俳優香取慎吾の存在感が全面に溢れ出るフィルム

白石和彌監督作品である本作「凪待ち」は香取慎吾さんが主演し、2019年に公開されました。
ギャンブル狂いのダメ男の物語です。
ダメさ加減が嫌味なく丁寧に描かれています。
この映画は、徹頭徹尾、「待っている」男を描いた作品と言えます。
以下、内容に言及しますので、あらかじめご了承ください。
ストーリー

公式サイトからのあらすじを以下に引用します。
毎日をふらふらと無為に過ごしていた郁男は、恋人の亜弓とその娘・美波と共に彼女の故郷、石巻で再出発しようとする。少しずつ平穏を取り戻しつつあるかのように見えた暮らしだったが、小さな綻びが積み重なり、やがて取り返しのつかないことが起きてしまう―。ある夜、亜弓から激しく罵られた郁男は、亜弓を車から下ろしてしまう。そのあと、亜弓は何者かに殺害された。恋人を殺された挙句、同僚からも疑われる郁男。次々と襲い掛かる絶望な状況から、郁男は次第に自暴自棄になっていく――。

キャスト
- 主人公郁男(香取慎吾)
- 恋人の亜弓(西田尚美)
- 亜弓の娘の美波(恒松祐里)
- 亜弓の父親勝美(吉澤健)
- 近所の住人小野寺(リリー・フランキー)

本作にサスペンス要素を期待するのはある意味お門違いでしょう。
演出はサスペンス性をはなから放棄しています。
従って、その点からの本作への批評は全て的外れに至らざるを得ません。

その意味で、公開ポスターにある文句「誰が殺したのか?なぜ殺したのか?」は明らかにミスリードだと思います。
ノミ屋の従業員が、郁男の当たり車券を口の中に放り込み飲み込んだ後に、ノミ屋は飲み込むからノミ屋だという捨て台詞を吐き捨てる、このような心憎い演出が随所に光ります。
凪を待つ

凪とは?
その意味は、
風力がゼロの状態。波が穏やかな様。時化(しけ)の対義語。
となります。
従って、凪待ちとは、
船を出せない、海に出れない状態にある。中途半端な状態。心がざわついている様。
を示しています。
つまり、
平常を「待っている」状態です。
この待っている状態を主人公の郁男が体現します。

殺人犯の小野寺の存在感は圧倒的と言えます。連行されるシーンでの不気味が人の形をしたリリー・フランキーの演技は絶品です。彼が製氷工場の従業員であるのは象徴的です。氷のような冷たい心を持つと同時に、サイコパス的に良心や倫理観が欠落している(透明で向こう側が透けて見える)ことを表しているのでしょう。
ひたすらに待つ男

彼は、全編を通じて「待つ」という行為と心中します。
- 亜弓から籍を入れる要請を待っています。
- 亜弓が小遣いをくれるのを待っています。
- 職を誰かが斡旋することを待っています。
- 住む場所を提供してくれることを待っています。
- 不登校である美波が自ら学校に行くことを待っています。
- 競輪の車券が当たることを待っています。
- 勝美が自分に心を開いてくれることを待っています。
- 競輪ギャンブルの仲間だった渡辺からの便りを待っています。
- 亜弓を殺した犯人が見つかるのを待っています。
- 亜弓がこの世からいなくなった悲しみがなくなることをひたすら待っています。
- 町から逃げ出すために列車を待っています。
- 美波と勝美から一緒に住み続けてと懇談されることを待っています。
数え上げれなキリがないぐらいに、待つという行為を繰り返します。
消極性や諦観とは無縁に、ただただひたすらに「待っている」のです。
勝美が組関係者に拉致された郁男を取り戻す場面で、彼のことを「息子」と呼んだのは娘の亜弓の事実上の内縁の夫であったこと、そのように宣言することで連れ出しやすくなる理由に加え、自分が歩んできた人生に非常に似通った生き方をしている郁男に己の「分身」を認めたからに違いありません。
人生の終わりを待つ男

本作の暴力シーンの全ては、郁男の解消しきれない、次から次に内から止めどもなく湧いてくる苛立ちや自責や怒りに塗り潰されています。
彼の拳は常に自分自身に向けられていると言っても過言ではありません。
つまり、
彼は自殺願望を持ちながら、他人の手で自らを葬って欲しいと相手に仕向けているかのようなのです。
なぜなら、彼は待つ男だから。
人生が終わることを待っているのです。

そのような生き方はある種の鈍色を放つ故に、周りの人間を否応なく魅きつける磁力となるのかもしれません。
彼の持つ優しさは、見返りと無縁であるがために、他人にとっては純度が増すばかりなのでしょう。
彼には自分のためにという考えや思いがごっそりと抜け落ちています。
そのために、彼の行為は周りの者にとって、どこまでもピュアに映るのでしょう。
彼の場合、ギャンブルで勝ちたいという気持ちが本当にあるのか否かも判然としません。禁断症状的に車券を買い続けるというよりもむしろ、自分の中の穴を何かで塞がないといたたまれないために、金や酒を注ぎ込んでいるかのようです。
海の底に沈む「日常」

エンドロールには、東日本大震災で、海の底に沈んだ人々の日常生活の記憶が映し出されます。
海上が凪だろうが時化だろうが、それとは無関係に海の底には、決して忘れてはならない、しかしながら、どこかで決着をつけなければならない記憶の証が静かに眠っています。
決して風化させてはいけない記憶が日常の中で邪魔をしなくなるまでの年月を我々は待たなくてはいけないのだと、海の底で沈黙する「時計」や「自転車」がこちらに迫ってくるのです。
待つ男である郁男とは我々自身に違いありません。

