謎に満ちた小説「スプートニクの恋人」。重層的な小説世界。
初めて読んだときから、もう十五年以上になります。
何度も読み返しています
理由は不明ですが、時々、頁をめくっています。
今回、電子書籍で読めるようになって、また読み返してみました。
あらためて疑問が湧きました。
スプートニクの恋人って誰のことを指すのかと。
この疑問をきっかけに少しばかりこの小説について考えたことを書いてみます。
尚、既読を前提に書き進めておりますので、あらかじめご了承ください。
スプートニクの恋人とは誰なのか?
恋人を特定するために、まずはスプートニクを特定しましょう。
スプートニクとはミュウを指します。
ややこしいことにミュウは「あちら側」と「こちら側」に分裂しているのです。
それではミュウ(スプートニク)の恋人とは?
どうやらイタリア人の男を指しているようです。
この男は別の位相ではすみれの父親となります。
このことにより、「あちら側のミュウ」とは一体何者なのかという疑問が新たに生じます。
・・・・・・
実に重層的な小説構造。
喪失が氾濫している
村上春樹氏の多くの小説がそうであるように、「喪失」がこれでもかと小説の中で描写されています。
その喪失は極めて実存的な性格を帯びているようです。
単に何かが失われてしまったという衣装をまといながら、
あくまで根底的で不可避的で理不尽な喪失が描かれているのです。
実存の基底としての性愛を通して、喪失が徹底的に書き連ねられています。
これは彼がテーマを追求する際の特徴的な小説の手つきです。
村上が喪失を主題とする限り、性愛は必然的に小説の表舞台に上がらざるをえません。
本小説の特徴
本作は非常に構造性が顕著に見られ、かつそれが小説世界を成立させるルールであるかのようです。
本作を支えるルールを次のように解釈しました。
- 登場人物がパートナーシップを成立できるのは一対の関係においてだけであり、同時に複数の人間とはパートナーシップを結べない。
- パートナーシップ(あるいは恋人同志、夫婦と言い換えても良い)の成立には性愛が重要な条件となる。
- パートナーシップの組み合わせは構造的な関係を要求する。
以上のような仮設に基づき、以下読み解いていきます。
「恋人」を特定してみましょう
「スプートニク」とは、小説の冒頭で、ミュウのことであることが直ちにわかります。
ゆえに、ミュウの恋人は誰なのかを特定すればいいことになります。
小説中、ミュウが好きであるとの記述があるのは、次の二人だけとなります。
すみれと僕。
しかしながら、このふたりのどちらもミュウとは性的関係を持っていません。
恋人と呼ばれる限りは、性的関係は必要十分条件であるでしょう。
彼ら以外にこの条件に当て嵌まる人物がたった一人だけいます。
留学中に出会ったイタリア人の男です。
この男とは、いわゆる恋人関係にはありません。
けれども「向こう側のミュウ」は性的関係を持っています。
その意味で、イタリア人の男を一旦、候補としましょう
浮かび上がる人物
スプートニクとは「旅の連れ」というロシア語の意味であると本文中で説明されています。
旅をしているのは、「ミュウ」と「すみれ」です。
従って、ミュウの旅の連れは「すみれ」となります。
スプートニクの恋人、つまりすみれの恋人は誰なのかと問えば、誰もいません。
なぜなら、誰とも性的関係を持っていないからです。
残りの一人であるすみれの旅の連れは言うまでもなくミュウです。
スプートニクの恋人、つまりミュウの恋人は誰なのかといえば、先の通り、イタリア人の男が浮上してきます。
ここまでを整理して、この小説のタイトルであるスプートニクの恋人とは、イタリア人の男を指すという結論をもって、以下話を進めることにします。
スプートニクの恋人=ミュウの恋人=イタリア人の男
イタリア人の男とは何者なのか
イタリア人の男は次のように描写されています。
- 50歳前後のハンサムなラテン系の男
- 背が高く、鼻のかたちが特徴的に美しく、髪はまっすぐで黒い
- 名前はフェルナンド。彼は離婚した独身者
見覚えがないでしょうか?
聞き覚えがないでしょうか?
もうおわかりですよね
そう、あのハンサムな歯科医である「すみれの父親」に瓜二つです。
これは「なに」を意味しているのでしょうか?
