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「夜の香り」古井由吉の柔らかい肌のような文体のヌメリ

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誰にも似ていない言葉の連なりを我々は今後も存分に堪能する権利がある

小説家でありドイツ文学研究者でもある古井由吉氏が本年2月に亡くなられました。

オーストリアの小説家、ロベルト・ムージルの研究者・翻訳者としても著名な方でした。

古井の50年余りのその文学的キャリアを踏破することは一筋縄ではいきません。作品は老境に向かってある意味、ますます研ぎ澄まされていったと言えるでしょう。

彼の名が口にされるとき、純文学の巨星や極北という冠が直ちに思い浮かべられます。

けれども、純文学というジャンルが今もなお生きているのか否か、意味をなすのか否かと疑われる今日的状況においては、世界文学と言い直す方がより適切であるに違いありません。

1978年に出版された短編集「夜の香り」のなかの表題作である本作には、古井文学の主題が比較的わかりやすく凝縮されています。

彼の主題とは、いうまでもなく、「死とエロス」となります。

言葉にすると、陳腐の匂いが漂うこの主題をエレガントに作品に昇華させうる力量は唯一無比です。

聖と俗が食い合うような古井の紡ぐ言葉のうねりは読者であるあなたを内側から食い破り続けます。

古井文学を成立させるその文体の特異さは、一読瞭然である、どこまでも滑り落ちていき艶を帯びた言葉の多産的な連なりにあります。

滑り落ちながらも、ヌメリを持つその文章に取り込まれない読者は皆無であるでしょう。

例えば、次のような文章にあなたも抗い難く魅了されるはずです。

ありがたいわ、こんなに気を使ってもらって、と静子は皮肉ともなくつぶやいて、それから、あなたと暮らすことに踏み切ったきっかけは何だったと思う、と妙なことを言い出した。誰もいない、葛ばっかり茂った野原で、ざらざらの肌をして、風に吹かれている夢を見て、いっそ心地良いと思ったの、でも悪阻でこんなに苦しむとは・・・・と言ったかと思うと、台所へ駆け込んでナガシにしがみつき、水道の蛇口を開きっぱなしにして吐いた。

