心理学とは違う方法で心に迫る良書であった
兎にも角にも刺激的
ここには、哲学の大問題がいくつも取り上げられています。
- 意識とは?
- 時間とは?
- 言葉とは?
- 記憶とは?
- 自分とは?
- 世界とは?
- 心とは?
本ブログには荷が重いので、以下に「心」について若干程度だけ触れるにとどめます。
火花散る対談
アンドロイド研究者の石黒浩氏と人工生命研究者の池上高志氏の対談を軸に本書は構成されています。
人工生命研究について池上氏は次のように言います。
生命は抽象的で数学的な代物であり、見かけではない。電気回路、ロボット、化学反応、コンピューターのプログラム、どこにでも生命が創発する余地があってもいいじゃないか。それが、人工生命の研究である。
アンドロイド研究については次のようにコメントされます。
石黒さんのアプローチは人工生命のアプローチとは真逆である。人とそっくりのアンドロイドを作って人間性に迫る。
面白くないわけがありません。
この本は、そんな僕の抽象的でボトムアップ的なアプローチと、石黒さんの具体的でトップダウン的なアプローチ、の正面衝突から生まれた新しいアンドロイドの話である。
もう一度いいます。
面白くないわけがありません
心とは?
石黒氏は言います。
このことを逆説的に捉えれば、「心」とは実体のないものであり、むしろ他人がその人に「心」を感じるかどうかだけが問題となる。
このことは、次のような常識に疑義を呈することにならないでしょうか。
我々は心について何らの疑いもなく自分の心から出発し検討を開始する。が、それはもしかすると他人の心を想像することを通して自分の心というものを理解しているだけではないのか、と。つまり、他人の心を想像することで、自分の心を事後的に理解しているだけなのではないのか、と。遠近法的な逆転が起こっているのだ。自分の心がまずあり、その想像的な延長として他人の心をわかっていると思いこんでいるだけではないのか、と。
そのように考えてしまうのは、次のような石黒氏の考察に触れたからです。
だから「心」とは社会的な相互作用に宿る主観的な現象なのかもしれないと、僕は考えるのである。
ここは、すっと理解できます。
ユングや今西錦司に通じる視野の広さを感じない訳にはいきません。
心とは単独に発生する事象ではないという考えが正しいのであれば、そこに社会性が不可欠であると言うのならば、意識の発生について、単体のアンドロイドだけを研究し続けても決して解明できないということになりはしまいか。
人間とアンドロイド、あるいはアンドロイドとアンドロイドとの社会関係性が高度に醸成する段階が到来してはじめて、アンドロイドに心が宿るのでなはいかと、素人はそのように考えてしまうんです。
ゆえに、つぎのような考えに帰着するはずでしょう。
心は社会の中にある、たぶん、きっと。