵抗があろう)」なきところでの生存競争が繰り広げられていたのであり、端的に言うならば、「一元的な暴力機構の有無」という明かな相違(ごく大雑把に言えば前近代と近代の異同)が認められるのです。

コラム
イタリアの巨匠

「アウトレイジ」シリーズとの関連を指摘するのであれば、題材の擬似的親近性ではなく、「群像劇(集団劇)」を撮り終えたその実り豊かな撮影体験にこそ目を向けるべきでしょう。

本作で北野が実現したかった「戦国スペクタル」に一連の経験が活かされていることは間違いないのですが、物語の多層構造化を一層推し進めるために、おそらく「フェリーニ的祝祭空間」が念頭に置かれていたものと思われます。

フェデリコ・フェリーニは、映像の魔術師の異名を持つイタリアの映画監督(1920-1993)。代表作に『道』『甘い生活』『8 1/2』がある。

「フェリーニ的祝祭空間」の特徴は、単純化すると猥雑と退廃(サーカスと娼館)にありますが、そこでは「異形のものたち」が欠くべからざる存在であったことを忘れてはなりません。彼らの登場は、現実がいかに多元的(カラフル)であるのかを実によく教えてくれるのです。

この観点から見ると「多羅尾光源坊とその側近の登場」や「甲賀の里の集団催眠的な踊り」の(奇妙・奇怪が勝ち過ぎる)シーンが本作においてなぜ採用されているのか(あまり好意的ではない意見を目にするが)の理由が理解できるはずです。

甲賀の里を描写するときの不具者たちの強調(画面には控えめに収まっているが)は弱者の集合的対抗性を匂わせているばかりではなく、おそらく北野自身の戦後の原風景のひとつであろう復員兵らの身体的欠損(戦争の傷跡)の記憶が重ねられていると想像します。それはその後の高度経済成長が地ならし(画一化)してしまった社会的濃淡(多面性)であったのでしょう。

北野は泥土に塗れたカーニバル性の導入を『首』において目指していたに違いありません(『座頭市』において既に試みられているが)。現実(世界)が持ちえる重層性を明るみに出すためには、甲賀衆の登場は必然であったのでしょう。

「異形」を散りばめた画面作りを見るにつけ、イタリア人監督のホームグラウンド(賞レースの本場)だった欧州市場(批評)が確実に視野に入っていたと、想像が逞しくなるのです。

出演:ブルーノ・ザニン, 出演:プペラ・マッジオ, 出演:アルマンド・ブランチャ, 出演:マガリ・ノエル, 監督:フェデリコ・フェリーニ
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芸術性の観点から作品を評するというキタノフィルムを鑑賞する上での「欧州経由の約束事」に対して、監督自身による「笑い」を噴霧する実験的な脱臼がこれまでいくつかの過去作品を通じて試みられてきましたが(総じて不評に至っているものの)、本作においてそのような企てがようやく一定の成果を達成している点に、自己相対化の徹底ぶりをまたしても認めることができるのではないでしょうか。

クールに撮ろうと思えば苦もなく撮れたであろう「サムライ・アクション」を笑いの側に傾けたそのバランス感覚(諦めの悪さ・シャイネス)こそが、当然に世界市場を視野に入れているとは言え、完成度の高い娯楽作品へと向かう相対化の真骨頂に他ならないのです。

このような潔さこそをあなたは「スタイリッシュ」と手放しで評しなければなりません。

コラム
監督兼主演俳優

北野武の映画的キャリアを考える時、比較対象となる映画人のひとりにクリント・イーストウッドが挙げられます。

役者(としての出演)からスタートし、やがて自ら監督を務め、監督作品の多数において主演を張るスタイルからも、その類似性を指摘することができます。

彼らは「監督術における恩師」というべき存在を持っています。北野にとっての大島渚と黒澤明。イーストウッドにおいてはセルジオ・レオーネとドン・シーゲルとなります。当然に作風や演出等に幾つかの影響が見られますが、創り上げたものの間には決定的な違いがあると言えます。ごく簡単に言うと、北野とイーストウッドが提供する少なくない画面には、これから悪しき何かが決定的に始まってしまう避け難き予兆が乱舞していますが、師の作品のうちにこのような不穏当な前触れを認めることは容易ではないと言わざるを得ません。この意味からも、二人は似た者同士であるのでしょう。

