映画に愛された者、北野武。
それが尋常ならざる映画史的事件の始りであることを予感したのは、淀川長治と蓮實重彦というふたりのシネフィルでした。
映画監督には二種類しか存在しないと、淀川=蓮實は断言します。
映画を愛する者と映画に愛される者。
『その男、狂暴につき』により北野武は映画に深く愛されることを許された数少ないひとりとなりました。
北野氏のフィルモグラフィーにおいて『キッズリターン』と『あの夏いちばん静かな海』は特権的な位置を占めます。
その理由は、監督自身のフィルム的不在という単純な事実です。
両輪としての二組の二人組
『キッズリターン』、古い映画です。
ご覧になられた方も多いと思います。
冒頭に二人の高校生を乗せた自転車が暴発的疾走感を撒き散らしながら一気に歩道橋を駆け抜けます。
そこに運動それ自体としてタイトルバックが、音楽が、なだれ込んできます。
この物語りは、やくざとボクサーになりそこねたふたりの少年をポジに、そして漫才師志望の冴えない二人組みをネガにして構成されている映画です。
コントラスト
学校を離れるに従い、この二組の二人組みは対照的な生の軌跡を描いていきます。
漫才コンビはやがて寄席にあがり、自らの才能に直接に向き合いながら芸の現場に留まり続けようとします。
彼等にとって何度も舞台の上にリターンすることこそが栄光への過程に他なりません。
ところが、
もう一方の社会的人格を獲得しそこねた若者たちは、幾ばくかの希望を纏いながらも人生を乗り上げてしまいます。
頓挫した生を生きるものの末路は決まって元の木阿弥に帰すどころではないのです。
それどころか、もう二度と可能性に触れ得ない地点までの後退を余儀なくされるしかありません。
色の付着した画布をたとえ白色で塗り直そうと二度と元の純白地には戻らないのでしょう。
リターン
何者かになり損ねた人間が最後に呟く、〝まだなにもはじまっていない〝というセリフは原点に自分たちは回帰できるのだというやり直しを約束するものでは決してありません。
そうではなく、ひとはどこにもゆくことができないことがここで直截に語られているのです。
そのことは年齢と何等の関係もないし、若さの過剰が口を挟む余地もないでしょう。
そのような生にはもちろん、はじまりも終わりもないのです。
ただ反復があるだけ。
なにをどうしようと、ひとは早晩リターンされてしまう。
なにに?
自分自身に。
圧倒的で不可避的な「わたくし」性に。
スクリーンを前にして我々が手にするリターンとは、拡散する絶望に違いありません。
それは陽の光を浴び無限に回転する前輪のスポークのようにいつまでもキラキラと輝いているのです。