「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」は極めて重要なテキストだった
読みたい読みたいと思いながら、ようやく「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」を読み終えました。
示唆に富む内容
おそらく何度も読み返す必要があります。
最大の収穫は、作者自身が自らの作品を分析しているところです。
特に「ねじまき鳥クロニクル」を書き終えた頃の対談であるために「生の声」が聞こえてきました。
作者による作品解説
以下は、作者が先の対談で述べている部分を要約したものです。
自らの作家としての成長の段階を次のように位置づけています。
デビュー作から「ねじまき鳥クロニクル」までを三段階のプロセスに分けています
第一段階はデタッチメント・アフォリズムの時代
これには、「風の歌を聴け」や「1973年のピンボール」が該当します。
「関わりのなさ」が結晶化されて書かれています。
第二段階はストーリーテリングの時代
これには、「羊をめぐる冒険」や「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が該当します。
「関わり」が物語の力を借りながら描かれています。
このあと、更なる飛躍のために、意識的にリアリズムの文体を獲得するための時期が挟まれます。
この時期の収穫が大ベストセラーである「ノルウェイの森」です。
第三段階はコミットメントの時代
「関わり」のレベルが作者の意図を超えて実現されてしまっています。
「ねじまき鳥クロニクル」が該当します。
関係性の3つの様態
作者が示した3つの段階は次のように言い換えられるでしょう。
第一段階においては、自己を語るために自己以外との無関係性が強調されます。
自己以外とは、他者と世界を指します。
自己の定形化が試みられますが、それは積極的な規定というよりも、自己以外との関係性のなさを媒介にしながら、境界線をおぼろげに指し示すような頼りのなさです。
それがときにクールに見える場合があるのでしょう。
第二段階においては、自己を語るために自己以外との関係性が強調されます。
自己は自己以外の他者や世界との関わり合いにおいて、明瞭に定型化の過程を辿ります。
しかしながら、それは外形的には不可避的に巻き込まれるというアクシデントとして描かれているに過ぎません。
そこには、まだ「関わり」の積極性、肯定性は萌芽の状態のままであるといえます。
第三段階においては、第二段階と同様に、自己を語るために自己以外との関係性が強調されます。
しかしながら、その関わりの描かれ方は全く次元の異なる表現が採用されています。
村上は、その関わり方を、先の対談において、「まったくつながるはずのない壁を越えてつながる」という表現をとります。
直接の因果関係があるのかないのか、偶然であるのか必然であるのか。
合理も不合理も非合理も越えてのつながりが「ねじまき鳥クロニクル」には縱橫に織り込まれています。
それをご都合主義や文学的幻術と言うことは容易いです。
が、それでは大事なものを受け損ねてしまったような「感じ」が拭いきれないのは、私だけではないでしょう。
村上の言うコミットメントについて、時間をかけて考える必要があるはずです。
原関係とは
無関係とは、ある意味、関係の一形態です。
その意味で、関係に包含されていると言えます。
関係とは、他者と自分、あるいは世界と自分との距離感です。
原関係は、そのような関係とは異なる次元の関係性であるといえます。
関係しえないものが関係していることを意識せざるをえない、受け入れざるを得ない関係性を指します。
それは、思い込みや自意識過剰とは無縁なのです。
言い換えるならば、「原罪」と言っても構わないでしょう。
他者と自分、あるいは世界と自分を考える場合に、変数としての「神」を意識せずには済まされません。
この関係性を原関係と名付けます。
直接の、ましてや間接の因果関係が成立しないところで、つまり、つながるはずのないものがつながるその関係性に積極的に加担していくことを声に出すことこそが、コミットメントなのです。
当然に、そこでは倫理的な態度のみが問われます。
関係の範疇においては、道徳が常に審問されます。
なぜなら、道徳とは「神」を必要としない規範であるからです。
一方、倫理とは「神」を必要とする規範です。
原関係において、人は倫理的に生きざるを得ないのです。
ねじまき鳥クロニクルの強度
わたしは、この重層構造を持つ長編小説が彼の書いたものの中でいちばん好きです。
何度か読み直したのですが、その度に思ったものでした。
なぜ、これほどまでに主人公は求道的なのか?
そのことの答えのかけらを対談集で見つけることができました。
大昔に発表されていた対談集を手に取ったことにより、少しばかり理解が進みました。
時期が到来し、読み返すときに、このような視点から小説世界に沈潜したいものです。