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「バーニング 劇場版」なぜ自分の服を主人公は焼くのか

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村上春樹氏の短編小説「納屋を焼く」を原作とする韓国映画の傑作

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イ・チャンドン監督の「バーニング」は2018年に公開(日本公開は2019年)され、カンヌ国際映画祭をはじめとする海外の映画祭において高い評価を獲得した韓国映画です。

原作は1983年に発表された村上春樹の短編「納屋を焼く」となります。

村上作品のテイストを損わずに、別作品としてのオリジナリティーを本作は発揮しています。

井戸や猫といった村上の小説ではお馴染みの「アイテム」がストーリーの邪魔をしないで巧みに折り込まれています。

以下、内容に言及しますので、あらかじめご了承下さい。

ストーリー

出典:公式サイト

大学卒業後、小説家を夢見るイ・ジョンスは偶然に幼なじみであるシン・ヘミと出会います。整形し、すっかり美人に変わっていた彼女はアフリカ旅行を予定しており、その間、飼い猫の世話を頼まれたため、彼女の部屋に出入りすることになります。迎えの依頼の電話を受け、しばらくぶりの再会を楽しみにしながら空港に行くと、彼女はアフリカで知り合った金持ちの男ベンと一緒でした。ヘミに惹かれながらも、三角関係にもならず微妙な距離感のままの交友関係が続くなか、ある日突然にヘミとの連絡がつかなくなります。ヘミの失踪にベンが関係していると考えるジョンス。彼を尾行すればするほど疑惑は深まっていき、最後には悲劇的な結末が待っていました。

物語の骨格は原作にどこまでも忠実です。

80年代の日本社会のスノッブさが現代韓国の若者の倦怠感(焦燥感)に上手く「翻訳」しなおされていると言えるでしょう。

映画と異なり、原作では小説家がパーティーで知り合った青年の奇妙な話を語る内容となります。

短編小説であるがゆえに、明確な結論は提示されず、読者の想像をやんわりと刺激する構成です。

一方、本作(映画)では「結論」が映像的に明示されています。

けれども、

それが現実に起こったことなのかどうかを観客は確信が持てないまま、物語は終焉を迎えるのです。

この意味において、映画は小説にどこまでも忠実であると言えます。

偶然に出会ったジョンスとヘミが冒頭シーンの近くでタバコを喫いながら、灰皿代わりの各々の紙コップに唾液を垂らすショットは生理的嫌悪を引き起こしかねない演出であるのですが、これはそれから時間を置かずに二人が肉体関係を持つことの「シグナル」であったことをあなたは思い出すべきでしょう。

納屋を焼くという意味

「納屋を焼く」という作品は、村上が敬愛する米国作家のウィリアム・フォークナーの作品である「Barn Burning(納屋は燃える)」からインスパイアされたと考えられます。

ウィリアム・フォークナーは1897年生まれの20世紀アメリカ文学の巨匠。代表作に「八月の光」「怒りと響き」「サンクチュアリ」など。1949年にノーベル文学賞受賞。

映画の中では、納屋の代わりにビニールハウスが対象となります。

小説(映画)を読めば(観れば)わかるように、納屋を焼くとは隠喩です。

「女性を殺害する」という意味であると理解できるように作品は読者(観客)を誘導します。

いずれの表現方法においても、直接的な描写は省略されています。

したがって、どこまでも黒に近いグレーでありながら、最後の尻尾(真実)を読者(観客)は掴み切ることができません。

子供の頃にヘミが落ちた「井戸」が近所にあったのかなかったのかをジョンスはゆかりの人物たちを訪ねながら質問します。嘘をつく必要のない彼らは決まって記憶にないと語り、もしかすると真実を口にしていないのではと疑念を抱かざるを得ない二人の人物、ヘミとジョンスの母親だけが「在った」と主張するのです。ヘミは突然にジョンスの元から消え去り、母親は唐突にジョンスの目の前に姿を現したことを念頭に置くのならば、「井戸」を通り抜けて行方をくらまし、あるいは出現するという村上的主題を帯びているがゆえに、彼女たちは「在る」と言い張ったとは言えないでしょうか。

