1980年の偉大なる芥川賞落選作
1980年に発表された本作は、現在も多くのファンを増やし続けている小説です。
一般的には「鼠三部作」と呼ばれカテゴライズされる初期作品群の二作目に位置する村上春樹氏のこの小説は、処女作同様に芥川賞の候補となりますが、残念ながら落選となります。
「風の歌を聴け」
「1973年のピンボール」
「羊をめぐる冒険」
当時の芥川賞の選考委員は次の10名です(敬称略)。
井上靖、開高健、丹羽文雄、安岡章太郎、瀧井孝作、中村光夫、遠藤周作、丸谷才一、吉行淳之介、大江健三郎
村上を推さない評者の論評は、浅薄な風俗が描かれているだけ、アメリカ文学(翻訳小説)の影響が過ぎる、感性が空回りしているなどが代表的なものとなります。
文学賞の選評とは、己の文学観の吐露と等しいものですが、「新しい才能」の発掘を標榜する文学賞でありながら、この結果を振り返るとき、選考者たちの多くが持ち得る文学的感性はいささか「みずみずしさ」を欠いたものと言わざるを得ないでしょう。
メンバーの中で、好意的なコメントを残しているのは、丸谷才一、吉行淳之介、大江健三郎の三名となります(偶然でしょうが三名とも東大出身)。
丸谷がジョイスの翻訳者であり、大江が仏文出身でノーベル文学賞受賞歴があり、吉行がモダニズムの詩人を父に持ち、雑誌社勤務時代に澁澤龍彦の同僚であったという事実をみるならば、村上の作品がそのスタートから「日本文学」ではなく「世界文学」の底流に触れていたことが理解できるはずです。
以下、内容に言及しますので、あらかじめご了承ください。
始原のごとき小説
この中編は、それから先に展開されるいくつもの村上作品の源流であるような作品であると言えます。
「僕」と「鼠」が交互に章立てされる小説の進行形式とその構造は、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」において完成形へと至ります。
小説中に唯一の具体名を持つ「直子」は「ノルウェイの森」で準主役(ヒロイン)を務めることとなります。
「井戸」へのこだわりは、やがて「ねじまき鳥クロニクル」の中で主題化されます。
このように、村上作品を論じる場合、非常に重要なポジションにある小説であると言えるでしょう。
主題は、自己に他ならない
その当時、意匠の新しさに目を奪われ、正当とは言いかねる評価を下された本作の主題は「自己」です。
日本文学に限らず、文学が散々に取り扱ってきた手垢のついたテーマに他なりません。
ゆえに、文学的な深みに欠けるや、表層的な世俗趣味に走るといった評価は見当違いと言い得ます。
主題が「自己」であることは冒頭に明瞭に示されています。
見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった。一時期、十年も昔のことだが、手あたり次第にまわりの人間をつかまえては生まれ故郷や育った土地の話を聞いてまわったことがある。
「あなたはどんな人ですか」という本質的な問いにうまく答えることができる人は限られています。
しかしながら、生まれ育った土地の話であれば、格段にハードルは下がります。
なぜなら、それは客観的な事実であると考え、自分の内面とはちっとも関係ないと無防備に信じられるからです。
むしろ、自分の内面を積極的に隠せるがゆえに、「故郷」を溢れんばかりの言葉を用いて語ることでしょう。
自分の生まれ育った土地とは自分を形成した重要な要素であり、それを他人に伝える場合、必ずそこには主観的なフィルター(切り取り方)が存在します。
つまり、生まれ育った土地を語るとは自分自身を語ることと地続きなのです。
彼らはふるさとの風光を語りながら、その実、心象風景を吐露しているに過ぎません。
端的な例として、村上は土星と金星が故郷である人物を用意します。
「わからないね。多分生まれた星だからだろう。そ、そういうもんさ。俺だって大学を出たら土星に帰る。そして、り、立派な国を作る。か、か、革命だ。
自称土星生まれのこの男が語っているのは、言うまでもなく、「郷土」ではなく、剥き出しの自己自身に他なりません。
双子が象徴するもの
目を覚ました時、両脇に双子の女の子がいた。
名前を持たない双子の女の子は、名前をつけようとする「僕」の提案に対して、どうしてもつけたければつけるがいいと言わんばかりに、矢継ぎ早にいくつもの案を口にします。
「右と左」「縦と横」「上と下」「表と裏」「東と西」
お互いの特徴をお互いが担保している関係性を示す対語ばかりが並び立てられます。
ここで示されているのは、現代社会における匿名性や無名性、そして代替可能性であるのでしょう。
「オーケー、じゃあこうしよう」と僕は言った。「君を208と呼ぶ。君は209。それで区別できる」僕は二人を順番に指した。「無駄よ」と一人が言った。「何故?」二人は黙ってシャツを脱ぎ、それを交換して頭からすっぽりかぶった。「私は208」と209が言った。「私が209」と208が言った。
