「ねじまき鳥クロニクル」からこぼれ落ちたストーリー
バブル経済がピークをすぎた1992年に発表された本作は、傑作長編「ねじまき鳥クロニクル」の初稿から削られた部分が基となり、加筆再構成された村上春樹氏の小説です。
タイトルに含まれる「国境の南」とは、本文中に言及されている、ナット・キング・コールが歌う「国境の南」から採用されたものでしょう。
不倫を中心とした物語展開であるため、村上の他の作品と比較し、人気は相対的に低いようです。
一見すると身勝手な男の都合ばかりが鼻につく小説と理解されがちなこの小説の主題は「悪」と言えます。
もちろん、浮気における背徳性などとは異なるものです。
以下、内容に言及しますので、あらかじめご了承ください。
ストーリー
平凡な人物として描かれる、始(はじめ)という名の主人公は、妻(有紀子)と二人の娘を持ちながら、偶然再会した幼なじみである島本さんという女性にあらためて惹かれていきます。
義父の経済的な援助を背景に、悪くない成功(都内で2軒のジャズバーを経営)を収め、安定的な生活を送っているにも関わらず、島本さんと人生をやり直すことを決意します。しかしながら、逃避行の最中、彼の前から彼女は忽然と姿を消します。
始は、高校時代のガールフレンドであったイズミを手ひどく裏切った経験をもちながら、今回も、かつて他の男によって傷つけられた過去に苦しむ妻を裏切ってしまいます。
裏切った始と裏切られた妻は、どこにも行けない閉塞感のなかで、あらためて生活を始動しようと試みるところで、物語は閉じられます。
以上の雑駁な要約の通り、金に余裕のできた四十前の男が浮気による精神的代償を支払うという通俗的な体裁をこの小説はとっています。
その口当たりのよさのわりには、小説世界を咀嚼することはそれほど簡単ではなさそうです。
主題としての喪失
村上作品の読者にはおなじみである主題が、この小説においても底に流れています。
「喪失」
何かに追われているのはあなただけではないのよ。何かを捨てたり、何かを失ったりしているのはあなただけじゃないのよ。私の言っていることはわかる?
「ねじまき鳥クロニクル」の初稿の一部であったぐらいですから、「愛する人が忽然と姿を消す」というシチュエーションは反復されています。
突然、目の前から消え、二度と現れはしません。
消失と喪失が、繰り返し小説内で奏でられます。
人生のノスタルジアを象徴し代表する「島本さん」や「思い出のレコード」を決して見つけ出すことができないのです。
多くのファンと評価を獲得している「ねじまき鳥クロニクル」の主題は「喪失と根源的な悪」です。
それは本作「国境の南、太陽の西」においても変わりません。
後ほど触れますが、ただ少しばかり「見せ方」が異なるだけなのでしょう。
タイトルの「国境の南、太陽の西」とは「理想郷」と「あの世」のメタファーです。つまり「どこにもない(どこかにある)場所」であり、けれどもリアリティを日常にもたらす「場所」と言えるでしょう。
村上は、「たぶん」のあるなしで、この場所を定義づけます。「国境の南」には「たぶん」は存在するかもしれないが、「太陽の西」には「たぶん」は存在しないと断言します。「たぶん」とは希望であり可能性の別の名です。
このような視点に立つと、島本さんは「幽霊」であり、イズミは「幽霊への移行期間(中間体)」となります。ここで言う「幽霊」とは、人間の容姿を持つ「非人間的な存在」を指します。
実存的飢餓感
主人公は、関係した二人の女性を酷く傷つけます。
「あなたはたしかに身勝手な人間だし、ろくでもない人間だし、間違いなく私のことを傷つけた」
その二人とは、妻の有紀子とガールフレンドだったイズミとなります。
始は、イズミに隠れてイズミの従姉と肉体関係を持ち続けます。
そこには段階もなければ、手順もなかった。僕はそこに提示されたものをただ単純に貪っただけだったし、彼女の方もおそらく同じだった。
そのことによって、イズミを裏切り、イズミは損なわれてしまいます。彼女にあった健康的な魅力(生命感)は消え去ってしまいました。
彼女はまばたきをしないまま生きていた。その音のない、ガラス窓の奥の世界に彼女は生きていた。
彼がこのような行為(過ち)を繰り返すには理由があります。
