名匠、成瀬巳喜男が撮った異色作
今なお世界的な人気が衰えない名匠、成瀬巳喜男の最晩年に撮られた作品のひとつである、本作「女の中にいる他人(1966)」は、その原作が海外のサスペンス小説となる異色作です。
成瀬は生前より女性を主人公とした作品の評価が高く、ペシミズムのメロドラマ作家とも呼ばれ、情趣に満ちた作風で知られていたために、本作品は彼のフィルモグラフィーの上で異彩を放っています。
原作はレバノン生まれの英国作家エドワード・アタイヤ(1903-1964)の「細い線」となります。同小説をもとにフランスの映画監督クロード・シャブロル(1930-2010)も「一寸先は闇(1971)」を撮っています。シャブロルの代表作は「美しきセルジュ」「いとこ同志」「気のいい女たち」など。
原作の題名である「細い線」とは、映画の中でもセリフとして口にされており、いわゆる人が超えてはならない善悪の一線のことを指します。
つまり、人を殺めるのか殺めないのかの、理性的・倫理的・道徳的「境界線」です。
映画のタイトルは、原題とは異なり「女の中にいる他人」と名付けられています(シャブロルも同様に別のタイトルをつけています)。

一読するだけでは意味をつかみ辛いこのタイトルに、成瀬はどのような意味を込めたのでしょうか?
以下、内容に言及しますので、あらかじめご了承ください。
タイトルに込めた意味とは
次のように結論づけました。
「女の中にいる他人」の他人とは、夫を指します。かつて夫として認識していた男と呼べるかもしれません。更に言うと、殺人を犯した夫(男)を自らの手で死に至らしめた妻(女)は、子供の将来を憂慮し、自ら妻であることを投げ捨て、自分自身の中に、他者性を帯びた殺人者である自分(他者の中の他者)を産み落とし、生きていくこととなるのです。その意味では、他人とは夫(殺人者)であると同時に自分(殺人者)であると言い得ます。
ストーリー
出版社に勤めるサラリーマンの田代勲(小林桂樹)は妻雅子(新珠三千代)と二人の子供に加え実母と共に鎌倉に住んでいる。二十年来の親友である建築技師の杉本隆吉(三橋達也)も近所に居を構えているが、その妻であるさゆり(若林映子)は奔放な性格もあって、複数の男友達と交際しながら恋愛の自由を謳歌しており、夫の杉本はなかば黙認しているような状態にある。ある晩、さゆりが友人のアパートで絞殺されるが、犯人の手がかりは一向につかめない。さゆりと関係していた田代は、偶然から彼女の首を締めてしまい、不安な日々の重圧に耐えかね、さゆりと付き合っていたこと、そしてさゆりを死に至らしめたことを妻に告白する。更に、親友の杉本に対しても真相を告げてしまうが、二人ともに黙っていればいいと殊更にことを荒立てようとはしない。ますます色濃くなる不安から逃れるために田代は自首を決意するが、自首の前日に妻の雅子は、子供の将来を憂い、彼を毒殺し、その死は自殺として処理されてしまう。
窒息寸前の日常
本作にミステリーもしくはサスペンス的要素をこと更に求め、その観点より辛い点数をつけるのならば、見当はずれの酷評に至らざるを得ません。
サスペンス小説を原作としているために、画面の隅々に犯罪臭が嗅ぎとれますが、成瀬の演出は非常に抑えたトーンで全体を構成し、サスペンス調のあざとさは最小限に留まっています。
彼が目指したのは、登場人物の心理を丁寧に積み重ねることで、浮かび上がってくる心理的圧迫感に他なりません。
それは非日常的な「緊迫」ではなく、日常がもたらす「窒息」と言えるでしょう。
奇妙な映画
本作は「奇妙な映画」です。
観ている最中も、観終わった後にも、奇妙な感じがあなたを離れないでしょう。
- 田代は一体全体、何に苦しんでいるのか。
- 妻の雅子は、人殺しの夫を愛し続けることが可能なのか。
- 杉本は田代を、なぜ簡単に受け入れることができるのか。
疑問は尽きません。
それは原作や脚本における整合性のほころびのせいばかりとは言えないはずです。
