村上春樹が専業作家となって最初に書いた小説は、感傷的なものと不気味なものが奇妙に同居している傑作であった
海外においては「羊をめぐる冒険」は村上春樹の処女作という認識が一般的です。
なぜなら、久しく「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」という先行するふたつの作品が翻訳されていないためでした。
1982年に文芸誌に描き下ろしの形をとって発表された本作は、当時読者の反応も上々であり、野間文芸新人賞を受賞しました。
村上にとっての長編第一作は、
- 文章の読みやすさにもかかわらず、
- その内容の面白さにもかかわらず、
読後感は極めて複雑と言わざるを得ない小説です。
「冒険」と謳いながら、ここには一般的な冒険は微塵も書かれてはいません。
およそ躍動感とは無縁の物語が展開します。
現代は冒険など誰もできるはずのない時代であることが極めて逆説的に語られているばかりなのです。
英訳のタイトルは「 Wild Sheep Chase」となります。冒険は「アドベンチャー」ではなく「チェイス」と訳されています。アドベンチャーとしてしまうと、反語的意味合いが分かりづらい理由からでしょうか。チェイス(追跡)は適切な意訳であると思われます。
本作に対する一般的な評価は、これは喪失の物語であるという至極まっとうな結論で一致しています。
「僕はいろんなものを失いました」
この物語が描く喪失には実は2つの顔(側面・意味)があります。
- 失ってしまったものの記憶
- それでもなお消えないもの
ごくごく単純に、何かが失われてしまった寂しさだけが読み終えたあなたを包み込んでいるわけではなさそうです。
「それでもなお消えないもの」があなたの後ろ髪を執拗に引き続けます。
ここで理解を深めるために、2つの顔を別の言葉で言い換えてみましょう。
- 感傷的なもの(失ってしまったものの記憶)
- 不気味なもの(それでもなお消えないもの)
この物語が感傷的なものだけで構成されていたのならば、読後感はさぞかしスッキリとしたことでしょう。
でも、それだけではありませんでした。
以下に、感傷的なものと不気味なものについて説明していきます。
内容に言及しますので、あらかじめご了承下さい。
感傷的なものとは
「感傷的なもの」とは別の言葉で言い換えると「若さの残存記憶」となります。
この小説が国を超えて受け入れられている理由のひとつは、本作がある種の「青春小説」であるためです。
ここには、
- 時代の終焉
- 青春の終わり
- 若さの陰り
が控えめなトーンで描かれています。
青春小説でありながらも、直接的には「人生の夏」は描かれてはいません。
逆説的に「夏の終わり」に光をあてることで「青春」を一層輝かせる手法が採用されています。
「祭りのあと」においては、眼の前にも、手の中にも、もはや「何」も残ってはいません。
もう二度と戻ることはできない輝かしい季節。
僕と鼠の青春の生き証人であるバーのオーナー兼マスターであるジェイとの次のやりとりのなかに「若さの残存記憶」が見事に結晶化されていると言えるでしょう。
「もう終わったんだね?」
「ある意味ではね」とジェイは言った。
「歌は終わった。しかしメロディーはまだ鳴り響いている」
「あんたはいつも上手いこと言うね」
「気障なんだ」と僕は言った。
村上は本作において「歌」を歌ってはいません。
あからさまに夏への賛歌を歌い上げません。
直接的、直裁的には可能性の季節の生命感は「文字」にはならないのです。
ただメロディーを響かせているだけの描写を徹底して続けます。
言うまでもなく、メロディーとは「若さの残存記憶」に他なりません。
ゆえに「センチメンタルなもの」が行間を水浸しにしてしまうのでしょう。
残存記憶の白眉となる箇所が本作のフィナーレの手前に鎮座しています。
これは、村上の書いた文章の中でも最も美しい文章のひとつであると言えるのではないでしょうか。
「できれば君の方から質問してくれないか?君にはもうだいたいのところはわかっているんだろう?」
僕は黙って肯いた。「質問の順序がばらばらになるけどかまわないか?」
「かまわないよ」
「君はもう死んでいるんだろう?」
鼠が答えるまでにおそろしいほど長い時間がかかった。ほんの何秒であったのかもしれないが、それは僕にとっておそろしく長い沈黙だった。口の中がからからに乾いた。
「そうだよ」と鼠は静かに言った。「俺は死んだよ」
鼠は自分の中に巣食う「弱さ」に絶望し、その息の根を止めるために相討ち的な自死を選び取ります。その弱さとは「全てだよ。道徳的な弱さ、意識の弱さ、そして存在そのものの弱さ。」であると述べられているものです。「強さ」については文中では明言されてはいませんが、「強さ」とはシステムや制度に対する無自覚で盲目的な社会的服従を意味していると思われます。そのような生(生き方)は、個人(内面)をいささかも毀損しない意味において、揺るぎない強靭性を有しています。注意すべきなのは、鼠を蝕む「弱さ」が知らず知らずのうちに、個人を規定・画一するこのような「強さ」に容易に転化・変態する点(反転可能性)でしょう。鼠は人一倍「弱さ」に敏感であったゆえに、その危険性に極度に自覚的であったはずです。彼は何処までも「個人」にこだわったと言えます。死をもってしても彼が確保したかったものは、紛れもなく「個」でした。
