煮ても焼いても食えない監督成瀬巳喜男の真骨頂
1954年に公開された本作「山の音」は、ノーベル文学賞を受賞した川端康成の小説「山の音」を原作とする、成瀬巳喜男の代表作のひとつです。
原作が未完のうちに制作されたために、その結末はオリジナル(脚本:水木洋子)となります。
川端の小説は、死の訪れを意識し始めた一人の男が抱え込む、家族、老い、人生に対する複雑な心理が繊細に描かれた、戦後日本文学の最高峰と評される作品です。
以下、本作を観終え考えたことを述べますが、内容に言及しますのであらかじめご了承ください。
ストーリー
会社重役の尾形信吾(山村聰)は、妻の保子(長岡輝子)、長男の修一(上原謙)とその妻菊子(原節子)と四人で鎌倉に暮らしている。子供のいない修一と菊子との間は冷え切っており、夫は愛人の絹子(角梨枝子)のもとに繁く通い、毎晩帰りが遅い。舅の信吾は嫁の菊子を不憫い思い、日頃から気に掛けており、菊子も信吾に対して献身的な態度で接する間柄である。修一の妹の相原房子(中北千枝子)は夫と不仲であるために、度々二人の幼子を連れて実家に戻り、家の中は安穏から遠く、老夫婦の心配は尽きない。そのような日々が過ぎる中、純粋な菊子は妊娠がわかると、外に女がいる夫の子供は産めないと意地を通し堕してしまい、離婚することを決意する。
意識された小津
本作は、映画を構成する要素が似通っているために、同時代の映画監督である巨匠小津安二郎との類似性(特に1949年公開の「晩春」)がたびたび言及されてきました。
実際、観客に小津を意識させるようなセリフやショットが散りばめられており、どの程度意図的な演出であったのかは不明ですが、制作側が小津を意識していたことは否定できないでしょう。
思いつくだけでも、
- 冒頭で、自転車で追いかけてくる原節子の躍動感
- ソフト帽を被り出勤する親子に認められる父と子の相似性
- 父(義父)と娘(義娘)の関係性における男女愛の示唆
- 男女が布団を並べて床に就く後に連続する記号的ショット(「山の音」は庭の観音像、「晩春」は床の間の壺)
加えて、
食事の場面での信吾と菊子が繰り返し口にする「おずれ」という一語に典型的に現れています。
かつて、信吾が水虫のために足の先の痒みを訴えた際に、家政婦が「おずれ」でしょうと答えたエピソードを彼は話し始めます。
家政婦が発した「おずれ」の語が「御ズレ(ズレの丁寧語)」か「緒ズレ(鼻緒のズレ)」、いずれの意味かが不明であったと信吾は回想し、あろうことか菊子(原節子)に発語するように命じ、イントネーションにさしたる違いはないという結論が導き出されます。
容易に想像できるように、これは明らかに、役者に何度もセリフのやり直しをさせる小津の演出方法を揶揄しているものでしょう(繰り返すほどの差異は認められないのだから固執する必要性はないという批判)。
これ以外にも、
ラストシーンでの次の会話は小津の撮影方法に対する皮肉であると受け取れかねないものです。
信吾「のびのびするね」
菊子「ビスタに苦心してあって、奥行きが深く見えるんですって」
信吾「ビスタってなんだ」
菊子「見通し線って言うんですって」
ここでは当然に、菊子の再出発がほのめかされているために、「のびのび」や「見通し」という語が採用されています。
しかしながら、
これは、小津が執拗に拘った奥行きを排したローアングル撮影への当て擦りと取れなくもないのです。
以上、監督の成瀬か、あるいは脚本家の水木か、はたまた「制作側」かの区別はつきませんが、悪意からとは言わないまでも、小津に対抗する意識がフィルムに過剰に反映されていることだけは、おそらく否定はできないでしょう。
不穏当なもの
本作を特徴付けているのは、「不穏当なもの」が突然に映り出されていることにあります。
話の筋の邪魔をするわけではないにもかかわらず、あなたは突然に不安に強襲されることでしょう。
なぜなら、
紛れもなく、スクリーンに亀裂のごとく、不穏当なものが出現するからです。
禍々しさが不意に露呈する、その唐突性は類を見ません。
大輪のひまわり
人の頭よりも大きくなったひまわりは一切の生命感なく描かれています。
太陽の花ではなく、不吉なものの象徴として。
これは、菊子(同じく花の名前を有する)への「想い」が膨れ上がっていることを示しています。
同時に、菊子への執着で頭が一杯に成り果てている信吾の脳味噌の混乱を表しているのでしょう。
二匹の伊勢海老
映画が始まって初めての夕食の食卓にのぼるべく、台所で待機している伊勢海老。
それは、車海老とサザエとともに供される運命にあります。
二匹の伊勢海老が映し出された瞬間の生々しい存在感は圧倒的です。
