正義のオモリなき悪の行方
第76回ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した本作は、アメリカのコミックヒーローであるバットマンの敵役「JOKER(ジョーカー)」を主人公に据えた怪作です。
一連のバッマンシリーズとは独立しており、ジョーカーと自ら名乗る男がジョーカー(悪のヒーロー)になるまでの過程を描いたオリジナルストーリーとなります。
本作は芸術性が高く、スタイリッシュなシーンに溢れており、その内容から中毒性も強く、リピーターが跡を絶たないようです。日本でも多くの称賛を得ております。
以下、内容に言及しますのであらかじめご了承ください。
ヴェネチア国際映画祭で受賞することからもおわかりの通り、本作は非常に観念的な作品です。観終わった後、直ちに思い出されたのは、007シリーズの「スカイフォール」でした。世界が複雑性を増したために、単純な娯楽作品のスタイルからの変更を余儀なくされたと言えます。世界の複雑さを複雑なままスクリーンの上に描き出すべきだという社会的要請に、できうる限り忠実であろうという製作者の意志が強く働いたからなのでしょうか。
あなたの物語
社会的弱者である主人公のアーサー・フレックの物語は、あなたにとって決して他人事ではないはずです。
一歩間違えれば誰にでもこのような人生の転落は口を開けて待っているからです。
殺人を犯す主人公に対して、あからさまな嫌悪感が走らずに、多くの場合、感情移入が容易になされるのは、あなたにもいつ起こってもおかしくない、あるいは、大なり小なり彼のような心情を抱え日常を歩んでいるために他ならないからでしょう。
母親をその手で殺めたものに対して、同情よりも、むしろ親近感が勝っていくのであれば、それは彼のカリスマ性に魅了されているために違いありません。
人間関係的にも、経済的にも孤立を強いられているアーサーは、孤独から絶望を経由し「憎悪」へとひた走ります。
言うまでもなく、行き着く先は「正義ではない何か」です。
正義がない
悪の権化であり、悪の化身と呼ばれる「ジョーカー」へと到るプロセスの物語であるにもかかわらず、ここには「悪」が希薄なのです。
少なくとも、私には強烈な「悪」が臭ってはきませんでした。
おそらく、
その理由はこの映画には「正義」が登場しないからだと思われます。
意図的な演出なのでしょう。
正義とコントラストをなさない「悪」は我々の感覚を惑わせ、混乱させ、錯覚に導きます。
アーサーは悪くない。悪いのは社会の方だ。
自分も同じ立場であれば、同じ行為を犯さなかったとは言い切れない。
映画館の観客だろうが、ゴッサムシティの住人であろうが同様の感情がとめどなく湧き上がるはずです。
正義がない演出の理由が、現代社会においては特に、単純に正義などこの世に存在しないからと言えば、言い過ぎになるでしょうか。
出口から入場する人生
象徴的シーンやショットがあちこちに散りばめられている本作の中で、あまりに地味過ぎて見逃してしまう重要なシーンが2つあります。
この2つのシーンはアーサーという人間を端的に表現する知性溢れる演出です。
ひとつ目は、
母親が発作を起こし入院した病院の脇で途方に暮れて座っているアーサーの元へ二人の刑事が訪ねますが、彼らに話すことは何もないと、EXIT(出口)から病院へ入場しようとしたアーサーがガラスの扉に気づかずにぶつかって跳ね返されるシーンです。
この後、病院から外に出る人によって扉は開き、そそくさと病院の中にアーサーは消えていきます。
二つ目は、
母親の情報から自分の父親に違いないと推測した富豪で実業家のトーマス・ウェインに会うために、上流階級のための映画の上映会会場に忍び込み、席を立った彼を追いかけるシーンです。会場を後にする際に、ここでもEXIT(出口)が明瞭に描かれています。
自分の出自である「母親」と「父親」のもとへ行こうとする時に、いずれの場合も「出口」を通過していくこれらのシーンは実に象徴的です。
出口から入場するとは、あらかじめ「どこにもいけないこと」が決定されていることを意味します。
なぜなら、
入場したその扉(場所)が「入口」であるために、その場合「出口」は出口でなくなるためです。
つまり、
この行為によって、出口は消失してしまうことになります。
たとえ、入場してきたところに立ち戻ったとしても、そこは望んでいる「出口」ではありません。
ただ、元の場所に帰ってきたに過ぎないからです。
「母親」と「父親」へと向かう行為は、自分の根源へ、すなわち自分とは何かを問う過程に他なりません。
アーサーは「出口」から入場するがゆえに、彼自身が「はっきりとさせたい出口」には、決してたどり着くことはできはしないです。