追い込まれたものの末路

本作は小説と異なり、主人公のジョンスの不安定で不透明な将来に対する絶望感や倦怠感を執拗に描写します。

不幸極まりない母親との関係。暴力事件を起こし、裁判中の頑固者の父親。小説家を目指しているといいながら、バイトで食いつなぐその日暮らしの自らの境遇。

どのような仕事に就いて贅沢な生活を維持しているのか不明である金持ちのベンとの落差がことさらに強調されます。

仕事と遊びの境界線がないというベンの発言は、そのまま小説家になりそこねているジョンスの境遇に当てはまりますが、その経済的な高低は明らかです。

いっそ貧乏人を見下す態度であるのならば、確かな敵愾心が芽生えるものの、そうではなく、あくまで金持ちの余裕に裏打ちされた親切や公平な扱いがかえってジョンスを追い込み、彼を蝕んでいきます。

彼が撒き散らす「偽善性」にジョンスは窒息寸前まで追い込まれます。

ベンがヘミを殺したのだという状況証拠に翻弄されながら、ついにはジョンスはベンを殺害し、彼を愛車のポルシェごと燃やしてしまうラストへと流れ着いてしまいます。

スクリーンに映し出されたものが事実である保証を全ての映画は問われません。したがって、本作のラストシーンも本当に起こったことではなく、ジョンスの頭の中(もしくは彼が書こうとしている小説)の出来事であるという解釈も当然に成立します。実際、このシーンの前のショットにおいて、彼がパソコンに向かい文章作成している姿が描写されているので、もしかしたら「想像」である方が正しい理解と言えるかもしれません。

母親の衣類を焼く

ジョンスは映画の中で二度、衣類を焼きます。

一度目は、父親に命じられ焼くことになった、家を出て行った母親の衣類です。

母親の存在を忘れ去り、はじめからいなかったものとするかのように、その痕跡を消す手伝いを強いられるのです。

衣服を焼くとは、その持ち主を忘れるためのある種の儀式であると同時に、新たな関係性を構築することを意味します。

世界と自分との関係性です。

母親がいない世界における新たな自分に「刷新」する必要を彼は生きるために迫られたのでしょう。

ジョンスの実家の庭先で三人が大麻を吸いながらワインを口にする夕暮れのシーンは本当に息を呑みます。北朝鮮に近い韓国のうらぶれた農村に魔法がかかります。最初にアメリカ南部の贅沢さを表現しながら、やがてアフリカの大地へと観客を誘うそのカメラワークは本作の最大の魅力と言えるでしょう。バックに流れるのはルイ・マル監督「死刑台のエレベーター」のなかのマイルス・デイビスのトランペットという贅沢さ。

なぜ自分の服を全て焼かねばならないのか

二度目は、自分の衣服を焼きます。

ラストシーンにおいて、ベンを呼び出したジョンスは彼を刺殺します。

その場所はおそらく、ビニールハウスが点々とする寂れたジョンスの実家の近くでしょう。

ポルシェに刺殺後の彼を押し込め、返り血を浴びた自らの服を全て車内に放り込み、ガソリン(軽油?)を撒き、ベンがジュンスの実家に忘れたライターで火をつけます。

燃え盛る自動車を後景にし、全裸でトラックを運転するジョンスのバストアップで物語は終わります。

衣服を脱ぎ捨てた彼の行為を証拠隠滅のためと考えることは極めて合理的です。

しかしながら、本作において、服を焼くことの意味はそれほど簡単ではないはずです。

ジョンスが実家で見つける父親のナイフセット(場違いな程の高級感)は、ベンが洗面所に保管している化粧箱へとイメージの連結が図られています。演出の意図から、化粧箱は死の匂いを纏うことになるのです。ヘミの次の恋人に対してベンが化粧を施すシーンは、これからこの女は確実に殺されてしまうのだという観念を観客に植え付けることに成功していると言わざるを得ません。

ベンはジョンスであり、ジョンスはベンである

彼が下着を含め、身に着けていたものの全てを焼いてしまうのは、ジョンスが生まれ変わりたいからに違いありません。

ある意味、ベンは彼の理想です。

なぜなら、豊かな暮らしを実現し、誰に対しても慈愛に満ちた態度を振りまき、おまけに愛するヘミを夢中にさせる存在であるからです。

ベンを尾行した果てに、山中の人口湖(貯水池?)に佇むベンの後方に車の影に隠れながら屈み込むジョンスを横から捉える遠景ショットは、明らかにジョンスがベンの「影」であることを示唆しています。

