「羊をめぐる冒険」喪失の物語が見せるふたつの顔をあなたは知る由もない

投稿日:2019-05-05 更新日:

村上春樹が専業作家となって最初に書いた小説は、感傷的なものと不気味なものが奇妙に同居している傑作であった

羊をめぐる冒険

海外においては「羊をめぐる冒険」は村上春樹の処女作という認識が一般的です。

なぜなら「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」という先行するふたつの作品が翻訳されていないためです。

1982年に文芸誌に描き下ろしの形をとって発表された本作は、当時読者の反応も上々であり、野間文芸新人賞を受賞しました。

村上にとっての長編第一作は、

  • 文章の読みやすさにもかかわらず、
  • その内容の面白さにもかかわらず、

読後感は極めて複雑と言わざるを得ない小説です。

「冒険」と謳いながら、ここには一般的な冒険は微塵も書かれてはいません。

およそ躍動感とは無縁の物語が展開します。

現代は冒険など誰もできるはずのない時代であることが極めて反語的に語られているばかりなのです。

メモ

英訳のタイトルは「A Wild Sheep Chase 」となります。冒険は「アドベンチャー」ではなく「チェイス」と訳されています。アドベンチャーであるならば、反語的意味合いが分かりづらい理由からでしょうか。チェイス(追跡)は適切な意訳であると思われます。

 

本作に対する一般的な評価は、これは喪失の物語であるという至極まっとうな結論で一致しています。

「僕はいろんなものを失いました」

この物語が描く喪失には実は2つの顔(表情)があります。

  • 失ってしまったものの記憶
  • それでもなお消えないもの

ごくごく単純に、何かが失われてしまった寂しさだけが読み終えたあなたを包み込んでいるわけではなさそうです。

「それでもなお消えないもの」があなたの後ろ髪を執拗に引き続けます。

ここで理解を深めるために、2つの顔を別の言葉で言い換えてみましょう。

  • 感傷的なもの(失ってしまったものの記憶)
  • 不気味なもの(それでもなお消えないもの)

この物語が感傷的なものだけで構成されていたのならば、読後感はさぞかしスッキリとしたことでしょう。

でも、それだけではありませんでした。

パドー
以下に、感傷的なものと不気味なものについて説明していきます

 

メモ

村上は「村上春樹全作品1979−1989」にある「自作を語る」において次のように言っています。「僕がこの作品を書くことができたのは、その一年ほど前に村上龍氏が「コインロッカー・ベイビーズ」という力強い作品を書いていたせいであると思う。」作品が持つ「長編小説的エネルギー」によって「創作の刺激」を受けたと書かれています。実際「羊をめぐる冒険」は途中にダレることもなく緊張感を持った文体が続く傑作となっています。

感傷的なものとは

風の歌を聴け (1979年)

「感傷的なもの」とは別の言葉で言い換えると「若さの残存記憶」となります。

この小説が国を超えて受け入れられている理由のひとつは、この作品がある種の「青春小説」であるためです。

ここには、

  • 時代の終焉が描かれています。
  • 青春の終わりが描かれています。
  • 若さの陰りが描かれているのです。

青春小説でありながら、直接的に「人生の夏」は描かれてはいません。

逆説的に「夏の終わり」に光りをあてることで「青春」を一層輝かせる手法が採用されています。

「祭りのあと」においては、もはや眼の前にも、手の中にも何も残ってはいません。

もう二度と戻ることはできない輝かしい季節。

僕と鼠の青春の生き証人であるバーのオーナー兼マスターであるジェイとの次のやりとりのなかに「若さの残存記憶」が見事に結晶化されています。

「もう終わったんだね?」

「ある意味ではね」とジェイは言った。

「歌は終わった。しかしメロディーはまだ鳴り響いている」

「あんたはいつも上手いこと言うね」

「気障なんだ」と僕は言った。

村上は本作において「歌」を歌ってはいません。

直接的には可能性の季節の生命感は文字にはなっていません。

ただメロディーを響かせているだけの描写を徹底します。

言うまでもなく、メロディーとは「若さの残存記憶」に他なりません。

ゆえに「センチメンタルなもの」が行間を水浸しにしてしまうのでしょう。

メモ

村上は「村上春樹全作品1979−1989」にある「自作を語る」において次のように言っています。「「羊をめぐる冒険」を書いたのは冬のことだった。秋の終わりころに書き始めて、春の始めに完成させた。(中略)どうしてかはわからない。ただの巡り合わせかもしれない。」誕生の過程において夏が巧妙に避けられているとみる見方はあまりに穿った見方でしょうか。

 

残存記憶の白眉となる箇所が本作のフィナーレの手前に鎮座しています。

これは、村上の書いた文章の中でも最も美しい文章のひとつであると言えるのではないでしょうか。

「できれば君の方から質問してくれないか?君にはもうだいたいのところはわかっているんだろう?」

僕は黙って肯いた。「質問の順序がばらばらになるけどかまわないか?」

「かまわないよ」

「君はもう死んでいるんだろう?」

鼠が答えるまでにおそろしいほど長い時間がかかった。ほんの何秒であったのかもしれないが、それは僕にとっておそろしく長い沈黙だった。口の中がからからに乾いた。

「そうだよ」と鼠は静かに言った。「俺は死んだよ」

不気味なものとは

城 (新潮文庫)