詩人萩原朔太郎が持する妖しさを想起させる字面の淫靡さがそこかしこに顔を出しています。

私的には、日本語を駆使する作家のうち、誰にも似ていない者を3人挙げろと言われれば、そのうちのひとりに古井由吉を加えます。

残りの二人は、武田泰淳と石川淳を数え上げます。

以下、「夜の香り」における「香り」について考えたことを少しばかり記します。

内容に言及しますのであらかじめご了承ください。




肩透かしを食らわすタイトル

「夜の香り」というタイトルは、一見するとエレガントでどこか高尚なイメージ溢れるタイトルです。

しかしながら、その実態は全く異なります。

夜更けに天婦羅を揚げる家がある。

小説の冒頭で書かれているように、タイトルは第一に「天ぷらのニオイ」を指します。

いわゆる生活臭です。

夜の11時ごろに毎晩、天ぷらを揚げるニオイが漂ってくるのです。

タネはいつもイカで、油のほうも匂いからするとあまり上等なのは使っていない。

人を食った冒頭からのギャップがあなたを一気に小説世界に引きずり込むでしょう。




迷惑な夜のニオイ

天ぷらを揚げるのは、最近アパートの近くに引っ越してきた老若7人と赤ん坊1人からなる一家です。

下町で衣料品店を営む商人一家は、一時の仮住まいとして、郊外のこの地に借家暮らしを始め、毎晩、店じまい後の遅い夕食に天ぷらを揚げます。

働けば働いた分だけ儲かるので、一日六時間足らずの熟睡で活き活きとしている。

向かいのアパートの住人たちは、毎晩夜遅くに漂ってくる「香り」に辟易し、迷惑します。

主人公である葛原夫婦も悩まされます。

特に妻の静子は妊娠中で、ツワリが酷いこともあり、時折ヒステリックになります。

語り口のうまさとスムーズな物語展開・構成は良質な落語を聞いているかのようです。本作はどこかの落語家が演目として再構成し、演じてほしいぐらいの傑作です。

もうひとつの夜の香り

この物語は、アパートの住人の独り者であり変わり者でもある大倉という男を軸として中盤以降展開していきます。

なし崩しに居座る形でアパートの一室を占拠し、住み続けるこの男はアパートの住人である奥さん連中と微妙な距離感でその存在感を増していきます。

口の減らない大倉が本格的に天婦羅のニオイにクレームを付け出した矢先に、彼は交通事故であっけなく亡くなります。

同じ工事現場で働いていたことが縁で、同姓の大倉という別の男が通夜をアパート内で取り仕切ることになり、翌朝、彼が去っていくところでこの物語は終わります。

夜の香りとは、まず第一にこの夜中に揚げられる天婦羅のニオイを意味しました。

しかしながら、これだけではありません。

もうひとつの夜の香りとは、大倉の通夜の時の「線香の匂い」です。

言われてみれば線香の匂い、六人が二度づつくべた香の匂い、そしてその女たちの熟れた匂いが部屋の中にひとつに淀んで、頭が痛くなりそうだった。

線香の煙りとは、死者と生者を橋渡す、幻の回廊であるのです。

生と死の香り

逞ましい労働者の活力、生活者の生命力の体現としての匂いが「天婦羅のニオイ」であるのならば、どこの馬の骨ともわからない者の魂を鎮めるために儀礼的に集まった人たちの関係の希薄さを象徴するのが「線香の匂い」となります。

夜に潜む、生の香りと死の香りが、異なる二つの匂いにより象徴的に描かれているのです。

「夜」とは、死(静寂・暗闇)ばかりではなく、生(生殖・生命)の時間でもあることを表します。

階段を昇り部屋に入るそのまぎわ、こちらを見ずに大きな独り言で、ゆうべは皆さんそろっておしあわせでした、どうして一斉に始まるのかな、誰が誰だか、よくもわからなくならないもんだな、とつぶやいて消える。しかし女たちは互いに聞こえなかった顔で話をつづけるだけだという。

生と死とは分かち難く、混然一体であるほかない様を古井は「香り」という一言で端的に読者の前に明示します。

比喩としての香り

古井は文中で「夜の香り」という語句を直接的に二度ばかり使います。

玄関のほうもあけると燈明が揺いで、空気がようやく動き出し、初冬の夜の香りが流れこんできた。遠くで踏切りの警報機が鳴り出し、しゅるしゅると電車の音が近づいた。どこかでこの時刻に、地に杭を打つ工事の音がした。

一段と冷え込んだ夜の香りに、居ても立っても居られないような淋しさを覚えた。この辺りでもいまどき薪や炭を使う家などありはしないのに、この季節になると薪の香りや炭火の香りが夜の空気に漂ってくるから不思議なものだ。

ここで触れられているのは、先に言及した何かを象徴する実際的なニオイとは異なる「匂い」です。

すなわち、比喩としての「匂い」に他なりません。

古井がイメージする夜の香りは、冬の冷たい夜に生起するものです。

清々しく、濁っていなく、透き通った時空に漂う何かなのでしょう。

それは、あるはずもない何かを視せたり、想像させたりする力を有しています。

生の臨界に人知れず近づいてしまった時に漂う死の粒子を含んだ香りに違いありません。

静的な(性的な)横溢

真似事のような通夜の夜の描写に、古井の性的表現は鮮やかさを増します。

「参列すること」や「ものを口にする」行為を通じて、これほどまでに静的に性的なもの(エロス)の輪郭を切り出す作家は、ほんの数えるほどにしかいないはずです。

「さっ、皆さん、お入りください」と大倉のひと声とともに、黒っぽい身なりの女たちが、女ばかりが、つかのま少女めいた気遅れの笑みを浮かべ、それぞれ水落ちのあたりに湯呑みを大事そうに両手で支えながら、そこは一家の主婦らしく祭壇と葛原たちに向かってあでやかに頭を下げ、次々に台所へ上がってきた。

しかたなしに女たちは今夜に限ってよく開かぬ唇に鮨を指先ですこしずつ押し込むようにして食べはじめた。棺を前にして、もそもそとつらそうに口を動かす音ばかりが、しばらくつづいた。

宗教的儀式が隠しても隠し切れない猥雑さが音もなく漏れ出ているのです。

もう一人の作家を思い出さないでしょうか

古井文学の主題である「死とエロス」は文学の王道であり、多くの作家が同様に主題化しています。

直ちに思い出されるのは、村上春樹氏です。

古井を村上から読んだり、村上を古井から読むという批評にはあまりお目にかかりません。

しかしながら、そのテーマ性の類似とともに、登場する女性の造形は非常に近いと言えるでしょう。

時として精神の病を抱え、非常に聡明で、ミステリアスな存在。

本作の静子が名前を変えて、村上作品に登場していても何らの違和感をあなたも覚えないでしょう。

傑作です。機会があれば是非手にとってみてはいかがでしょうか。

映画監督であれば、本作を原作として映画を撮ってみたい誘惑に誰もが駆られるはずです。本作が有するユーモアを表現する困難に立ち向かう作り手の登場を願ってやみません。

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