ベンが自らの秘密(定期的に犯罪行為であるビニールハウスに火を付けること)をジョンスに打ち明けるのは、ある意味、自問自答と言えるのかもしれません。

ヘミのジョンスに対する信頼の強さに自分は嫉妬を覚えたとベンはジョンスに語ります。生まれて初めて嫉妬を覚えたと。

言うまでもなく、ジョンスにとって「ヘミが夢中になる金持ちの男」は嫉妬の対象以外の何者でもありません。

ここにも、ベンとジョンスの入れ替え可能性が十分に示されているのです。

彼らの相似性は異性に対する距離感に端的に現れます。

ジョンスが繰り返す自慰行為が象徴するのは、対象の不在であり、ベンが付き合う女性を定期的に変える(殺害する)のは決定不能性(ある種の対象の不在)に絡めとられているからに他ならないからでしょう。

彼らはどこまでも、自己完結性を隠しきれないのです。

互いが互いの影であるかのような、合わせ鏡であるような存在性が描写されます。

フォークナーのような作家になりたいとのジョンスの言葉に反応し、ベンはすぐにフォークナー短編集を読みはじめます。

小説の読者として、現在のベンは過去のジョンスであるのです。

友人との集まりの最中にあくびを噛み殺すベンの態度をジョンスが見逃さないのは、彼自身も退屈しているからに他なりません。

ジョンスがベンに複雑な感情を持つのは、嫉妬と同時に彼への親近感を自らが否定できないからです。

映画の中の言葉を借りるのであれば、二人は「同時存在」であると言えます。

ベンは自分の来るべき(決して訪れない)「将来」であったのでしょう。

そのベンを刺殺し、自分が身に纏う貧乏が染み込んだ衣服(自分の抜け殻)と共に焼き尽くすことは、ベンになり変わり自分が「ベン的存在」にとって代わりたい複雑な感情からの行為に違いないのです。

ある意味、そのような情念は彼の中にあったヘミへの復讐を飲み込んでしまったとさえ言えるかもしれません。

本作の通奏低音は「反復性」です。ジョンスの父親と母親の関係はジョンスとヘミのペアリングとして反復的に描かれています。理由は異なりますが、愛する者の前から消え去ることにおいて母親とヘミは同型です。直情型の父親の振る舞いを反面教師として生きてきた無気力なジョンスが物語の最後に唐突な暴力衝動を抑えきれないのは、父と子の避けられない血の反復が実現されたからに他なりません。加えて、ベンが実行しているであろう連続殺人は、律儀に二ヶ月に一度の頻度で「繰り返される」のです。

まるでビニールハウスのようだ

嫉妬、羨望、恐怖、焦燥、共感、連帯、愛情、無関心、執着、空虚。

いくつもの炎が彼の内を燃え続けます。

当然に、その炎は彼(ジョンスでありベン)自身を焼き尽くします。

焼くべき対象がビニールハウスであったことを今一度思い出してみてください。

透明であるがゆえに、ハウスの中は何もない状態が剥き出しに映し出されていたはずです。

実存的な「空っぽさ」が露呈します。

ビニールハウスが焼け落ちる過程を眺める5分間という時間に生きている実感を見出すベンと、屍のような生を引づり続けるジョンス。

彼らを分かつ決定的な違い(境界線)はどこにも見当たらないのです。

向こう側が透けて見える「空虚」にかれらの人生は支配されています。

殺人鬼ベンと何者にもなれないジョンスのそれぞれの心象風景が合致する一点が、炎に包まれたビニールハウスであったことは今更言うまでもないでしょう。

パドー

村上作品の優れた解釈であると同時に、独自のクオリティーを堅持する本作を機会があれば、ぜひご覧ください。

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✒︎ writer (書き手)

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本サイト「シンキング・パドー」の管理人、人事屋パドーです。
非常に感銘を受けた・印象鮮烈・これは敵わないという作品製品についてのコメントが大半となります。感覚や感情を可能な限り分析・説明的に文字に変換することを目指しています。
書くという行為それ自体が私にとっての「考える」であり、その過程において新たな「発見」があればいいなと毎度願っております。

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