双子が象徴するのは、自己の不確実性であり、それを生の条件として生きる個の個別性です。
入口と出口
双子が例示した名前の案に加えて、「僕」も次のような提案をします。
「入口と出口」僕は負けないように辛うじてそう付け加えた。
「入口と出口」に対して、主人公の「僕」は次のような考えを持っています。
入口があって出口がある。大抵のものはそんな風にできている。郵便ポスト、電気掃除機、動物園、ソースさし。もちろんそうでないものもある。例えば鼠取り。
かつてアパートの流し台の下に取り付けた鼠取りに引っかかった鼠の死から、彼は次のような人生観を形成します。
彼の姿は僕にひとつの教訓を残してくれた。物事には必ず入口と出口がなくてはならない。そういうことだ。
双子が象徴するものの観点に立つならば、「入口と出口」という対語で表現されるものも、自己の不確実性となります。
既にお分かりのように、入口があって出口のない「鼠取り」とその犠牲者である若い鼠は、「僕」の友人である「鼠」を直接的に指しています。
行き止まりに佇む「鼠」は散々逡巡した挙句に街を一旦離れる決意をします。
けれども、街を離れたからといって、どこにもたどり着けないことは彼自身が心底わかっています。
何故だ?と鼠は自分に問いかけてみる。わからない。良い質問だが答えがない。良い質問にはいつも答えがない。
言うまでもなく「答えのない質問」は「出口のない入口」の反復であり、変奏です。
八方塞がりで救いのない自己のあがきが「鼠」のエピソードを通して描かれています。
ところで、
「僕」の「入口と出口」はどのように描かれているのでしょうか。
ピンボールという名の自己
僕が本当にピンボールの呪術の世界に入り込んだのは一九七〇年の冬のことだった。
神経衰弱者のように自閉する「僕」は、半年の間、外界に一切の興味を示さず、夕方になるとコートを着込み、ゲームセンターへと向かいます。
彼女は素晴らしかった。3フリッパーの「スペースシップ」・・・・、僕だけが彼女を理解し、彼女だけが僕を理解した。
ここで描かれているのは、ある種の双似性であると同時に、自己同一的な完結性に他なりません。
「僕」はピンボールであり、ピンボールが「僕」であることが寸分の狂いもなく表現されています。
僕は一ミリの狂いもない位置にプランジャーを引き、キラキラと光る銀色のボールをレーンからフィールドにはじき出す。
入口は出口であり、その逆でもある
「僕」は自分の目の前から消えた「スペースシップ」を探し出し、「彼女」と巨大な倉庫の中で再会を果たします。
冷えすぎる場所で、自己対話が展開されるのです。
君のことはよく考えるよ、と僕は言う。そしておそろしく惨めな気持ちになる。眠れない夜に?そう、眠らない夜に、と僕は繰り返す。
自己確認・了解と見紛える会話が進んでいきます。
次のやりとりには、いかにも小説的な技巧が施されながら、「僕」が「ピンボール」に他ならないことがほのめかされています。
ゲームはやらないの?と彼女が訊ねる。
やらない、と僕は答える。
何故?
165000、というのが僕のベスト・スコアだった。
覚えてる?
覚えてるわ。私のベスト・スコアでもあったんだもの。
それを汚したくないんだ、と僕はいう。
「私のベスト・スコア」という文章における「私」を文字通り「自分」と解釈する余地を残すことが村上の文学的感性です。
本文中に引用されるピンボール研究書「ボーナス・ライト」(おそらく村上の創作)において、ピンボールは次のように描写されています。
しかしピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試合)のランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ・・・・、まるでピンボール・ゲームそのものがある永劫性を目指しているようにさえ思える。
ここには、自己同一性それ自体が的確に述べられています。
「僕」の自己、すなわち「入口と出口」において、「出口」は確かに存在します。
そこがデットエンドであった「鼠」との差異です。
しかしながら、その「出口」は「入口」へと媒介されています。
「出口」は「入口」であり「入口」が「出口」であるのです。
無限の反復、すなわち永劫性が、ピンボールにおいては「リプレイ」という一語で表現されています。
「ピンボール」について書かれた小説
これはピンボールについての小説です。
村上は初めから宣言しています。
この物語は、ピンボール、すなわち「自己」に関する小説である、と。
いや、と僕は首を振った。無から生じたものがもとの場所に戻った、それだけのことさ。
「人(自分)は何処から来て何処に行くのか」という問いかけは、「自分(自己)とは何か」と問うことと同義です。
優れた洞察が「自己」を凝視したとき、おそらくこの小説が誕生したに違いありません。