義父について語る
11月のはじめに義父が亡くなりました。
死因は病気だったのですが、老衰に近い形であったと思います。
苦しまず、かつ自宅で家族に看取られ、旅立っていきました。
以下、義父との思い出のことだけを書きます。あらかじめご了承ください。
出会いから二十年余り
出会いは二十年以上前にさかのぼります。
結婚する前のお正月に自宅を訪ねたのが始めての出会いとなりました。
以来、わたしたち夫婦の住まいが近いこともあり、よく行き来をしました。
昭和という人柄
見た目は、下町のおやじそのものです。
実際、下町に住んでいたのですが。
下駄履きが多かった。帽子もよくかぶっていました。
パチンコが好きでプロ野球好き。競馬も少々。歴史が大好き。
同世代の多くの日本人男性がそうであったように、典型的な趣味趣向です。
お酒は飲めません。
タバコはよく喫っていました。
家事はほとんどといっていいほどしません。
辛い物好き。ソースだばだば、胡椒どっさりの、わさび山盛り。
肩の力の抜けた、ある意味わがままな生き方でした。
同世代の日本人の男性のフツーであったのかもしれません。
幾分うらやましく思うときもありました。
近しい距離感
わたしに対しては、気難しいところはほとんどありませんでした。
わたしはといえば、昔から気難しいところがあると近しいものからよくいわれていたタイプ。
なので、そのような人間がナチュラルに接することができたのだから、懐が深かったのでしょう。
気を使ったりしたことも、ほとんどなかったと記憶します。
こちらが図々しいだけなのかもしれませんね。
今更ながらに反省しています。
権威ぶらず、卑屈でもない
わたしは、距離感ぎりぎりのいじりや冗談を義父に対してしばしば行なってきました。
一度たりとも逆鱗に触れたことも、顔を真っ赤にされたこともありませんでした。
この意味からも、高いところからわたしを見てくれていたのだと思ったりもしています。
なによりも、わたしの子供の面倒をよくみてくれました。
ありがたいです。
孫だから当たり前といえばいえるかもしれません。
そういうことだけでもないのでしょう。
ある晴れた日の秋の思い出
たくさんの思い出があります。
とりわけ印象に残っているのは、筑波山近くの果樹園にいった時のことです。
特になにかあったということでもないのですが。
けれども、時々あのころの光景が頭に浮かんでは消えます。
とても暖かい時間を過ごしたという記憶が時折顔を出し、また消えていきます。
不在、欠落、空白
わたしは幸いにも、いままで近しい人間を失ったことがありません。
今回がはじめてとなりました。
いい年になったのだから、近い将来、実父母との別れが来るでしょう。
覚悟の準備はしています。
年を取るとはそういうことであり、年長から順にこの世を去っていくのはごく自然なことです。
なくなったものは二度と取り戻せないし、なにかで埋めることもできはしません。
だからといって、毎日毎日引きづりまわされることもないのです。
ただ、ゆっくりとゆっくりと、不在に慣れていくだけ。
それが喪という行為なのであるのでしょう。
いまは、悲しいと寂しいの間の悲しい寄りの位置にいます。
天国でも寝そべって、ずっとテレビを見ているんだろうなぁ。
大きな声で言います。
あなたに会えてよかった。
本当にありがとうございました。