共に高齢(1947年生まれと1930年生まれ)であるがために、演じる役どころは年々制限されてきていますが、興行的理由からか監督業に専念というわけにはいかないようです(イーストウッドに至っては90歳を超えています)。

2021年公開のイーストウッドの『クライ・マッチョ』と2023年公開の『首』に接するとき、スクリーンの中での彼らの自虐的な振る舞いに、ユーモアテイストの品の良さを感じる取ることはそれほど難しいことではないはずです。

彼らは「男の美学」を笑い飛ばし、観客や批評家よりも冷徹な目で自身を徹底的に相対化するシネアストなのです。

自らが創り上げてきたスクリーン上の強面のイメージを呆気なく自己解体するその健全な自己否定は確かに老醜とは無縁であると、あなたは言い切ることができるに違いありません。

笑いと死

出典:公式サイト

本作品における「笑い」の質と量については意見がさまざまに分かれているようです。

シリアスで押し切り、ユーモアの余地を極力減らすべきだとの所感も目にとまりました。

時代劇に対して頑なに厳粛や清廉を求める守旧的発想なのでしょう。

少なくない「笑い」の導入が不可避(不可欠)であったことには、もちろん理由があります。

北野が本作で描きたかったもののひとつは、偶然と突然に蹂躙される人の生き様(死に様)です。

『首』には二種類の「死」が配置されています。

村重の一族郎党が皆殺しとなる「悲壮感と同情が滴る死」と「道端の石ころと同等(等価)の死」です。

前者は信長の残虐性を際立たせるために須要な(史実に基づく)演出上の死であると言えます。

このような無条件に物語として消費される死ではなく、北野がフィルムに収めたいのは当然に後者となります。

コラム
コントを生きる野蛮人

本作に対する評価のひとつとして、コントにしか見えないという容赦なきコメントも目にします。かつての人気お笑い番組の「風雲たけし城」を引き合いに出しながら、主演のビートたけしの演技に対する塩味の効いた主張(「殿」にしか見えない等)が展開されるのです。

コント色を強める意図的な演出が皆無であるとは言いませんが、全編を通じて稠密な緊張感が流れるフィルム的事実に鑑みれば、北野演出の力量不足でないことは明々白々でしょう。

あくまで本作がコントに見えてしまうのは、観る者の感性における脆弱性や欠乏症のせいでは決してなく、強いて言うのならば、戦国時代における武人の生き様(死に様)が寸劇の登場人物の行動様式に瓜二つであるからに違いありません。

他の時代劇とは比較にならないほどにあなたが北野の時代劇にコント成分を認めてしまうのは、コントに精通した監督が「類似性の患部」を過剰に刺激しているためでしょう。

思った以上に『座頭市』にコント臭を感じないのは、勝新太郎への総合的配慮(遠慮)に加え、登場人物たちの張り詰めた愚直性(血や涙よりも汗水の含有量の方が幾分多い)が前に前に押し出されていたからなのだろう。

現代人の物差しをもって測るとき、箸にも棒にもかからない倫理観(道徳観)を振りかざし、自らの命をいともたやすく棒に振る挙動に終始する「野蛮人」の営為が舞台上での作り込まれたキャラクターがしでかすオーバーアクションにしか見えないのは、何ひとつあなたの責任ではありません。

武将たちの醜悪さ(ドタバタ)を通じて北野があなたの眼球に刻印したいものは、生きることの内にひそむある種の茶番性に違いないのでしょう(監督の問題意識に即せば、もしかすると人生はコントの縮図であるのかもしれない)。

人の死は、たまたま突き出す足に当たれば前方に転がる(蹴飛ばされてしまう)砂礫と等しく、意味や無意味から距離あるものとして唐突かつ淡白に描かれなければならないのです。

