「なんとか活」がいっぱい
わたしの年代は「なんとか活」といえば、部活ぐらいしか思い当たらなかったものです。
ここ数年のなかで「なんとか活」は徐々に市民権を得て広がりを見せています。
メディアの意図ははっきり言って不明瞭
でも、ブームづくりも含め、共通項の認知は議論をすすめる上での妨げにはなりません。
なので、新語増設は歓迎です。
けれども、違和感とはいわないまでも少々の受け入れがたさのようなものも感じます。
以下、まるっきりの雑感となります。
そもそも「活動」とは?
活動とはネットの辞書で調べてみるとなかなかに示唆的な解説がなされています。
- 活発に動くこと
- 働きかけること
ふむふむ。
味も素っ気もないがいいたいことはわかります。
活発に動くのですね。
ということは、主体的であり、能動的でなければなりません。
流されるだけや、不熱心は活動は該当しない、そのようです。
なんとか活動は続く
現在、わたしは妊活の必要も婚活の必要もありません。
終活にはちょっと早すぎる年齢なので、必要性・緊急性ゼロです。
就活も行う必要はありませんが、仕事柄日々、多くの就活生と接しているので、関係性は大です。
なので、現在活動家ではありません
そのような立場から見ると、たとえば就職活動ではなく就活と括られることにより、言葉は若干の違った意味を帯びるように思えます。
それは、もちろん受け手によって異なるものです。
どうにも画一化と義務感の微増を感じざるを得ません。
活動である限り、そこには積極性や能動性が全面に問われるわけですが、義務感がひたひとと忍び寄っているイメージです。
それと同時に、活動の絶体的肯定の押し付けと不熱心であった場合の罪悪感の糾弾が半端ない印象が拭いきれません。
我が感覚の大いなる勘違いでしょうか。
大活動家時代の到来
活動をするしないの判断は当然に当事者の自由です。
そこはかとない同調圧力にいつのまにか酸欠気味なムードがありあり。
自分の間合いなど論外で、活動を休止することもペースを緩めることもままならないようです。
主体的にやればやるほど、肝心の主体が自身ではなく、なにか活動それ自体であるような奇妙な乖離感はないのでしょうか。
メディアで取り上げられる「なんとか活」は我々のライフイベントにとって極めて重要性の高いものばかりです。
であるからこそ、自分のペースでやらせてよ、でいいと思うのですが。
尻に火が付いているからこその「活動」よ、ということでしょうか。
人生はところどころ不活性な時期があるから味わい深いもの。
なかなかに共有できない価値観なのかなぁ
ああ、活動家の時代。