「不気味なもの」とは、言い換えれば「システムに内在する暴力性」に他なりません。

システムがシステムである限り孕まざるを得ない暴力性(権力性)を意味します。

我々の生の条件に分ちがたく結びついた社会経済制度・体制・機構が不可避的に産出する政治的権能と読み替えてもいいものです。

人の誕生から死に至るまでの間に蔓延るこのようなシステムの不透明さを可視化することに成功している本作に対して、ポリティカル・フィクションであるという評価が一部では与えられています。

1989年に翻訳され、海外に紹介されたとき、小説を読んだアメリカ人の多くは「これは純粋なポリティカル・ノベルだ」と村上に感想を述べたそうです。

小説を読み解く場合に「政治性」に着目することは、本書の特色の解明には非常に有効なアプローチであると思われます。

メモ

ポリティカル・・フィクション(ノベル)とは、政治的な事柄を扱った物語(小説)を指します。代表的なものにスウィフトの「ガリバー旅行記」、オーウェルの「1984年」、カフカの「城」などがあります。

「羊をめぐる冒険」を論ずる場合、システムをシステムたらしめる「羊」すなわち「大いなる邪悪な意思」のようなものに焦点が当てられる傾向が強まります。

「羊」とは何を意味するのかと誰もが疑問に思うことでしょう。

容易に想像できますが、しかしながら、

物語(文学)の作法として、「羊」とはなにかについての言及は巧妙にあるいは必然的に明示が避けられています。

メモ

村上は「村上春樹全作品1979−1989」にある「自作を語る」において次のように言っています。「どうして羊なのか、とよく質問される。それに対する答えはちゃんと存在するのだけれど、あまり意味のないことなので書いてもしかたないだろうと思う。」羊とは何かと同時に「なぜ羊なのか」も人々にとって大いなる関心の的であるのでしょう。

言うまでもなく、そこには「謎」はあっても「不気味なもの」は存在していません。

そうではなく、あなたが目を向けるべきは、羊ではなく人間の所作のほうなのです。

  • 鼠が自死を選ばざるを得ないこと
  • 僕が「冒険」を始め、終えなければならないこと
  • 先生の秘書が爆死すること
  • 彼女が姿をくらましたこと

これらは偶然とも必然とも判定し難い、運命という衣装をまとった「なにか」の表象に他なりません。

そのような「なにか」に突き動かされながら、ある者は生を引き伸ばし、ある者は生を閉じます。

自らの手で生み出したものに、抗いがたく従わざるを得ないのだが、服従それ自体が自発的意志と双子であるような動的平衡状態。

内発的動機と外発的理由が渾然一体となる時空に生が張り付いている。

システムを生きるとはそういうことなのでしょう。

あたかもフーコーの著作を眼の前にしているようなある種の「倦怠感」を読後にもたらす小説であると言えます。

メモ

ミッシェル・フーコーは1926年に生まれたフランス現代思想のメインプレーヤーである哲学者。1984年没。ポスト構造主義を代表するその主な著作は「言葉と物」「監獄の誕生」「狂気の歴史」「性の歴史」となります。

冒険の果てに

A Wild Sheep Chase: A Novel (Trilogy of the Rat Book 3) (English Edition)

読み終えたばかりのあなたを囲うのは、徒労感ではなくやはり倦怠感でしょう。

青春の蹉跌のごとき鼠三部作(「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」)を経て本格的な作家生活に入った村上にとって、本作「羊をめぐる冒険」はあらゆる意味で印象に残る、特別な作品であると言えます。

初期の二作品においても「不気味なもの」はまったく触れられていなかったのかといえば、そうは言いきれないところがもちろんあります。

しかしながら、自覚的に書かれたのは本作がその始まりであると言えるでしょう。

本作以降、「若さの残存記憶」という手触りを置き去りにし、村上は「不気味なもの」に進んでいきます。

(もしかすると、彼自身が置き去りにされたのかもしれません。)

進行の先のその到達点が「ねじまき鳥クロニクル」なのです。

喪失の物語は、期せずして2つの顔(表情)を見せました。

  • 感傷的なもの(失われてしまったものの記憶)
  • 不気味なもの(それでもなお消えないもの)

本来は相容れないであろう「感傷的なもの」と「不気味なもの」が奇妙に同居している小説を完成させたことは、まぐれもなく作家村上春樹のひとつの「冒険」であったに違いありません。

彼は「村上春樹全作品1979−1989」にある「自作を語る」において、次のように述べています。

この作品はもちろん僕が生み出したものである。しかしそれと同時にこの作品は僕という存在に激しく対峙するきっさきを有していた。それは僕にある種の変革を要求していた。

ここでは作家が誕生する瞬間(過程)が赤裸々に語られていますが、いかにこの作品が作者にとって「感傷的」であり「不気味」であったのかがよく分かります。

この小説の最後は次の言葉で閉じられています。

どこに行けばいいのかはわからなかったけれど、とにかく僕は立ち上り、ズボンについた細かい砂を払った。

日はすっかり暮れていて、歩き始めると背中に小さな波の音が聞こえた。

この波の音が「在りし日の歌」であると同時に「システムが発する音楽」であることは今更言うまでもありません。

 

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