合理的理由を求めると、合理はすぐに視界から身を隠してしまい、物語は何事もなかったように終焉に進むでしょう。
出来事の整合性を求めることそれ自体が、そもそも意味のないことであるとこちらが納得してしまうような映画構成的な「合理性」があなたの全身を濡らすに違いありません。
奇妙な感覚があなたの内で膨らんでいくのです。
本作の奇妙さを解消するためのひとつの合理的な解釈として、田代家の子供たちの生物学的な父親は実は杉本であるという仮説を立てたくなります。杉本が献身的な愛情を友人の子供たちに注ぐ事実や雅子が夫殺しを躊躇いなくやってのけてしまうことから、そのような想像も可能ではないでしょうか。田代が捕まれば、「自分」の子供たちの将来が台無しになるために、積極的にことを荒立てようとしない杉本の不自然な行動に合点がいくのです。
あまりに身勝手な、妻への告白
警察の捜査も虚しく、犯人の目星はつかず、時間だけが淡々と過ぎていきます。
迷宮入りの見込みが高まるなか、田代の中の不安感は増大していきます。
彼はとうとうたまりかねて妻に自分がさゆり殺しの犯人であることを告げます。
ただただ不安に押しつぶされそうになったために、妻に告白するのです。
実際、告白したおかげで気持ちが軽くなったと口にします。
さゆりのリクエストに従い、彼女の首を締め、偶発的に死に至らしめたという情状酌量性は認められるものの、人の命を奪ったことに対する罪悪感は微塵も感じられません。
夢の中の出来事であるとの現実感のなさを言葉にする始末です。
良心の呵責や魂の救済を求めて告白に至るというには、本来的な倫理性が絶対的に不足していると言わざるを得ません。
不安を軽減したいという極めて利己的な理由から、妻の気持ちなど頭から無視し、心の平穏を求めます。
田代の不安な日々が続く中で、勤め先の同僚が金を持ち逃げする事件が並行して描かれています。社長が逃亡者に対して吐露する不信感や裏切られた思いを聞くにつれ、自分自身も同罪であり、自分も責められるべきなのだという思いを田代は強くします。表現されているのは、命を奪ったことへの罪の意識ではなく、組織に生きる人間の相対的な社会的責任性に過ぎません。演出の意図は明らかに、田代という男の倫理的欠陥に焦点を当てています。
あまりに身勝手な、親友杉本への告白
夫の苦しみを自分も背負っていくと覚悟した妻の決心を嘲笑うかのように、田代は自らの秘密をあろうことか親友の杉本にも告白します。
自分の妻を殺した犯人が親友であることの残酷さやその衝撃を一切想像せずに、妻に告白しただけでは小さくならない不安の解消を目的とし、自分勝手が暴走を始めます。
田代の口から出た驚愕の事実に、薄々感じていたと言いながら、怒りに任せて彼を打つ杉本は、激情が収まると田代にこのことは黙っておくようにと意外にも口止めをします。
運命を全面的に受け入れ、これからのことだけを考えていこうとする杉本のある種の宗教的態度は、やはり観客にとって不可解な対応と言えるものでしかありません。
まるで、田代の「奇妙さ」が伝染したかのような杉本の振る舞いに、あなたは不気味を通り越して、「人間以外」の存在の群像劇が展開されているとの錯覚を覚えるかもしれません。
田代が抱え込んでいる「不安」とは、おそらく夏目漱石の小説の登場人物たちが直面している「存在論的不安」に違いありません。田代は人を殺したことによる拭いきれない後悔や言いようのない恐怖と戦っているのではなく、決して消え去ることのない「不安」になす術なく怯えているだけなのでしょう。さゆりの首を締めたことによって、不安が前景化しただけであるために、告白による心の平穏の回復など望むべくもなく、仮に自首が上手くいったとしても、死刑の日を迎えるまでは、不安から解放されることはなかっただろうと想像します。結果として毒殺されましたが、その人生の結末は彼が心の底から希求したひとつの形であるのかもしれません。
