「プロフェッショナル仕事の流儀」に登場した人間以外の唯一の存在
仕事人としての観点からオグリキャップにスポットが当てられていました。
最後の有馬記念のラストランに向かって、緻密な構成がなされています。
あらためて彼の偉大さに触れた気がします
沈んでくるような走り
レースに出る前の躾の時期のオグリキャップについて、関係者の誰もが一様に元気がない、やる気がないと口をそろえます。
評価額は500万円。
皆が皆、過度な期待を抱いていませんでした。
元ジョッキーの青木氏のコメントが秀逸です。
そこらへんのおっちゃんみたいな感じ
だらーっとした感じであったと、そこらへんのオッサンそのものの青木氏(ゴメンナサイ)が口にする、なんともユーモアに溢れたインタビュー。
馬主の小栗孝一氏は、血統が悪いからこそ期待をかけるのだと言います。
自らの生い立ちを重ねるかのように競走馬に尋常ならざる愛情を注ぎ込むのです。
本当にいい馬主さんにオグリキャップは巡り合ったんだなと思います
そんな中、多くの関係者の、この馬は走らないだろうという予想が徐々に裏切られていきます。
正確に言うならば、この馬の潜在能力に、人々は少しづつ気づきはじめるのです。
笠松時代の調教師は次のように的確にコメントします。
沈んでくる
一流馬は、その特徴として、走るときに重心を下げて走ります。
そのことを「沈んでくる」と表現するそうです。
その言葉の通り、オグリキャップは、レースを走るごとに、ものが違うと周りの誰もに認められていきます。
二つの意味での強心臓の持ち主
獣医は、オグリキャップの強さを心拍数から説明します。
一般的には、競走馬の心拍数は30から40の間です。
オグリキャップの場合は、24から27であったといいます。
いわゆるスポーツ心臓なのです。
8ヶ月間で12レースを消化。
驚異的なペースであり、過酷すぎるローテーションが組まれました。
トレーニング、競馬、トレーニング、競馬・・・。
休む暇などありません。
この過酷さに耐えられたのは、生来の心臓の強さと同時に、比喩的な意味での強心臓であったからだと言われています。
- レースに行っても動じない。
- オンとオフの切り替えが実に素晴らしい。
レース中もレースの前後も余計なことは一切しないのです。
どこまでもクレバーな馬
中央競馬の頂点へ
中央競馬会入り後、連勝を続け、秋の天皇賞に向かいます。
だれもが勝つであろうと思ったその行く手を名馬タマモクロスが阻むのです。
奇しくも同じ芦毛。
タマモクロスを倒さないことには真のナンバーワンには認めてもらえない。
王者タマモクロスは今度の有馬記念で引退します。
チャンスは一回限り。
調教師の瀬戸口氏とジョッキー岡部幸雄氏は奇策に出ました。
中山コースを走ったことのないオグリキャップをコース慣れさせるために、JRAと交渉し、特例対応を許可してもらう強硬策に出ます。
レース前にコースの試走が許されました。
人間のやれることはすべてやりたかったと、岡部氏は言いいます。
1988年の有馬記念がやってきました。
オグリキャップはゲート入りする際に癖を持っています。
首を真っ直ぐにし、ぶるぶると武者震いのように首から上を震わせるのです。
岡部氏はそれをオグリキャップのルーティンといいます。
どこまでも、平常心
レースではタマモクロスを破り、オグリは頂点に立ちます。
いつも通り淡々と、大仕事をやってのけました。
勝負師岡部幸雄が、気合十分で平常心を保つ稀代の名馬にプロフェッショナリズムをみた瞬間でした。
燃え尽きたのか、オグリ!
競馬はブラッド・スポーツです。
血統が全てであると言っても過言ではありません。
その圧倒的な格差の壁に立ち向かう二流の血の持ち主であるオグリキャップの走りに人々(大衆)は魅了され昂奮しました。
やがて過酷な連戦続きのためか、足を悪くしてしまい、治療に専念することとなります。
しかしながら、激戦の疲れを癒やすための一ヶ月に亘る温泉治療が仇となってしまうのです。
鍛え上げたスポーツ心臓が温泉に浸かることにより消えてしまったのです。
先の獣医はよくあることだと、証言します。
復帰後、秋の天皇賞6着、ジャパンカップ11着の大敗。
誰もがもう終わったとつぶやき、ご苦労様と温かい言葉をかけます。
けれども、
中央競馬会の馬主資格を持たないために、オグリキャップの更なる可能性にかけて中央競馬の馬主に泣く泣く愛馬を譲り渡した、小栗孝一は信じていました。
これでは、終わらない。
間違いなく、この言葉は、オグリキャップに向けられたと同時に小栗氏自身にも放たれていたはずです。
不死鳥の走り・魂の激走
調教師の瀬戸口氏のもとに、次から次にオグリキャップへの激励の手紙が送られてきます。
瀬戸口氏は勝負に出ました。
疲労が蓄積するとわかっていながらも、あえて実践に近い芝コースで最後の調整を行ったのです。
けれども調教の感触は良くはありませんでした。
不安が拭いきれないまま、迎えて1990年12月23日、有馬記念当日。
中山競馬場には、史上最高の17万7千人の人の渦。
多くの競馬ファンが、オグリファンが、彼の最後の走りをみようと押し寄せました。
レース後、自分が歴史の証言者になろうとは、その時、ただの一人も思わなかったはずです。
天才武豊でさえ、勝てるとは思っていなかったと、走る前には思っていたほどでした。
しかしながら、スタート直後、いい走りであることに天才は直ぐに気づきます。
第四コーナーを回りながら、反応の良さに「ひょっとしたら」が頭をかすめました。
予感は現実化します。
どの馬よりも早くゴールを駆け抜け、オグリキャップは伝説を超えて神話となりました。
勝負が決した一時間後、恋馬に元馬主はたった一言だけを口にしたそうです。
ありがとう。
ああ、見終わってため息しか出ません。
こちらこそありがとうございます。
小栗さん、そして怪物。