手塚治虫とマンガ文化(通史)を語る上で不可欠となる批評的マンガ
日本のマンガのクオリティーの高さは世界でよく知られた事実ではありますが、その理由のひとつとして優れた批評性を内包していることがしばしばあげられます。
本作は、批評性を有していることは言うに及ばず、批評精神がマンガ表現をとっていると言い切っていい作品です。
マンガの神様である手塚治虫に心酔しながらも反発心・対抗心を隠すことのない複雑な感情を持った海徳光市という架空のマンガ家を主人公とする力作となります。
手塚治虫を追跡するスタイルをとる本作は、それゆえに自ずと日本のマンガ文化の歴史を描き出すことが避けられません。
全6巻完結の本作は、優れた批評であると同時に物語の面白さを持つ稀有な作品であると言えます。
以下、内容について言及しますので、あらかじめご了承ください。
徹底した追跡者
主人公の海徳光市は、熱烈な手塚治虫のファンである同業者ですが、そのことを隠し、自分の中でも折り合いがつきません。
一方的にライバル視し、嫉妬、憧れ、対抗心を燃やしながら、彼の行動をいちいち後追いしていきます。
スケールダウンしながらも、彼のやってきたこと(やろうとすること)を模倣するなかで、手塚の凄みや才能の豊さを完膚なきまでに思い知ることになります。
読者は、海徳を通じて、手塚の天才性をチェイスすることとなるのです。
作者のコージィ城倉氏は「あとがき」でこう述べています。
僕は手塚先生の作品論は語れないが量については語りたいと思いました。
量(あくまで質を伴った量)を想像させるために、比較対象(物差し)として海徳は設定されていますが、彼の悪戦苦闘ぶりを通して、手塚の怪物性が確実に読み手に伝わったことは言うまでもありません。
手塚治虫というジャンル
戦後の文化に最も影響力を与えた表現者のひとりであるクリエイターの手塚治虫は、マンガというジャンルを主戦場としました。
しかしながら、ビートルズがロックというジャンルの中に収まりきらなかったことと同じく、手塚もマンガというジャンルのなかに限定して評価することはいささか窮屈であるでしょう。
ビートルズはロックにおけるバンドのひとつではなく「ビートルズ」というジャンルなのです。
同様に、手塚治虫は「手塚治虫」というジャンルに他なりません。
今回、本作を通読して、あらためてその気持ちが強くなりました。
手塚が持つ、その先見性、革新性、独創性、彼が生み出した量に加え、扱うテーマの広さ、後進への途轍もない影響度を考えれば考えるほど、ビートルズと同レベルの存在感と言わざる得ないのです。
通史を描くということ
本作は事実に基づき描かれていますが、その構成や力点の置き方には、当然に作者のコージィ城倉氏の思想が反映しています。
歴史を読むとは、それを語る者の視点から自由であることができない行為です。
しかしながら、これは独善性の弊害や客観性の困難を意味しません。
歴史を読むとは、ひとつの視点を始点(支点)とし、過去を理解することに他ならないのです。
手塚の持つ作品の意味が、時代背景の文脈の中で、鮮やかに提示されます。
マンガ界の通史が、興味深く、読者に理解できる形で作者の手により切り取られているのです。
その意味で、
本作は日本のマンガ史と手塚治虫の作品理解に非常に有益な「視点」を提供してくれるはずです。
システム化の大波
時代の流れを作りながら、かつ時代の流れに乗りながら、手塚は名声を確立し、一世を風靡します。
高度経済成長という時流に乗りながら、手塚はマンガ文化が産業として成功を生み出すことに大いに貢献し、自らも商業的成功を収めます。
マンガを描く、連載するという個人的営みを集団作業へとシステム化し、業界を牽引していきます。
やがて、マンガ雑誌の週刊化、単行本化に代表される出版界の新しい潮流のなかで、モンスター雑誌となる「少年ジャンプ」が採用した読者アンケートによる順位付けに代表される「合理性」によって、マンガを取り巻く環境は徐々に変化していきます。
システムは大きなうねりとなり、手塚個人も飲み込まれていき、平成元年に60歳という早すぎる死を迎えます。
マンガがもはや複合的な商業システムの起点と化している今日的状況を考察する際に、極めて示唆的な視点を本作は提供してくれるはずです。
マンガ史の見方を変える「チェイサー」をぜひ手にとってみてはいかがでしょうか。