それもあって、初期の作品から“死”をドラマにしたり、劇場型にはしてこなかった。生死の問題はそれだけでものスゴいことだから、飾り立てない。映画やテレビがよくやる大袈裟な“死”はその痛さや残酷さをかえって疎外していると思っていたので、ほかのどうでもいいシーンはこってりやって、“死”は呆気なく描く。そこは昔からずっと変わっていないね。

公式サイトの監督インタビューより抜粋

北野監督が観客の眼前に差し出したいのはある種の「自然死」(いわゆる老衰のことではない)であり、それは次から次へとスクリーン上にランダムに明滅するばかりなのです。修飾や感傷が押し除けられ、その「席」をただ事実性が占められなければならないのでしょう。

死の構成要素としての「自然性」こそが掲げられているのであり、言い換えるのならば、「(悲)劇的」ではなく「(否)劇的」と言い得るものであるのかもしれません。

死が無防備に纏う悲劇性を洗浄する必要を北野は確かに覚えていたはずです。

死から正視されるためには、付着している過剰な意味性が洗い流されなければなりません。

都合よく「悲劇」に回収されない自然現象としての死、つまり人間の死でありながら「人の手垢」が根こそぎ拭き取られ、「人生の体臭」が脱臭された純粋な概念性に満みちた「死」の表現が目指されたために、悲劇性の中和剤(相対化)としての「喜劇性」が呼び出されたのでしょう。

喜劇性の採用理由として構成上のメリハリ効果(程よいリズム形成)、すなわちコントラストを明瞭にすることによる悲喜劇の強調が全く期待されていなかったと言い切るつもりはありませんが、それはどこまでも副次的な効果がもたらされたものに過ぎないのだと考えます。本作においては、あくまで「死」が首席であり、「ひょうきん」は次席ですらないはずです。

コラム
絵による説明

北野武は自らの表現活動としての「一丁目一番地」が「漫才」であるにも関わらず、自身の映画制作においては、「言葉による説明」を意図的に閉め出してきました。

初期作品群におけるセリフの不自然なまでの排除(廃棄)の怠りのなさとそのことによる効用(効果)は、多くの識者が指摘するところです。

映画は視覚芸術の一種であることの敬意からか、彼は「絵による説明」を優先し徹底します。

「視覚的表現」はそれが過剰であれば、「言語的表現」と同等の煩わしさ(野暮さ)を招き寄せ、過小であるのならば、言葉の場合以上に意味を置き去りにしてしまいます。

スクリーン上に展開される「説明」においては、過不足は作品のクオリティを左右しかねない重要性を持つと言えるでしょう。

今日、現存する映像作家のうちで、北野武以上にこの点に自覚的な作家の名を挙げることは非常に困難であると言えます。

意図的な「お笑い路線」は別として、なぜシリアスベースの過去の作品と比較しても、本作ではこれほどまでに「笑い」がブレンドされているのかという疑問が浮かんできます。

理由のひとつとしてここで指摘したいのは、『首』の中で溢れかえる夥しい死に対して観る者が結果として「不感症」に傾くことを止められない事態を回避せんがために、ある程度の物量の「笑い」が投入された点です。バランスを取るための「中和」が試みられたのでしょう。

想定される反論として『アウトレイジ・シリーズ』においても少なくない死体が転がったわけだから、「不感症」の観点より同シリーズに「笑い」が見当たらない理由に関して説明を求める異議があるのかもしれません。ごく簡単に述べるならば、『アウトレイジ・シリーズ』がフォーカスしているのは死そのもの(死の本質)ではなく、死が独占的に所有している「恐怖」の方であるゆえに、死体の増加に従い恐怖は陰影を色濃くしていきます。よって「笑い」の出る幕など全くないに帰着することとなるのです。

ひとつひとつの死は呆気なく描かれたとしても、斬り取られる首の数が増すごとに、観る者が抱く死に対する観念は「不純物」で一杯(飽和感)になっていくことでしょう。フィクションとはいえ、人の命が奪われることに慣れ過ぎてしまうのです。