自らの意志では制御できない「なにか」に支配されるからです。
そしてそれはこの僕の中に住んでいる。それは僕が自分の力で選んだり、回答を出したりすることのできないものなんだ
村上はいくつかの小説のなかで、「抗い難いなにか」を繰り返し取り上げます。
本作の表現で言えば「吸引力」と呼ばれるそれは「度し難いまでの肉欲」となります。
大事だったのは、自分が今、何かに激しく巻き込まれていて、その何かの中には僕にとって重要なものが含まれているはずだ、と言うことだった。
別の作品である「パン屋再襲撃」では、「底無しの食欲」として描かれ、実存を揺さぶる「衝動」のようなものです。
目を覚ましてしばらくすると、『オズの魔法使い』にでてくる竜巻のように空腹感が襲いかかってきた。それは理不尽と言っていいほどの圧倒的な空腹感だった。
「パン屋再襲撃」
動物としての生理的欲求という形を借りて繰り返し描写される「抗い難いなにか」とは、「実存的飢餓感」と言い換えられるでしょう。
存在が存在する限り、決して充たされることのない「渇き」のようなものです。
自らの内側から湧き上がってくるにもかかわらず、自分自身の意志とはまるで無関係な代物。
僕の中にはどこまでも同じ致命的な欠落があって、その欠落は僕に激しい飢えと渇きをもたらしたんだ。僕はずっとその飢えと渇きに苛まれてきたし、おそらくこれからも同じように苛まれていくだろうと思う。ある意味においては、その欠落そのものが僕自身だからだよ。
「渇き」は唐突に、突然に強襲し、自身は常に「受動的」な立場を強いられてしまいます。
絶対的な受動性です。
覆いかぶされ、首根っこを押さえつけられたまま、自由がきかないのです。
悪の陳腐さ
「ねじまき鳥クロニクル」の初稿から枝分かれした「ねじまき鳥クロニクル」と「国境の南、太陽の西」は、同根であるがゆえに、共通の主題を持ちえます。
「喪失と根源的な悪」です。
同じことですが「喪失をもたらす根源的な悪」です。
「ねじまき鳥クロニクル」の中では、戦争というフィルターを村上は用意し、「根源的な悪」は的確に読者の前に差し出されました。
しかしながら、「国境の南、太陽の西」においては、「根源的な悪」はドラマティックに描くことが放棄されています。
むしろ、より一般化、矮小化された表現が故意に採択されているように思われるのです。
理由は不明です。
見通しを良くするために、一冊の書物をここで補助線として使用する試みをします。
哲学者ハンナ・アーレントの問題作である「イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」です。
ナチの中心人物のひとりであるオットー・アドルフ・アイヒマンは、1960年5月ブエノス・アイレス近郊で逮捕され、1961年4月にエルサレムで裁判にかけられます。
ユダヤ人哲学者の手によって書き記された裁判に関する報告内容は、発表後、未曾有の物議をかもすこととなります。
人類史上類を見ない虐殺行為は、凶悪な非人間的な所業ではなく、凡庸で陳腐な悪によって極めてシステマテックに行われたと彼女は結論づけます。
つまり、原理的には、あなたも「アイヒマン」であったかもしれないとの問題提起を突き付けたのです。
アイヒマンは「能吏」ではあっても、「極悪人」ではないとする彼女の考察は、多くの人にとって生理的にも倫理的にも認め難い結論でありました。
時代が下り、世の中はようやく彼女の論考を冷静に受け止めることができるようになります。
「悪」に対するハーレントの優れた省察は、次の言葉に集約されています。
悪とは、システムを無批判に受け入れることである。
「ねじまき鳥クロニクル」で正面から主題化されている「システムの問題」にはここでは触れる余裕がありません。
注目したいのは、「受け入れること」、すなわち、悪の本質は「受動的である」という見解です。
受動的であるからと言って、「悪性」が免罪されるわけではありません。
以下、これ以上は議論を広げることを差し控え、「受動性」に絞って話を進めていきます。
悪意なき悪
始は言います。
その体験から僕が体得したのは、
「国境の南、太陽の西」
たったひとつの基本的な事実でしかなかった。
それは、僕という人間が
究極的には悪をなし得る人間であるという事実だった。
