「無常という事」を読み直してみる
先日、小林秀雄の『無常という事』を再読しました。
やはり小林は「分からない」ということだけを、できうる限りの精確さで伝えようとしていたのだと腑に落ち、少しばかりうれしくなったのです。
切れすぎる
文章が「切れすぎる」にもかかわらず、「肝心なこと」だけは書かなかった批評家でした。
そのために、数多くのあらぬ誤解を今なお受け続けているのも仕方ないことかと、あらためて思います。
例えばそれは解説で江藤淳が引用している青山二郎の次のような発言に代表されます。
暗い蝋燭を囲んで青山二郎、大岡昇平の両氏と酒を飲んでいた小林氏は、いつもの例で青山氏にからまれ出していた。小林氏の批評が『お魚を釣ることではなく、釣る手付を見せるだけ』で、したがって『お前さんには才能がないね』というのである。
小林は、″人はどのようにしても『魚』を『釣』ることができはしないのだ″という地点から動こうとはしません。
これを「美的(理論的)問題」と解釈するならば、『才能がないね』という不毛な結論にしか至らないでしょう。
小林に対する最大の誤解がここにあります。
倫理
動けないのではなく、「分からない」という処から″先″には決して″行こう″とはしなかっただけなのです。
したがって、
『釣る手付を見せるだけ』とは、対象(他者)に対するぎりぎりの倫理的姿勢に他ならないということになります。
『才能』は決まって、いるはずのない『魚』を『釣』り上げてしまい、自らの釣果を競い合っていました。
″ぼうず″である者は黙って釣り糸を垂れ続けていただけなのです。
同時代の「分かった」という思想が今日的に″ぼうず″の様相を呈していることは今更言うまでもありません。
『才能』を放棄しえる「才能」を授かっていたのは小林だけでした。
喪失
昭和十七年(1942年)に、孤高の批評家はこう述べています。
現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。
この独歩者は、″常なるもの(日本)″が亡くなることを確信しながら言葉を積み置きました。
われわれが、″常なるもの(小林)″を失くして今年で三十年余りになります。
この国から″好い面持ち″をした老爺がいなくなり始めたのも、ちょうどそのあたりからなのでしょう。