修一と菊子の夜の営み、及び信吾と菊子の間の親子の情を逸脱しかねない情を的確に体現しています。
巨大な赤ん坊
里帰りした房子の下の子供である赤ん坊の尋常ではない大きさにあなたは目を見張ったはずです。
オシメをしているための膨らみであることを割引いても、その大きさはただ事ではありません。
遠近法を無視したその存在は、子供(赤ちゃん)を持つことの困惑と憂鬱を見事に表現しています。
佇む人
秘書の谷崎英子(杉葉子)に案内を頼み、息子の愛人宅へと信吾は向かいます。
一緒に訪問したくないという彼女の意向に沿い、ひとり妾宅へと向かう信吾のその後方に、路地の四辻に佇む谷崎が遠景のひとつとして映っています。
その非人間的なシルエットは何度見ても息を呑みます。
人間関係における「絶体的な無関心」が強烈に刻印されているのです。
オフィスの能面
仕事中に知り合いから信吾は「能面」の購入を勧められます。
知り合いが秘書の谷崎にちょっと面をつけてくれないかと頼みます。
彼女が面をつけた直後、確実にフィルムは悲鳴を上げます。
能面が本来的に持つ緊張感が一気に解放され、あなたは凍りつくことでしょう。
なぜ、このような「不穏当」が唐突に画面を構成しなければならないのかが、よくかわからないままにあなたはスクリーンから決して目が離せないのです。
並木の整然さ
ラストシーン近く、信吾と菊子が待ち合わせる公園の並木の整然さは一種異様です。
計画的に整備されているゆえに、整然と植えられているに決まっているはずなのに、胸苦しさを覚えずにはいられません。
本シーンは、キャロル・リードの「第三の男」の終幕を彷彿とさせると誰もが口にします。
おそらく、カメラは意識していたに違いないはずなのですが、映し出されているものは全く異なっていると言わざるを得ません。
あの並木の整然さとは菊子の中で胎児とともに確実に何かが「死んでしまった」ことを表しています。
山の音とは
原作において、タイトルの山の音とは、ふと耳にした山からの音に自らの死が近づいていることを信吾が思い知るといった象徴的な意味を帯びています。
しかしながら、
映画の中では、これを連想させる演出は見当たりません。
原作は原作であり、映画とは別物であると言えばそれまでですが、映画における「山の音」を強いて拾い出せば次のように言えるでしょうか。
それは、修一が夫婦の営みを始めるために寝床で妻を呼ぶ声、「菊子、菊子」であると。
実際に鎌倉の川端邸を模して造られたセットの日本家屋の間取りからは、たとえ夜更け近くであったとしても修一の「声」が信吾の耳元に届いたとは想像がし難いです。
しかしながら、夜の深まりと同じ濃度で息子夫婦の動静が寝付きの悪い老人を包囲したことでしょう。
繰り返しますが、演出は信吾の鼓膜に「山の音」を届かせはしません。
「山の音」は信吾の観念の中にあり、彼の頭の中にへばりつく代物なのです。
妻の保子がいるにもかかわらず、毎日の帰宅の際に、背広を脱ぎ、室内着に取りかえる支度を必ず嫁の菊子が担う、このような一連の行動に象徴される、明らかに不自然な関係性(擬似的な夫婦関係)が放置されたまま日常生活は続いていきます。
長年連れ添った妻の保子の死んだ美しい姉の幻影を菊子に重ねる信吾の目には、義理の娘に対する以上の「情」が否定し難く宿っていたはずです。
「情」が性的な方へ傾けば傾くほど、あり得たかもしれない違った人生が彼の頭の中を占拠します。
映画の冒頭での、菊子に対して信吾が口にする「脳味噌を洗い、修理したい」というたわいもない「おしゃべり」は単なる雑談の一環ではありません。
そうではなく、死がひたひたと迫ってきている男であるからこその生への執着の吐露であり、若さの象徴である菊子の磁力からの逃走の悲鳴に他なりません。
長男の愛情のなさを補完するために、優しく接しているだけだと主張し、思い込もうとする彼の態度は、彼の家族である、妻、長男、長女の全員からその「真意」を見透かされています。
かつてひとり会いに行った先で、息子の同意なく子供を産み育てることの愛人の決意を聞かされ、信吾は思わずそれは不自然であると口にしてしまいます。
そのような道徳観を持つ旧い男は、潔癖を貫くために息子の子供を堕した菊子を不自然であると非難する言葉を持ち得ません。
彼は二度と取り戻すことのできない自らの人生の可能性を菊子との関係に求める「不自然」な行為を終わらせようとします。
息子との離婚の決意に賛意を示し、自分たち老夫婦は生まれ故郷の信州に戻る意志を固めるのです。
「山の音」をこれから先、信吾は二度と耳にすることはありません。
家族の「解散」と若き日の幻影との永遠の別離によって。
彼は決して何かを諦めたわけではなく、一回きりの人生を死期の訪れを前にようやくに引き受けることができたのです。

