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「半世界」いつまでも終わらない二分の一の物語

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大人の友情。壊れかけた家族。向き合えずにいる仕事。

コロムビアミュージックエンタテインメント

「どついたるねん」で監督デビューし、「顔」で名だたる映画賞を独占した阪本順治監督の最新作が本作「半世界」です。

主演に稲垣吾郎氏を迎え、2019年に公開された本作は、第31回東京国際映画祭で観客賞を受賞しました。

極めて示唆的なタイトを有する本作品は、実に図式的であり、構造的であると言えます。

以下、内容に言及しますので、あらかじめご了承ください。

あらすじ

本作は、諦めるには早すぎ、焦るには遅すぎる39歳という年齢の3人の男たちの友情を軸に、家族との距離感や人生の意味について描かれている作品です。

人生の折り返し地点で、3人は迷い傷つき、他人と向き合い、自分自身に問いかけます。

ある地方都市で炭火を焼いて細々と生計を立てている高村紘(稲垣吾郎)は、中学生の息子の明(杉田雷麟)との関係は上手くいっていません。妻の初乃(池脇千鶴)は商売が先細りしていく中で不安な毎日を送っています。

ある日、高校卒業と同時に町を去った同級生の沖山瑛介(長谷川博己)が自衛隊を辞めて戻ってきます。母親が死んだ後に放置されていた実家に住み始めた瑛介は以前と違い、すっかり人が変わっていました。紘は同じく同級生で自動車販売を家族で営む岩井光彦(渋川清彦)とともに、瑛介に積極的に関わっていこうとします。

旧交を温めながら、しばらく平凡な日々が続きますが、ある出来事を契機に、瑛介は再び町を離れます。その後、紘は製炭所で突然死してしまいます。残された同級生の二人はそれぞれの場所で精一杯生きることを確かめ合い、残された紘の家族も新たな一歩を踏み出していくのです。

タイトルの由来

タイトルの「半世界」とは、戦前の写真家である小石清の写真展の題名からつけられたそうです。

タイトルの2つの意味

映画のタイトルにある「半」という言葉には、ご存知のように2つの意味があります。

  1. 片一方、二分の一
  2. なかば、終わらない

つまり、

「半分の世界」と「終わらない世界」という2つの意味を持っていると考えられます。

生まれ育った場所を離れて生きる都市生活者の多くは、ここで描かれている幼なじみにより形成される共同体的関係性に嫉妬せざるを得ないでしょう。例え、このような「湿度」に耐えられないと故郷を後にした場合であっても、おそらく羨望は若干とも残るはずです。

登場人物を分類する

主な登場人物をこの2つの意味に沿って分類してみると、次のようになります。

片一方
終わらない
  • 初乃
  • 光彦
  • 瑛介

片一方(二分の一)のグループ

初乃は紘とパートナー(夫婦・仕事面)であるために二分の一のポジションです。紘を心から愛し、棺を前にして自分も一緒に入れてくれと泣き叫ぶ彼女は正真正銘の片一方的存在です。

光彦は独身であるがゆえに、夫婦という単位で見るのならば、二分の一のポジションと言えます。

終わらない(なかば)のグループ

海外活動中の出来事により大きな心的外傷を負った瑛介は、部下が帰国後自殺した事実に対して自責の念を拭い去ることができません。彼の日常は戦場と地続きであり、戦争の影はいつまで経っても彼の中で消えません。

中学でいじめにあっている明の日常は灰色であり、陰湿ないじめの毎日は永遠に続くかのようです。卒業すれば一旦関係は希薄になる可能性があるものの、この町にいる限り、縁が切れるということはないのかもしれません。

では、主人公の紘はどちらに属するのでしょうか。

彼は、どちらにも属する存在であると言えます。

初乃との関係性においては、二分の一のポジションです。

炭火を焼くという仕事に従事している限り、その工程の繰り返しに終わりはありません。永遠に繰り返されるのです。

グループを跨ぐ、中途「半」端な立ち位置に彼は立ち続けています。

父親の仕事を無理やり自分で継いでしまいながら、炭火焼きに積極的な意味を見出せず、さりとて生活のために辞めることもできずにいる「半」端な状態が紘の終わらない「日常」なのでしょう。

池端千鶴さんの存在感は圧倒的です。母親と妻と女を同時に表現するその才能は素晴らしいの一言です。

二等辺三角形な関係

3人の男たちは、自分たちを対等の立場で不可欠な存在であるという認識から「正三角形」な関係であると理解しています。

卒業を目前に地中深く埋めたタイムカプセル(思い出の品を入れた缶)を紘の死後に掘り返した二人が見つけたのは、光彦が記念に撮った1枚のポラロイド写真です。

そこには、手の甲に描かれた二等辺三角形が写っていました。

光彦は照れ隠しから、これは俺が譲ってやって、正三角形ではなく、二等辺三角形を書いたんだと説明します。

この二等辺三角形は象徴的です。

なぜなら、3人の関係性を的確に表しているからです。

三辺のうち誰が短い辺になるかによって、次のように3つのパターンに分かれます。

光彦が短い辺に当たる場合

(紘・瑛介):(光彦)=(結婚したことがある・子供がいる):(結婚したことがない・子供がいない)

瑛介が短い辺に当たる場合

(紘・光彦):(瑛介)=(親の後を継いで地元に残る):(地元を後にした)

紘が短い辺に当たる場合

(瑛介・光彦):(紘)=(生きている):(死んでしまった)

彼らの関係性は、ひとつの要素から眺めると二等辺三角形という形をとりますが、ある種の調和が維持されているために、「正三角形」と言わざるを得ない関係性を有しているのです。

紘の人生は突然死によって生物学的には終焉を迎えましたが、人生的には何ひとつ「終わらない」まま、ある意味宙吊りにされ、続いていると言えます。その意味において、彼は今もなお、半世界の住人なのでしょう。

光り輝く半世界の方へ

海外派遣の折に「地獄」を経験した瑛介は、生ま育った土地を出ない光彦に対して、世界を知らないと吐き捨てます。

けれども、光彦は「こっちだって世界なんだよ」と言い返すのです。

瑛介は外国を持ち出すことにより、光彦の世界をただのローカルと言外に非難します。

光彦は、瑛介が持ち出す外国がその土地に住む人間にとっては、単なるローカルであり、それゆえに、どのような場所も世界に他ならないのだと主張しているに違いないのでしょう。

一見するとなんの苦労もない平々凡々に見える日常の生活はただの上部に過ぎないのであり、そこで暮らす人々には、人の数だけ「闇」があるのだと言っているのです。

光彦の言葉の方がグローバル性を持ち得ているのは言うまでもありません。

ローカル性を批判するために、別のローカルを持ち出すことしかできないのであれば、次のように言わざるを得ないでしょう。

人は誰しも半世界の住人(発展途上)であり、それを超えて世界(完成)を語ることはできないのだ、と。

言い換えるならば、

世界を語り始めるや否や、誰もが実態を離れた半世界に落っこちてしまうのです。

自分が立っている場所を相対化するための視点として導入される場合にのみ、世界は、半世界(自分がいる場所)の可能性を押し広げます。

半世界に留まり続けることがもたらすある種の希望がラストシーンにおける明を通して描かれています。

ボクサーになりたい憧れを口にして母親に一笑された少年は自らの未来=世界に踏み出します。

父親が残した製炭所の中でひとり黙々とサンドバックを打ち続けるのです。

彼の半世界に光が差し込む日はそう遠くないに違いありません。

コロムビアミュージックエンタテインメント

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