クリント・イーストウッドが問う「命と等価であるもの」とは
今から十数年前に上映され物議を醸したアカデミー賞受賞作である「ミリオンダラー・ベイビー」を見ました。
- おんぼろボクシングジムを経営しているトレーナーのフランキー・ダン(クリント・イーストウッド)
- 32歳の遅咲き女ボクサー、マギー・フィッツジェラルド(ヒラリー・スワンク)
この二人が主人公です。
脇を固めるのはフランキーの旧友でジムの住み込みエディ・デュプリス(モーガン・フリーマン)
彼の存在感は圧倒的です。
この三人を軸に物語は進んでいきます。
クリント・イーストウッドらしく、極めて親しみやすい物語の形式を借用しながら、彼が描こうとしていることはまったくもって難解です。
あなたは次のような「見覚えのあるテーマ」をスクリーン上に目にすることでしょう。
- 家族の問題
- 貧困
- 宗教
- 尊厳死
- アメリカン・ドリーム
おそらく、
これらの問題のうちのひとつふたつを訴えかけたいのであれば、上映時間は120分以内に収まり、見終わったあとに心地よい感慨があなたを訪れたはずです。
133分間を要して「巨匠」がスクリーンに映し出したかったことは何か?
私の出した答えは次のとおりです。
愛する者とのかけがえのない魂の触れ合いは自らの命と等価であらねばならない
以下、内容に言及しますのであらかじめご了承ください。
家という十字架
理由は定かではありませんが、フランキーのことを娘はどうあっても許すことがないようです。
彼が娘にあてた手紙は送り先から差出人のもとに封も切られずに戻ってくることの繰り返し。
帰宅し、玄関のドアを開けると投函した手紙が床に落ちているのを彼は何度も目にします。
フランキーにとって自宅は己の過去の過ちを鼻先に突きつけられる場所でしかありません。
一方、貧しいマギーは賞金を稼げるようになると貯金をし、母親のために家をプレゼントします。
喜んでくれるどころか、家を持つことで生活保護や健康保険が優遇されないことを理由に、心無い母親は勝手なことをするなとなじります。
挙句の果てにカネのほうが良かったと毒づく始末です。
マギーにとっても「家」は家庭の団欒とは程遠い、厄介な代物という以上の意味を持ちえません。
物語の前半部において、彼らが帰るべき必然性を持つ「場所」を失った存在であることが明瞭に表現されています。
このことは、物語の終盤に露呈するこの世に居場所がないことを容易に想像させる伏線となっているのです。
自死という選択
100万ドルの試合であるタイトル戦においてマギーは不幸にも全身不随となります。
彼女はボスであるフランキーに安楽死への幇助を要求します。
彼は苦悩し、教会の神父に事情を吐露せざるを得なくなるところまで追い込まれます。
神父は言います。
神は忘れろ
天国と地獄も忘れろ
手を貸せば、君は自分を見失う
深い淵に落ち
永遠に自分を失う
神父は「決して罪を犯してはならない」とくぎを刺すと同時に、別の「大事なこと」を彼に語りかけています。
それは自殺の禁止です。
フランキーが自らの手で彼女をあの世に送り出すのならば、必ず自らの命を断つであろうことをあたかも知り抜いているかのようです。
フランキーは苦悩の果てに彼女の望みを叶えることを選択してしまいます。
自分で呼吸ができない彼女の酸素吸引器のパイプを取り外し、「苦しみが戻らない」ように、用意したアドレナリンを大量に投与するのです。
あなたが思い出さなければならないのは、彼が自宅で鞄にアドレナリンの瓶と注射器を二本づつ忍ばせた事実です。
神父が見通したとおりの結末をフランキーが静かに受け入れるであろうことが、ここではごく控えめに示唆されています。
命には命を
マギーは生き方に対する誇りを手放すことができないゆえに、生きることを放棄しようとします。
思い出してください。
彼らにとって、
「生きること」と「生き方を全うすること」は違うのです。
違うからと言って、軽々に安楽死や尊厳死が肯定されるはずもありません。
肯定されないがゆえに、
他人の命の火を消すとは自らの命をもって消す覚悟が必要であると、静かに物語はそう語っているのです。
モ・クシュラの店
ゲール語で「愛する人よ、お前は私の血」を意味するモ・クシュラという語をガウンに縫込み、マギーは戦ってきました。
その言葉の意味をフランキーは決して口にしません。
最後の最後にようやく彼女に告げます。
私の血という言葉からわかるように、愛弟子は娘のような存在であったことでしょう。
確かにマギーの中に実の子を見ていたはずです。
これはもちろんマギーにとっても同様です。
彼女はフランキーに間違いなく父親を重ねていました。
母親との不愉快なやり取りがあったのち、
実家からの帰り道のさなか、彼女は父親とよく通った「アイラのロードサイド食堂」に立ち寄ろうとフランキーに提案します。
そこは本物のレモンを使用した絶品のレモンパイを供してくれるお気に入り、かつ思い出の店なのです。
フランキーはレモンパイを口にし「このまま死んでもいい」と絶賛します。
イーストウッドの映画は本当に脚本がよく練られています。一度口にされたセリフが余韻を保持したまま別の場面で突然に顔を出します。うまいとしか言いようがありません。
フランキーは幇助した後に行方をくらまします。
映画のラストシーンは「アイラの店」のすりガラス越しの人影となります。
これからこの世を後にするフランキーが幸福な表情をしながらレモンパイを口にしている場面があなたにもきっと想像できるはずでしょう。
ホームへは二度と二人では訪れることができない
父と娘がレモンパイを食べた親密な時間は、父にとっても娘にとってもかけがえのない「時」であったはずです。
マギーにとってもう二度と戻らない時間と、フランキーにとって決して実現しなかった時間が重なり合います。
「父親との美しい時間」と「決して娘と共有できなかった夢見た時間」がピタリと重なり合うのです。
愛する者とのかけがえのない魂の触れ合いだけが人生において唯一意味を持った時間であるのならば、
もうどうあってもそこにたどり着くことができないのであれば、
「生」は灰色と化します。
レモンパイを「私の血」と一緒に口にする機会は永遠に失われてしまったのです。
彼女の死をもって。
自らの命を紡ぐ理由は彼のもとから静かに立ち去ります。
彼女のいない世界(この世)にさよならを告げるのです。
レモンパイの店が彼らにとっての心温まる家(ホーム)であったことは今更言うまでもないでしょう。
娘への最後の手紙
フランキーの娘へ旧友のエディは手紙を書きます。
父親フランキーのことを。
おそらく、フランキーがもうこの世にいないと思うからそうしたのでしょう。
もういい加減許してやれよという意味を込めて。
手紙を彼女が読むのかどうかは誰にもわかりません。
合理的理由は示せませんが、なぜか読んでくれるような気がしてなりません。
なぜなら、死んでしまった者(ある種のチャンプ)には誰も勝てないのだから。