閉塞状況の中での窒息死をかろうじて回避するために
本作は、思春期のダークサイドを抉り出し、若い世代の圧倒的な支持を得ている人気マンガ「惡の華」を原作とした映画(2019年公開)です。
全13巻完結の原作を2時間あまりに収めているために、物語進行の丁寧さや登場人物の深掘りについて過度に精緻さを求めることはフェアではないと思われます。
青春映画の良作である本作品のテーマは次の通りとなります。
ここで描かれているのは、「自己と自我のズレと回復の試み」に他なりません。
以下に、映画「惡の華」の内容に基づき、考えたことを述べますが、原作のマンガは未読となります。

内容に言及しますので、あらかじめご了承ください
ストーリー(泥仕合のような青春)

以下、公式サイトからの引用となります。
山々に囲まれた閉塞感に満ちた地方都市。中学2年の春日高男は、ボードレールの詩集「惡の華」を心の拠り所に、息苦しい毎日をなんとかやり過ごしていた。ある放課後、春日は教室で憧れのクラスメイト・佐伯奈々子の体操着を見つける。衝動のままに春日は体操着を掴み、その場から逃げ出してしまう。その一部始終を目撃したクラスの問題児・仲村佐和は、そのことを秘密にする代わりに、春日にある“契約”を持ちかける。こうして仲村と春日の悪夢のような主従関係が始まった…。
出典:公式サイト
仲村に支配された春日は、仲村からの変態的な要求に翻弄されるうちに、アイデンティティが崩壊し、絶望を知る。そして、「惡の華」への憧れと同じような魅力を仲村にも感じ始めた頃、2人は夏祭りの夜に大事件を起こしてしまう…
十代の発展途上の身体に訪れる精神と肉体の不調和がもたらす、不安や焦燥、抑え難き性的欲動が、刺激的なフレーズとともにスクリーンの上を走り抜けます。
自分だけは絶対に違う

若者によって何ら魅力的ではない地方都市で生まれ育った中学生の退屈な日常は、簡単に彼らを凡庸な生の主人公に押し込めようと昼夜にわたり圧を加えます。
その圧力が生む絶望的な無力感に抗うために、自分だけは違うという証明の根拠を主人公の春日高男(伊藤健太郎)は耽美主義文学に、特にボードレールの詩集「惡の華」に求めます。
同様に、自分の周りの世界を呪う仲村佐和(玉城ティナ)は、奇行を繰り返しながら、クラスメイトである佐伯奈々子(秋田汐梨)の体操着を盗んだ春日の秘密を握ることで彼を脅し、やがて彼との間に奇妙な関係性を構築していくことになります。
仲村は彼の中に「同胞」としての資質を予感します。
彼らが世界に唾を吐き続けるのは、実のところ彼ら自身が軽蔑する世界の一部であることを断固として認めたくないためです。
そのために絶対的な「線引き」が絶えず要求されているのでしょう。
自分以外と自分を分け隔てる方法は二つしかありません。
自分が自分以外から抜きん出ること。
あるいは、
自分以外を不当に貶めること。
その他大勢の一部である彼らが取る道は、当然ながら後者でしかありません。
同時に、自らの非社会性に過剰な価値を見出す始末です。
双子のような自己と自我


言葉の意味に関して哲学的厳密性を追求することは、本ブログにおいては荷が重すぎるので極めて簡略化した形で説明を続けます
自己と自我を取り急ぎ、次のように定義します。
- 自己とは、自己以外との関係性の中で初めて確立する存在的拠点であり、人格を構成する主要部分である。
- 自我とは、自己を自己以外と区別して認識する精神作用の一種であり、自己意識とも言う。
成熟した大人であれば、通常、自己と自我はほとんどの場合、ビッタリとくっ付いています。
簡単にモデル化すれば、それは全く同じ面積の2つの円であると言えます。
これらは重なり、シンクロしながら回転しているのです。
見分けがつかず、寸分の狂いもなく同調しています。
そのような状態が、社会的責任のある成人の人格的・心理的状態であるのでしょう。
自己と自我の境が見当たらないことが、自分が自分であることの「日常」に違いありません。
しかしながら、
思春期と呼ばれる精神の揺籃期・動乱期においては、自己と自我は微妙に「ズレ」を起こします。
時には、大きく乖離したままの状態が継続する場合もあるでしょう。
自我が肥大すれば、自意識が過剰に溢れ出し、自己と軌を一にせず、乱れた運動を始めます。
リビドーや悟りと結びつき、忘我や無我の境地に触れることもあるはずです。
肉体的・生理的変調から来るバランスの崩れは、容易に精神的・心理的不安定を引き起こします。
春日と仲村の頭の中で日夜鳴っているのは、自己と自我の不協和音に違いありません。
「変態」という立ち位置