女の中にいる他人とは
ここで言う「女」とは、妻である雅子を指します。
一方、他人とは、
自分の知らない自分、あるいは自分の意外な(真実の)一面と一般的には考えられるでしょう。
いわゆる擬人化された人格的な(性格的な)要素です。
したがって、雅子の場合であれば、良妻賢母の典型である大人しく従順な顔の下に潜んでいた、「冷酷さ」であり「残忍性」と指摘できます。
人の心に宿った「鬼」と言い換えられるものです。
ただ、葛藤や逡巡があったとはいえ、夫に毒を盛る雅子の背筋の凍る「思い切りの良さ」は悪魔の所業との区別がつきかねます。
本作のキャストは魅力的な俳優で占められています。ほんの少しの出演時間ではありますが、とりわけ存在感を示すのは、中北千枝子です。幸の薄い庶民を演じさせれば右に出るもののいない名優です。現在で言えば、奥貫薫さんに当たるでしょうか。
他人とは「夫」なのだ
タイトルにおける「他人」という言葉は、「いる」という語句の使用を重視した場合、上記のような擬人化された人格的要素における「他者性」ではなく、まさしく人格を持つ「他人」をここでは指すのだと考えられます。
この場合、女、すなわち妻にとっての「他人」となるのですが、それは夫となります。
つまり、他人とは、夫である田代勲です。
もちろん、これは「夫婦も所詮赤の他人」ということわざ的意味合いとは無縁です。
そうではなく、文字通り、存在として自分の実人生には無用である人物という意味となります。
夫婦で難局を乗り切ろうと妻が励ます対象であった夫は、ある時を境に彼女の中で「他人」と化します。
彼が自首の固い決意を口にした夜に。
家族の将来、とりわけ子供のこれからの人生に対して、何らの考えも口にしない夫の態度は、雅子に絶望感しか与えなかったことでしょう。
妻である雅子と親友の杉本に対する告白をもってしても、彼の不安を「殺す」ことはできません。
消えない不安から逃れたい一心で、田代は自分のことだけを考え、自首を主張します。
この世で一番信用に足る二人の人物、妻と親友が口を閉ざすべきだと彼を許しているにもかかわらず、もしかするとそれだからこそ田代に巣食う「宙吊りの感覚」は彼の不安を下支えしたのでしょう。
彼の中に家族が今や抜け落ちている、もしかするとそもそもの初めから自分たちが彼の人生の中でしかるべき位置を確保していなかったことを悟った雅子は、彼ではなく、夫抜きの「家族」を選び、彼を「他人」とする決断に至ります。
「他人」であるがゆえに、毒入りの酒を彼の前に差し出すことができたのでしょう。
本作における、妻にとって夫こそが他人であるという図式は田代夫妻だけではなく、杉本夫妻にも当てはまります。ゆかりにとって、夫は、夫婦の愛情面からも、夫婦の生活の側面からも既に「他人」であったに違いありません。妻が殺害された後の杉本のあまりの冷静さがそれを物語っています。夫婦関係は「顔を知っている」程度の間柄に成り下がっていたのでしょう。
「他人」は消えない
子供たちの未来を守り抜くためにとった彼女の行為は何ひとつ正当化されるものではありません。
彼女はただひとり、彼女の中で闇を抱えながらこれから先、子供を育てていくのでしょう。
もしかすると、その闇をある日突然に、杉本や義母に、あるいは成人した子供たちに打ち明けるかもしれません。
いずれにしても、
雅子は自分の中に殺人者という「他人」を共存させることを選択しました。
それが例え、不可抗力であり、やむを得ない事情であったと合理化されようとも、「他人」が消え去ることは決してありません。
彼女の中の「他人」は、彼女に手を汚させた夫である田代であると同時に、田代と同じく人の命を奪った雅子その人に違いないのです。
「他人」は、己の命が尽きるまで居続けるのでしょう。

成瀬巳喜男を理解する上で、鍵となる作品に違いない本作を、機会があればぜひご覧になってはいかがでしょうか。

