昭和文学を代表する一番好きな小説
これまでに読んだ小説のなかでどれが一番良かった(印象に残った)と聞かれるたびに、
私は決まって武田泰淳の『富士』を挙げていました。
物語に没入する楽しみを本当に堪能できる小説です。
よくよく考えてみると二十数年以上もそれを凌駕する書物に出遭っていない勘定になってしまいます。
が、もちろんそんなことはありません。
ものぐさや記憶力の悪さとは別に、なぜかそう答えてしまうのです。
不思議なものです
時々、もう一度読み返してみたいに衝動に駆られます。
戦後文学の高峰
東大で支那文学を、そして終戦を上海でむかえた、もと赤(左翼運動家)で、坊主。
日本人離れという言辞が、世界水準からみてどのようなポテンシャルであるのかそんなことはこの際どうでもいいです。
次から次に発表するその小説、
『快楽』が、『蝮のすえ』が、『風媒花』が、『森と湖のまつり』が、『ひかりごけ』が、『貴族の階段』が、『わが子キリスト』が、度し難く島国離れしているのです。
戦後の日本(昭和)文学は″ラディカル(根底的)″であり、誰にも似ていませんでした。
その圧倒的な豊穣さのどてっぱらに常時君臨していたのが、この特異で掴みどころのない知性です。
泰淳を知らない?
読んだことがない?!
それはそれは、本当にご愁傷様としか謂いようがありません。
教えてください。
あなたは一体全体なにを読んできたのでしょうか。
もしかして眠っていたのでしょうか。
目を覚まし、顔を上げ、顎を引き、そして見るべきです。
鈍器としての文学
泰淳は、著書「司馬遷」の中で次のように云います。
生きているのがはずかしいという苦しみは、もう致命的で自分も他人もどうする事も出来ない。このどうする事も出来ない苦しみにとりつかれると、人は時たま徹底的に大きな事を考えたくなるらしい。
大きなことを考え続けたその先に、「富士」があったのです。
言葉とは鈍器。
昏倒し野晒しのまま人は朽ち果て、歴史に踏み躙られるしかありません。
不二
それは精神病院を舞台とする、自意識から世界全体へと反転せんとする物語の大塊に違いあるまい。
機会があれば是非、手にとってみて下さい。
あなたの「地殻」は確実に変動します。