あちら側のミュウとは何者なのか
イタリア人の男と「あちら側のミュウ」との情事を観覧車から目撃してしまったことで、「こちら側」のミュウは誰とも性的関係を持てなくなります。
自分の半分が「あちら側」にいったきりになってしまうのです。
イタリア人の男とすみれの父親との類似性に鑑みれば、イタリア人の男とあちら側のミュウの関係性から次のことが言えるでしょう。
あちら側のミュウとは、すみれを産んだ母親に他ならない、と。
次の図式が次元を異にして成立しているのです。
あちら側のミュウとは、すみれを産んだ母親に違いありません。
スプートニクの恋人殺しについて
「こちら側のミュウ」との性的関係を諦めたすみれは、「あちら側のミュウ」と性的関係を持つために、あちら側に消え去ったのだと、物語はそう語っているかのようです。
その真相は、あくまで文学的風景のなかに埋没してしまっています。
読者に過ぎない私たちはどこまでも推測の領域を出ることができません。
けれども、村上がそのような痕跡や示唆を文中に散りばめているのだから、
すみれの失踪とはあちら側への旅立ちであったと解釈することは見当違いではないはずです。
旅立ちの目的を果たすために、すなわち、あちら側でミュウと恋人同士になるためには、
すみれは既に性愛の儀式を幾度となく繰り返しているイタリア人の男を排除するしか選択肢はないのです。
であるために、あくまで象徴的に、呪術的に、イタリア人の男はすみれに葬られなければなりません。
すみれは言います。
ねえ、わたしはどこかでーどこかわけのわからないところでー何かの喉を切ったんだと思う。
これを全くの比喩と理解してはならないでしょう。
行為が「象徴的」に語られているわけではないのです。
「事実」として、イタリア人の男の喉が掻き切られたに違いありません。
性愛のパートナーの排除により、すみれはあちら側のミュウと結ばれるはずでした。
でも、そうはなりませんでした。
なぜなら、「あちら側のミュウ」とは、先の類似性を思い出せば、「すみれの母親」に他ならないからです。
実の娘にとって母親はどうあっても性愛の対象とはなりえません。
ここに来て、すみれの八方は絶望的に塞がります。
人工衛星スプートニクのように永遠の孤独者として、すみれは宇宙空間(あちら側)をさまよい続けることになりかねなかったのです。
でも、結果的には、すみれは「こちら側」に帰還します。
なぜ?
失った片割れ
ミュウは「あちら」と「こちら」の世界に分裂しています。
一方、すみれも僕も分裂はしていません。
物語の中盤からすみれは「あちら側」に行ってしまい、僕は「こちら側」に留まったままです。
物語の最後にすみれは「こちら側=現実の次元」に戻っています。
少なくともそのように小説中では描写されています。
なぜ戻ってくることになったのかが、問われなければならないでしょう。
理由はふたつあります。
- いずれの側のミュウともすみれが性的な関係性を構築できないことが証明されたから
- かけがえのないものの存在を実存的なレベルですみれは強く認識したから
すみれは言います。
あなたはわたし自身であり、わたしはあなた自身なんだって。
僕は言う。
すみれは彼女にしかできないやりかたで、ぼくをこの世界につなぎ止めていたのだ。
もうおわかりでしょう
彼らの喪失した片割れは、彼ら同士に他なりません。
彼らはひとつになることを運命づけられているかのようです。
僕が「向こう側」に行けない限り、すみれが「こちら側」に戻るしありません。
そのためには「超えなければならない障害」が実は存在していたのです。
にんじんの登場とその母親の存在
物語の終盤に「にんじんの万引き」のエピソードが挿入されます。
このことに、ある種の唐突感を感じなかったでしょうか。
なぜ、書かれなければならなかったのか?
小説の構造上、僕が不倫相手のにんじんの母親と別れる理由・契機が必要であったからです。
僕が「こちら側」の世界で性的関係を持つ相手がいる限り、すみれは「こちら側」の世界には決して戻ることができません。
このことは恋人世界を構成するための小説上の基本的ルールです。
そのために、性的関係性を持つ相手は排除されなければなりません。
イタリア人の男が排除されたように。
血が流れなくてはならないのです。
いいですか、人が撃たれたら血は流れるものなんです。
にんじんの心に血が流れていたことを、僕と母親は知ります。
清らかな血が流れた後、すみれはその座にはじめて収まることができうるのです。
人妻との別れによって、すみれがこちら側へ帰還するための「障害」は消え失せました。
ループする小説構造
あらためて、この小説の冒頭を読み返してみてください。
そうすれば、この冒頭部分が非常に穏やかなトーンで統一的に書かれていることに気がつくでしょう。
いかにもいろいろあったが、今は収まるところに収まっていますといった気配が漂っているのです。
すみれと僕は、実存が触れ合う場所で、性愛を繰り返す関係に今はあると言えば、言い過ぎになるでしょうか。
この小説は冒頭の部分が最終章の後日談として読むことを可能とする余地を有しています。
円環的な物語構成を持つ小説なのです。
まるで、はじまりも終わりもない宇宙空間に呼応しているかのようです。
ふたりの国民的作家
「実存の基底としての性愛」をテーマとしたこの小説の主題と展開にあなたは見覚えがあることでしょう。
漱石です
時代背景が異なりますので、漱石の場合、制約がどこまでもついてまわりました。
しかしながら、
扱うその手つきは驚くほど似通っています。
彼らがふたりとも「国民的作家」と呼ばれていることは極めて興味深いところです。