僕は誰かに対して悪をなそうと考えたようなことは一度もなかった。
でも動機や思いがどうであれ、
僕は必要に応じて身勝手になり、残酷になる事ができた。
僕は本当に大事にしなくてはいけないはずの相手さえも、
もっともらしい理由をつけてとりかえしがつかないくらい
決定的に傷つけてしまうことのできる人間だった。
ここで描かれているのは、弁明や諦め、支離滅裂ではもちろんありません。
ある意味、システム(自己というシステム)に殉じる宣誓であり、まるでアイヒマンの陳述のようです。
「僕」が「僕」のことを書いているにもかかわらず、ここには「僕=主体性」だけが消散しています。
では、なにが描かれているのでしょうか。
悪意が欠落した悪です。
誰かに対して悪をなそうと一度たりとも考えたことがないにもかかわらず、本当に大事にしなければならない相手に対しても、決定的に傷つけてしまうことができるのは、彼が極悪非道な人非人であるからではもちろんありません。
始は平凡で凡庸などこにでもいる人間にすぎないのです。
彼が非道徳的で非倫理的な行為に至るのは、彼が「抗い難いなにか」に突き動かされてしまうからに他なりません。
それこそが「実存的飢餓感」と呼びうるものなのでしょう。
僕の中にはどこまでも同じ致命的な欠落があって、その欠落は僕に激しい飢えと渇きをもたらしたんだ。僕はずっとその飢えと渇きに苛まれてきたし、おそらくこれからも同じように苛まれていくだろうと思う。ある意味においては、その欠落そのものが僕自身だからだよ。
悪意がないからといって、悪が正当化されたり、情状酌量が成立するわけではもちろんありません。
人の本性は悪なのかそうでないのかを村上がここで正面から取り扱っているわけでもありません。
この物語で村上が強調した点は次の3つとなります。
- 「悪」は受動的な形をとって現れる。
- それは個人(実存)にとって、避けることのできない困難として現れる。
- それは暴力性と唐突性を伴い現れる。
誰かを損ない、自分を損なっている。僕はそんなことをしたくてやっているんじゃない。でもそうしないわけにはいかないんだ
「ねじまき鳥クロニクル」において「悪」は「システム問題」に引き付けながら全体的な視点に立ち論じられていますが、本作では、個人の内在性によりフォーカスされて描かれています。
突然に現れるものは突然に消え去る
突然にやってくるものは、突然に(忽然と)消え去ります。
もうお分かりのように、それは同じものの別の形相であり表出です。
不思議でもなんでもなく、突然に現れたものは突然に消え去ります。
それにもかかわらず、彼女は僕をあとに残して、ひとことの説明もなく一人でどこかに去っていってしまった。島本さんは僕にくれると言っていたレコードまで一緒に持っていってしまったのだ。
消え去った後に、状況は一変します。
自分自身を含めて。
鏡の前に立つと、自分の体が変化していく様を目にすることができた。
以前とまったく同じように見えながら、まったく異なる世界が眼前に広がります。
突然に消えたからといって、実存的飢餓感から解放されることは決してないのでしょう。
なぜなら、
あなた(実存)である限り、実存的飢餓感(あなた)は生き続けるのだから。
僕には君に、何も約束することができないんだ。僕の言う資格とはそういうことだよ。僕はその力に打ち勝てるという自信がどうしても持てないんだ
無責任で非道徳的な客体化は自らを「生きる資格」と切り離し、引き受けるべき「倫理性」をも同時に投げ捨てようとします。
それは、心臓が動く限り繰り返されるであろう「悪意なき悪」に他なりません。
そう、あなた(僕)こそが「主体性なき主体」に違いあるまい。
この小説の終わりは次の通りです。「誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた。」「誰かが」の「誰」を登場人物のうちの「誰」に想定するかによって、この小説の性格は異なってしまいます。
妻の有紀子であれば、再生の物語となり、そこに救いが兆します。島本さんやイズミであれば、冥府の物語となり、精神の迷宮が色濃く反映します。僕自身であるのならば、成長譚であり、自己成長が認められるに違いありません。

