哲学者か、哲学教授か?
かつて、ショーペンハウエルは哲学者と哲学教授を峻別し前者のその高貴さと稀有さを賞賛しました。
残念ながら現代においてもその区別は有効に機能しえています。
けれども、例外的存在はいつの時代にも必ずいるものです。
″哲学教授なのに哲学者″である野矢茂樹という人物、その人です。
思えば、この人の師にあたる大森荘蔵もそうであったか。
「哲学探究」か「論理哲学論考」か?
「ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む」を読み返しました。
二度目であったのですが、この書物の持つフレッシュさはいささかも落ちていませんでした。
野矢茂樹氏は″あとがき″にも書いているように根っからの哲学青年ではなかったようです。
哲学を志し、最初に読んだ本が「論理哲学論考」でした。
分からないながらもどうにも「かっこいい」と思ったと回想されます。
ここに書いていることは本当に正しいのだろうかという疑念が頭を離れなかったらしく、 その後、後期の「哲学探究」に魅了され自分の思索を続けることになります。
数年ほど前より、内的な変化が生じた結果、「哲学探究」よりも「論理哲学論考」の虜になってしまったようです。
このようなプロセスを辿り、その過程を告白する″真摯さ″こそが、野矢氏を″哲学教授のくせに哲学者″たらしめているのだとあらためて強く思います。
執筆の狙い
執筆のねらいを、″はじめに″において野矢氏は次のように述べています。
「論理哲学論考」を生きているまま立ち上がらせ、その肉声を響かせること。そうして、「論理哲学論考」をただ読んだのではなかなか聞こえてこないだろう声を響かせること。
そのために筆者はひとつひとつの論考に対し注釈を補足していくという丁寧なスタイルを採ります。
ゆえに、
直接にウィトゲンシュタインと向き合うよりも、ウィトゲンシュタインその人をあなたは知ることができうるのでしょう。
沈黙を超えて
よく知られているように、「論理哲学論考」は有名な次のような結論で締め括られています。
語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
野矢氏はこれに以下のような補足的解釈を施し、ペンを置きます。
語りきれぬものは、語り続けねばならない。
「論理哲学論考」に対するこれ程見事な理解(蘇生)をわたしは知りません。
- 哲学者は、やはり「かっこよく」なければなりません。
- 哲学教授は、やはり「誠実」でなければならないのです。
なぜなら、哲学とは人文学界における最後の「秘境」であるのだから。