慣れすぎるという「事態」は『アウトレイジ・シリーズ』においても避け難い「課題」であったことは容易に想像ができますが、演出家は「殺し方の工夫(見せ方のバリエーション)」により、ひとまず「不感症」の回避に努めていたと言えるでしょう。

北野監督は、観客が死に対して無感覚や無関心な態度で接することを求めているわけではなく、あらゆる感情を拒絶する死の概念性に強襲されたときに、人は無理解や無感動と等しい「感覚(それはある種の「意味(無意味)の回収不能状況」と言い得る)」に陥らざるを得ないという「自然状態」を描こうとしているに過ぎません。

物語の進行において悲劇性が隙間から入り込まぬように喜劇性を用いて塞いでいるのであり、同時にスクリーンに映し出される「死」から詩情は遠ざけられることとなります。

感情という「水気」が一切抜け切った「死」を表現するために、感情の爆発の典型である「笑い」が召喚されるその逆説性がなんとも北野監督らしいと言えば言えなくもありません。

コラム
底に流れる旋律

いずれも血と力が主役である『アウトレイジ・シリーズ』と『首』の基部に流れる通奏低音は酷似しているために直ちに区別がつきにくいのですが、実際は大幅に異なります。

前者で奏でられるのは「無情感」に違いないはずです。ただ、まだかろうじて人間の感情のストロークが見てとれます。

一方、後者は「無常感」であると言って差し支えなく、劇中においては感情(存在)をめぐる一切合財を飲み込んで押し流す「大きなうねり」が認められるでしょう。

『アウトレイジ』ではシリーズを通して、心の働きの壊死が描かれていましたが、かたや『首』では、この世に常なるものなどただのひとつもない、すなわち生あるものの必滅が実に淡々と表現されていました。

この二作(シリーズ)は、一見すると連続的であると見紛う様相を呈していますが、やはり「断絶」していると言わざるを得ないのです。

明・渚・武

出典:公式サイト

映像作家北野武の直接・間接的な「師匠」は大島渚と黒澤明と言われて久しいですが、本作には彼らの作品群の映画的記憶が慎ましやかに、そこかしこに散りばめられています。

大島渚(1923-2013) 岡山県出身の映画監督、脚本家。                              代表作:『青春残酷物語』『日本の夜と霧』『新宿泥棒日記』『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』『御法度』

紀伊國屋書店
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コラム
「過ぎない」の徹底
  • カメラを寄せ過ぎない(これは「師の教え」である「大事なシーンは引くべき」と地続き)
  • 説明し過ぎない(説明のためのセリフの圧倒的なまでの淘汰)
  • 演技がくど過ぎない(演者の過剰な作り込みの排除や本職の役者以外の起用の多さ)
  • 繰り返し撮り過ぎない(全てがワンテイクというわけではないが、漫才舞台の経験からライブ感を優先)
  • オープニングが長過ぎない(退屈とは無縁の鮮やかな捌けが印象的)

北野映画の特徴のひとつに「過ぎない」の徹底があげられます。

このような抑制の厳守ぶりが、引き算の美学余白の哲学という(特に海外における)高評価に繋がってきたと思われますが、おそらく監督の「生理(浅草の粋)」に基づくものなのでしょう。

映画史とは遺産継承の歴史であり、その意味において映画は紛れもなくアートの領域(参照・引用・模倣・反復)に属している「公然の事実」を今一度思い出すべきでしょう。

北野監督が「相続」した彼らからのギフトとは、人間の業を通じた逆説的な人間讃歌のスピリットであると言い切っても、もはや構わないのかもしれません。

コラム
セリフの廃棄

北野演出の特色として、先に述べたように説明(描写)のためのセリフの極端な排除があげられますが、当映画においてもそれは有効に機能しています。

言葉が全ての漫才の反動であるかと疑いたくなるほどに、北野が構成する画面は沈黙をひたすらに偏愛しているかのようです。

しかしながら、その沈黙はしゃべくりのDNAを受け継いでいることから、興味深いことにどこまでも「饒舌」であると言えます。

本作における、城の奥の寝室ではなく、大型の天守(ある意味青空の下で)において信長が森蘭丸とまぐわう、ほぼほぼ台詞なき短いシーンは、信長の性格(非人間性)や権力の大きさ(経済的パワー)を実に雄弁に物語ります。