不気味なものとは
「不気味なもの」とは、言い換えれば「システムに内在する暴力性」となります。
システムがシステムである限り孕まざるを得ない暴力性(権力性)を意味します。
我々の生の条件に分ちがたく結びついた社会経済制度・体制・機構が不可避的に産出する政治的権能と読み替えてもいいものです。
人の誕生から死に至るまでの間に蔓延るこのようなシステムの不透明さを可視化することに成功している本作に対して、ポリティカル・フィクションであるという評価が一部(特に欧米で顕著)では与えられています。
1989年に翻訳され、海外に紹介されたとき、彼の小説を読んだ作家の知り合いのアメリカ人の多くは「これは純粋なポリティカル・ノベルだ」と村上に感想を述べたそうです。
小説を読み解く場合に「政治性」に着目することは、本書の特色の解明には非常に有効なアプローチであると言えます。
「羊をめぐる冒険」を論ずる場合、システムをシステムたらしめる「羊」すなわち「大いなる邪悪な意思」のようなものに焦点が当てられる傾向が強くなります。
「羊」とは何を意味するのかと誰もが疑問に思うことでしょう。
しかしながら、
物語(文学)の作法として、「羊」とはなにかについての言及は巧妙にあるいは必然的に明示が避けられています。
言うまでもなく、そこには「謎」はあっても「不気味なもの」は存在していません。
そうではなく、あなたが目を向けるべきは、「羊」ではなく「人間」の所作の方なのです。
- 鼠が自死を選ばざるを得ないこと
- 僕が「冒険」を始め、終えなければならないこと
- 先生の秘書が爆死すること
- 彼女が姿をくらましたこと
これらは偶然とも必然とも判定し難い、運命という衣装をまとった「なにか」の表象に他なりません。
そのような「なにか」に突き動かされながら、ある者は生を引き伸ばし、ある者は生の幕を引きます。
自らの手で生み出したものに、抗いがたく従わざるを得ないのだが、服従それ自体が自発的意志と双子であるような動的平衡状態。
内発的動機と外発的理由が渾然一体となる時空に「生」がピタリと張り付いているかのようです。
「システムを生きる」とはそういうことなのでしょう。
あたかもフーコーの著作を眼の前にしているようなある種の「倦怠感」を読後にもたらす小説であると言えます。
本作を「全共闘」や「連合赤軍事件」から読み直す批評は珍しくありません。それらが作品読解にとって魅力的な視座を提供していることは紛れもない事実でしょう。村上が時代の空気や精神から無縁な立ち位置に立っているわけではなく、国内の社会情勢と有形無形の影響関係にあることを否定できないこともひとつの事実であると思われます。しかしながら、日本固有の文脈を離れ、世界的な文学的同時性を獲得している事実の方にむしろ目を向けるべきなのでしょう。
冒険の果てに
読み終えたばかりのあなたを囲うのは、徒労感ではなくやはり倦怠感でしょうか。
青春の蹉跌のごとき鼠三部作(「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」)を経て村上春樹は本格的な作家生活に入りました。
村上にとって、本作「羊をめぐる冒険」はあらゆる意味で印象に残る、特別な作品であると言えます。
初期の二作品においても「不気味なもの」はまったく触れられていなかったのかといえば、そうは言いきれないところがあります。
しかしながら、
作家的意志のもと自覚的に書かれたのは、本作がその始まりであると言えるはずです。
本作以降、「若さの残存記憶」という手触りを置き去りにし、村上は「不気味なもの」に一直線に進んでいきます。
(もしかすると、彼自身(彼の青春)が置き去りにされたのかもしれません)
進行する先の到達点が傑作「ねじまき鳥クロニクル」であることはすでにご存知のところです。
喪失の物語は、期せずして2つの顔(側面・意味)を見せました。
- 感傷的なもの(失われてしまったものの記憶)
- 不気味なもの(それでもなお消えないもの)
本来は相容れないであろう「感傷的なもの」と「不気味なもの」が奇妙に同居している小説を完成させたことは、作家村上春樹のひとつの「冒険」であったに違いありません。
彼は「村上春樹全作品1979−1989」にある「自作を語る」において、次のように述べています。
この作品はもちろん僕が生み出したものである。しかしそれと同時にこの作品は僕という存在に激しく対峙するきっさきを有していた。それは僕にある種の変革を要求していた。
ここでは作家が誕生する瞬間(過程)が赤裸々に語られています。
血の通った吐露それ自体から、如何にこの作品が作者にとって「感傷的なもの」であり「不気味なもの」であったのかがよく理解できるはずです。
本作の最後は次の言葉で「ふた」がされています。
どこに行けばいいのかはわからなかったけれど、とにかく僕は立ち上り、ズボンについた細かい砂を払った。
日はすっかり暮れていて、歩き始めると背中に小さな波の音が聞こえた。
この波の音が「在りし日の歌」であると同時に「システムが発する機械音」に似ていることは今更言うまでもないでしょう。
あなたに「切っ先」を突きつける傑作小説です。機会があれば、ぜひ何度も読み返してみてください。