本作のキーワードは「変態」です。
社会的常識規範・学校ルールのなかで、自分の欲望のままに衝動を野放しにする行為の主体が自覚的に「変態」と呼ばれもするのです。
主たる行為は性的欲動の解放が中心であるには違いないのですが、心の奥底に潜む「真実の声」に正面から耳を傾けることこそが希求されていると言えます。
ある意味、春日の「純化形」である仲村は、衝動こそが「自己」に忠実な生き方を可能にすると無条件に肯定します。
仲村にとって、日常生活での自らの立ち居振る舞いは、「自我」の全面肯定にほかなりません。
ゆえに、
自らの自己と自我の一致を妨げる彼女の周りの全てが、敵視すべき対象以外の何ものでもないのです。
「クソムシがっ!」という叫びや呟きは、あたかも周りに連射し続けられる弾幕のようです。
それは彼女自身の精神の砦であると同時に、彼女自身の生きざまを鼓舞し続けます。
自己と自我の完全なる一致に絶えず揺さぶりをかけてくる世界の膨張と彼女は戦い続け、その彼女を通して、春日もまた自らの自己と自我の一致を悪戦苦闘しながら模索していきます。
佐伯という名の闖入者により、結果として春日と仲村は同調を始めます。
彼らは二人ぼっちで、互いが自己と自我であるような「円運動」を成立させようとしていくのです。
自己と自我の不幸なるすれ違い

自己と自我の完全なる一致を求め、秘密基地を拠点とし、夏休みを通じ、春日と仲村は共闘を続けます。
恋愛関係すれすれの状態を維持しながらも続いた蜜月期間は、佐伯の突然の介入により、あっさりと終焉を迎えます。
「愛の巣」が、佐伯の放火によって焼け落ちてしまいます。
自らの魂の叫びに忠実なる仲村は、自己と自我の一致がもはや、どこにも求められないことに、とうとう思い至るのです。
春日がいみじくも言い当ててしまう、「向こう側は自分の内にしかない」という慟哭を受けて出した仲村の答えは、「公開焼身心中」でした。
この世のどこにも「向こう側」がないのであれば、自らの内側、つまり自己変革を目指すのではなく、あの世に「向こう側」を夢見る短絡的行動に走り、その企ては「骨折」に至ります。
汚辱にまみれた世界との別離は叶わず、自己完結への旅立ちも果たされません。
幸いにも自殺は未遂に終わりますが、それ以来、二人の関係は断たれます。
二人ぼっちの世界は、それぞれひとりぼっちの世界へと分裂します。
一致への願いは潰えるのです。
自我と自己の一致を試みるために

春日は高校に入学後、偶然にも「惡の華」を古本屋で手に取る少女と出会います。
同じ高校に通う常盤文(飯豊まりえ)です。
彼女に好意を寄せる春日は、常盤との交際を押し進めるために仲村に会うことを決心します。
自分の時間は止まったままであり、過去に決着をつけなければ、呪縛は解けないためであるのでしょう。

この決意は、春日と仲村を「同一体」とみなすのであれば、次のように言い換えられるはずです。

自己を確立できない春日は、自我である仲村ともう一度会って、完全なる一致を果たさなければならない、と。
ある種の同型であり同志であった春日と仲村は、お互いが自己であり自我である「時」を共有しました。
夏祭りの夜に達成できなかった究極的な「一致」を違った形で、あらためて試みる必要性に春日は取り憑かれます。
その一致を再び試みることで、彼は「向こう側」に行けるかもしれないという望みを夢想するのです。
「同一体」であるがゆえに、彼女にとっても絶対に必要であると春日は信じて疑わないのでしょう。
そして、向こう側へ

自分は空っぽであると苦悩する常盤とともに、春日は仲村のもとをたずねます。
離婚した母親の店を手伝いながら、海沿いの寂しい土地で暮らす彼女は憑物が落ちたような静かなたたずまいで彼らを迎えます。
店を後にし、波打ち際で三人は話し合います。
緊張したやり取りが続くなか、
春日と仲村がお互いに手を伸ばし、掌を合わせます。
この一連の行動は、確実に「完全なる一致」を求めていることを表出しています。
けれども、映画は春日と仲村が結ばれることを用意しません。
彼の選択は常盤であるのですが、迷いや想いがとぐろを巻き、行き場を失いかけます。
自失しながら春日は仲村をなぎ倒し、常盤を加えて三つ巴になって、若さの過剰を発散させます。
何度も地面に叩きつけられながら、波打ち際で三人は公平に海水を被り続けます。
ここでは、青春映画の定型をなぞりながら、極めて美しい姿態がフィルムに焼き付けられています。
疲れ果てた後に、仲村は「春日くん。二度と来るな、普通人間」と言い放つのです。
その言葉は、表現とは裏腹に慈愛に満ちた暖かさをまとい、春日は微笑みながら彼女の言葉を受け入れる自分に出会います。
春日の全身からコトバがこぼれ落ちます。
ありがとう
ここに至り初めて、「完全なる一致」がなされるのです。

「普通」であることが「変態」の否定でないことは、彼女の現在の生活ぶりから明らかであるでしょう。
春日の上にも、仲村の上にも、等しく「青空」が広がっています。
春日は春日くんのやり方で、仲村は仲村さんのやり方で、「向こう側」に向かって歩き始めました。
「向こう側」とは、言うまでもなく、美しいものを美しいと素直に口にできる自らの心の内にある「可能性」に違いないはずです。

恋愛映画としても十分に成立する本作は、その題材から食わず嫌いの対象に留まりがちですが、内容は驚くほど豊かです。

機会があれば、ぜひご覧ください