「雄弁は銀、沈黙は金(黙るべきタイミングを知っていることは非常に大事であるの意)」というフレーズをたまに耳にしますが、北野映画では雄弁な沈黙が度々スクリーンに登場するのです。

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本作をこれまでの時代劇・戦国武将を取り巻く作品群との「拮抗」というような貧しい目線で捉えるのではなく、首というタイトルを持つ「価値観(人体)の解体ショー」が、欲動が蠢く人の心の闇の奥に土足で踏み入りながらも、ショービジネスとしての高次のクオリティを達成している「電影的景観(複層的構成)」をまずは認知するべきなのでしょう。

映画は視覚的要素を抜きにしては成立しない総合芸術である「キネマ的常識」を無視するつもりは全くありません。そのような行為は単なる暴挙です。

とは言え、

首が右往左往する波乱と混沌に満ちたこのエンターテイメント作品において、何が生み出され、何が生み出されていないのか、はたまた、何が選ばれ、何が選ばれていないのか、さらに、何が捨てられ、何が残されているのか、つまり、何が描かれ、何が描かれていないのか、その殺気だったバランス(在と不在の相克)を見落とす愚を我々は決して犯してはならないのです。

パドー

幾度もの鑑賞に耐えうる傑作です。機会があれば、ぜひご覧ください。

著:モーリス・メルロ=ポンティ, 翻訳:滝浦 静雄, 翻訳:木田 元
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コラム
KITANOとMURAKAMI

日本を代表するクリエイターである北野武(1947生まれ)と村上春樹(1949生まれ)は戦後が始まってまもなくの時期に生を受けた同世代人であり、意外な共通点があります。

世界を股にかける映画監督と国際的文学者は共に「痛み」に関して異常なこだわりを持ちます(村上であれば『ねじまき鳥クロニクル』の主要人物である「痛みの見本帳」のごとき加納クレタのエピソードを思い出そう)。

彼らの作品の中で「痛み」は、決して精神的・抽象的なものではなく、極めて肉体的・即物的次元において度を超えた生々しさをたたえながら描かれています。

「痛み」への「執心」は第二次世界大戦が終わりを迎えた後の傷跡(大暴力の「残存記憶」)を「日常」として受け止めながら人格形成がなされていた過去(子供時代)が少なからず影響していると思われますが、ここでは指摘するに留めます。

彼らは観る者(読む者)の生理に訴えかける「イタミ」の描写を通じて、人間の根源的な存在性を炙り出そうと試みるのです。

痛みとは言うまでもなく、徹頭徹尾私的かつ個別具体的であるために、誰もが他者の痛みに関しては自らの経験により推し量るしか術を持ち得ません。

ゆえに、互いの痛みはいつも隔絶しており、大抵の理解への努力は決まって貧しい結末(独善的想像)へと流れつきます。

この意味から「痛み」は実に単独的であり存在論的であると言えるでしょう。

一見すると似ても似つかない二人の創造者は特有性、すなわち「自己の存立点」に殊更に敏感であり自覚的であるに違いありません。

自己、すなわち「自分とは何か(何者)」という古くて新しい問いは永遠性を有するがゆえに常に今日的課題であり、だからこそあなたは彼らの創り出す作品に度し難く惹かれてしまわざるをえないのです

監修:淀川長治, 読み手:淀川長治
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✒︎ writer (書き手)

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本サイト「シンキング・パドー」の管理人、人事屋パドーです。
非常に感銘を受けた・印象鮮烈・これは敵わないという作品製品についてのコメントが大半となります。感覚や感情を可能な限り分析・説明的に文字に変換することを目指しています。
書くという行為それ自体が私にとっての「考える」であり、その過程において新たな「発見」があればいいなと毎度願っております。

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