実はこの2つのシーンは、アーサーが格差社会における敗者であることも同時に示唆しています。病院においては、出口から入ろうとして、ガラスの扉(見えない壁)に跳ね返されることで明瞭に示されます。一方、ホールにおいては、有力者だらけの鑑賞の場から途中退出をすることで、そこ(上流階級)が彼の場所ではないことがうかがい知れるのです。
ジョークを言う人
ジョーカーとは、辞書的定義に従えば、まさしく「ジョークを言う人」となります。
幼い頃より、母親から「笑顔で人を楽しませなさい」と言われてきた、売れないコメディアンのコメディアンとしての実力は言わぬが花のレベルです。
ピエロ派遣サービスに雇われているアーサーが、大好きな仕事である小児病棟でのワークにおいて、同僚から押しつけられた拳銃を床に落としてしまい、解雇されるエピソードは、悪いジョーク以外の何もでもありません。
ジョーカーと聞いて「ジョークを言う人」以外に「トランプのジョーカー」を思い浮かべる人は少なくないはずです。
ジョーカーはご存知の通り、特殊なカードです。
他のカードとは明らかに違っています。
唯一無二のユニークなカードであると同時に、どんな種類のカードにもなれる、すなわち特徴が全くないカードであるという性質を持ちます。
アーサーは、地下鉄での殺人を契機に社会的不満が爆発寸前であったシティの象徴的存在と化します。
彼が自らの罪を公言するまでは極めて匿名性が高いにもかかわらず、アーサーは悪のヒーローとして唯一無二の存在として世間に認識されています。
ピエロという仮面、メイクを共通項として、貧困層に渦巻くジョーカー的憎悪は街中に増殖していくのです。
ジョーカー的憎悪の蔓延は、アーサーのユニークネスを希薄化します。
言い換えるならば、
ジョーカーはどこにもいないし、どこにでもいるという状態が常態化するのです。
喜劇・コメディアン・笑い
孤独に苛まれ、孤立を深めるアーサーは自身の人生を呪います。
俺の人生は悲劇だ。いや違う喜劇だ。
コメディアンを夢見た男の夢はねじれた形で実現に至ります。
コメディアンとは喜劇の世界に生きる者です。
優れたコメディアンとは、例えば「奴は喜劇の世界でしか生きれない人間だ」と称賛されるような存在であると言えます。
アーサーは自らの人生を「喜劇」であると言い切ります。
人生の主役はアーサーその人であるのだから、彼は紛れもなくコメディアンです。
彼の夢は実現しました。
ある意味、悲劇の方がマシであったかもしれません。
なぜなら、人生の転落を他人のせい(社会のせい)にできただろうからです。
間違いなく、望んでいた形ではない喜劇の主人公として彼は舞台(人生)に立っています。
けれども、
喜劇は喜劇に違いないのです。
この喜劇には「笑顔」が存在しません。
そこにあるのは、
病気による顔面の痙攣ばかりなのです。
笑いとは意味の落差であると言えます。
落差が大きければ大きいほど、人は大きな声で笑います。
意味(世界)とは全く無縁であるアーサーの「笑い」、つまり病的発作が鳴り止むことはこの先、決してないのでしょう。
アーサーは自らの手で母親を殺害します。直接手を下した訳ではありませんが、ピエロの仮面を被った男により擬似父親であるトーマス・ウェインは射殺されます。自らの出自に止めを刺した結果となるアーサーはある意味「自殺」したと言えます。こうして彼がジョーカー(コメディアン)からジョーカー(悪の権化)になりました。エディプス王的状況(運命)がチラチラと重なってきます。アーサー王を容易に連想させる主人公の名前も、おそらく偶然ではないのでしょう。
僕・世界・狂気
狂っているのは僕か、世界か。
アーサーの人生は、この自問に答えるべき旅であったとは言えないでしょうか。
自らの根源である母親と父親へのアプローチをあらかじめ禁じられ、自分を見出すことができません。
自らの憎悪が社会的憎悪へと期せずして変容し、自らのアイデンティは発展的解消に至り、自分がなくなり、透明な存在と化します。
自分をグリップできなくなった者の選択肢はそれほど多くありません。
狂気の世界での「ダンス」もそのうちのひとつでしょう。
おそらく、
彼の根源的な問いは、正しく言い換えられなければなりません。
狂いたいのは僕か、世界(正義)か、と。
紛れもない傑作です。是非劇場に足を運んでみて下さい。
ラストシーンである精神病院の廊下でのアーサーと医療関係者の追っかけあいを引きのカメラで押さえたシーンは、この映画が紛れもなく「喜劇」であることを印象付ける軽妙で心憎い演出です。コメディを撮ってきた監督のテイストが滲み出ています。