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「猫を棄てる 父親について語るとき」隠れた次元に触れる

2020 5/28
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村上文学のルーツを明らかにする貴重なエッセイ

2020年4月に出版された、作家自身の手による実の父に関するこのエッセイ(回想録)は、これまで断片的に記されてきた父親のエピソードに加え、今まで詳細に語られなかった親子の確執や雪解けを交えながら綴られる、極めてプライベートな文章です。

今後の村上春樹研究においては、かなり貴重な証言も散見され、研究者にとって無視できない資料となることは間違いなさそうです。

と同時に、小品ではありますが、村上の文章をとにかく貪りたいファンにとっても、非常に興味深い一冊となっています。

以下、内容に言及しますので、あらかじめご了承ください。

本作の表紙と挿絵を担当したのは台湾の漫画家・イラストレーターの高 妍(Gao Yan)氏となります。彼女の画風はどこか懐かしさを覚えずにはいられない魅力を持っています。




春樹の父親、千秋という男

2008年に90歳で亡くなった父親の村上千秋氏は、京都の浄土宗の安養寺の住職の次男としてこの世に生を受けました。

仏教教育を専門とする西山専門学校に在籍中に徴兵を受け、第十六師団(伏見師団)に所属することとなります。

1938年に上海に渡り、その後、中国大陸の戦線に立ちます。

除隊と徴兵を繰り返し、戦後、兵庫県で国語教師となります。

小さい頃、奈良かどこかの寺に見習いとして預けられた経験を持ち、それはもちろん養子含みであったのですが、最終的に実家に戻ってしまう過去を持ちます。

新しい環境にうまくなじめなったことが原因であると村上は推測します。

しかしその体験は父の少年時代の心の傷として、ある程度深く残っていたように僕には感じられる。どこがどうという具体的な根拠はないのだが、そういう雰囲気のようなものが父にはあった。




猫の2つのエピソード

この本の中で、村上は最初と最後に、子供の頃の猫に関するエピソードを2つ披露しています。

タイトルにある「棄てようとした猫」と「消えてしまった猫」です。

後ほど述べますが、この2つのエピソードは、村上がしばしば描く「現実に潜む次元」に強く関連していると思われます。

棄てようとした猫

村上親子は夙川(兵庫県西宮市)に住んでいた頃、大きくなった雌猫を二人で海辺に棄てようと自転車で出かけます。

父親が自転車を漕ぎ、村上は猫を入れた箱を抱えながら後ろに乗ります。

夙川沿いに香櫨園の浜まで行って、猫を入れた箱を防風林に置いて、あとも見ずにさっさとうちに帰ってきた。うちと浜とのあいだにはたぶん二キロくらいの距離はあったと思う。

棄てた後に奇妙なことが起こります。

玄関戸を開けると、さっき棄ててきたはずの猫が「にゃあ」と鳴きながら、尻尾を立てて愛想よく彼らを出迎えたのです。

時空を超えてきたかのような速さで、猫の方が先に家に戻っていました。

二人は言葉を失います。

そのときの父の呆然とした顔をまだよく覚えている。でもその呆然とした顔は、やがて感心した表情に変わり、そして最後にはいくらかほっとしたような顔になった。

わざわざ帰ってきたのだから、まあ飼わざるを得ないという諦めの心境で、その猫を飼い続けることとなります。

既にお分かりの通り、これは千秋が修業の寺から戻ってきた(逃げ出した)過去と寸分違わず呼応しています。

棄てられることの意味をよく理解している千秋の体の中を、棄てる行為の痛みと棄てられる悲しみが同時に走り抜けたであろうことは想像に難くありません。

戻ってきた猫を見て、彼は複雑な表情を矢継ぎ早に浮かべますが、それを村上少年は見逃しはしませんでした。

消えてしまった猫

小学生の時分に、飼っていた白い小さな猫が村上の目の前で、庭にある立派な松の木を上っていきます。

高い枝の中に姿を消した後、情けない泣き声だけが聞こえてきます。

降りられなくなったために、助けなければと父親に事情を説明しますが、梯子も届かないために、親子は救助を諦めます。

翌朝、もう泣き声は聞こえず、猫の名前を呼びますが、ただ沈黙だけが応えるばかりです。

夜中のうちに、なんとか降りたのか、松の上に今もいるのか、真相は不明のまま現在に至ります。

猫は姿を消し、二度と姿を現しません。

現実に潜む次元

村上作品において、多くの場合、現実は多次元的に、ある種のファンタジーとして描写されます。

現実的には(物理的には)、不可能としか言いようのない「移動」が多くの作品の中で実現されます。

「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「アフターダーク」「スプートニクの恋人」など数え上げればキリがありません。

普段の生活の中で、あなたは現実とは「均一的世界」であるという認識のもと、日常生活を営んでいるはずです。

そこには奇妙な出来事は発生しないはずですし、仮に発生した場合にも、「オカルト」としてレッテルが貼られ、処理されます。

村上の描く世界は「小説的想像力の産物」であるとの了解が多くの読者のなかで成立しているのかもしれません。

しかしながら、

この2つの猫のエピソードは、村上が目に見えている現実はただひとつではないことをごく自然に受け入れていることを物語っています。

彼にとって「現実には複数の次元が存在することは経験的な事実である」といい得るのです。

「経験的な事実」を語る場合に、過度の神秘主義を導入しないところが、村上作品の魅力の秘密であると言っても過言ではないでしょう。

作家が発揮するのは、文学的想像力と言うよりも、むしろ現実が持ち得る現実性(多次元性)への注視に他なりません。

「棄てられた」というフェイズ

作家村上春樹が戦争にこだわるのは、彼の父親が戦争にこだわったからとする理由がこのエッセイを読む限り、万人に説得力を持ち得ると思われます。

言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものをー現代の用語を借りればトラウマをー息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繋がりというのはそういうものだし、また歴史というものもそういうものなのだ。

これに加え、戦争とは非日常的な時空であるからこそ、日常に隠れている次元をあなたの目の前に引きずり出します。

ゆえに、戦争が繰り返し、描写されるのでしょう。

村上の文学世界を理解するために、しばしば「消失」や「喪失」というキーワードが注目されます。

これらの語は、このエッセイを読んだ後は、もう少しばかり丁寧に取り扱う必要が出てくるはずです。

今後、「棄てられた」というフェイズから見直されなければなりません。

誰が棄てたのか、何を棄てたのか、が問われることとなるでしょう。

村上が獲得したリアリティ(多次元性の露呈)は、あなたの「現実」でもあるのです。

村上はこのエッセイにおいて、歴史が持つ一回性を強調します。「我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか。」
「歴史の一回性」という概念は、例えばマルクスや武田泰淳などによる優れた考察が既に先行しており、見覚えがあるでしょう。村上の省察に独自性があるとするのならば、そこに「諦念の肯定性」を積極的に見出している点にあると言えます。

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