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「ゼロ・グラビティ」宇宙空間に投げ出された意思疎通の物語

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重力を鮮やかに描いた映画「ゼロ・グラビティ」の魅力とは

無重力状態での作業中に、不慮の事故により宇宙空間に放り出された女性科学者ライアン・ストーン(サンドラ・ブロック)の地球への独力での生還を90分間に収めた良作が本作「ゼロ・グラビティ」です。

宇宙飛行士マット・コワルスキー(ジョージ・クルーニー)がいい味出しています。肩の力の抜けた宇宙空間のスペシャリスト役。真剣テイストと冗談テイストのバランスが秀逸。彼が出ると画面が締まります。

サンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーという日本人にも馴染みのある俳優が緊張感のある演技を披露しています。

本作は邦題の「ゼロ・グラビティ」というタイトルについて残念感を唱える意見が多く、原題の「グラビティ」の意味は最後まで見ないとわからないために、そりゃあ言いたくもなるよねという感想を私も持ちました。

パドー

しかしながら、「グラビティ」の意味の解釈を広げれば、「ゼロ・グラビティ」もありかなと思えます。

解釈を広げるためのキーワードは「コミュニケーション」となります。

以下、内容に言及しますので予めご了承ください。

監督のアルフォンソ・キュアロンは「トゥモロー・ワールド」や「ハリー・ポッター」も撮っています。前者は癖になる秀作です。機会があればぜひ御覧ください。

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重力とは

奇跡の生還を果たしたライアンが岸辺にたどり着き、自分の足で大地を踏みしめ、頼りなげながらも歩行する姿に象徴されるように、重力のありがたさを想像させる印象的なラストシーンが最後に待っています。

ここにきて初めて観客はタイトルの意味の重さを知ることになるのです。

ゆえに「ゼロ・グラビティ」ではなく「グラビティ」でしょうと言いたい気持ちはよくわかります。

でも、重力には2つの意味があります。

重力の2つの側面

この映画は重力の意味する2つの側面を描いています。

いい面と悪い面。

いい面とはラストシーンにあるように、結びついていること、すなわち絆であり連帯であり、関わりです。

それでは悪い面とはなにか?

人が社会で生きる上での困難、すなわち、しがらみや世間体、人間関係の煩わしさややるせなさがあげられます。

もう少し踏み込んでいうのならば、人生における諦念や嘆息、生き辛さや生き難さとなります。

主人公ライアンは物語の冒頭で宇宙に対して好意的です。

しがらみのなさやその静寂に対して特別の感情を示します。

科学者特有の孤独愛かなと思いましたが、幼い娘を事故でなくした過去が明らかになり、彼女の心情はわれわれにぐっと近づくことになります。

重力の原義

重力の意味をあらためて考えてみましょう。

簡単に言うと、重力とは物と物との間に働く力を意味します。

地球上においては重力があるお陰で、人は重さを感じ、知ることができます。

ここで物と物との間に働く力の意味を拡大解釈してみます。

あなたの日常生活においておなじみの概念が網にかかるでしょう。

そう、コミュニケーションです。

コミュニケーションは人と人の間に働く力そのものです。

コミュニケーションのものがたり

宇宙空間における絶望と恐怖を見るものにこれでもかと叩きつける演出がなされている本作は、コミュニケーションの物語であると解釈できます。

地球での生活において孤独の影を引きづりコミュニケーションを遺棄する科学者の日常は宇宙空間よりも暗き色に染まっています。

同じトーンにも関わらず、彼女が宇宙に対して肯定的なのは、そこに重力の負の側面がかけらも浮かんではいないからでしょう。

内省という名のコミュニケーション

宇宙空間の素人であるライアンは、宇宙を住処とするようなベテランパイロットであるマットとの別離によりひとりぼっちとなります。

独力で生き延びる条件下に突き落とされてしまいます。

NASAとの通信が命綱であるはずなのですが、コミュニケーションは断絶されます。

無線は死んではいないのですが、地上の役に立たない情報を運んでくるばかりです。

コミュニケーションは実質上、成立しない状況となります。

絶望の縁に追い込まれながら、ライアンは意識が遠のく中で内省します。

地上では避けて通っていた心の声を聞こうとコミュニケーションを期せずして行うのです。

その一環として、マットの幻を見ます。

この幻との会話により絶望的状況からの脱出のヒントを得ます。

先ほど、人と人のと間に働く力はコミュニケーションと同義であると述べましたが、人の中には自分自身も含まれています。

ひとりぼっちではコミュニケーションが成立しないという常識(地上の常識と名付けましょうか)が宇宙空間において見事に覆されています。

人が力強く生きようとするとき、コミュニケーションは豊かな表情を見せるのでしょう。

宇宙空間に放り出されたマットがご都合主義よろしく戻ってくるシーンを見たときは、おいおいと誰もが思うでしょう。それが幻であったことを知ったとき、あなたは映像の文法の鮮やかさをあらためて思い出すことになります。

コミュニケーションは言葉を超える

地球に戻るために中国の宇宙ステーションにたどり着きますが、計器の表記は中国語です。

彼女はそこで冷静に操作を行い、からくも地球に帰還します。

宇宙ステーション内における操作方法は統一規格に近いものであるという前提のなし得る技なのですが、ここで描かれているのはコミュニケーションは固有の言語とはほぼ無関係であるというシンプルな真理です。

先のマットの幻との会話からもわかるように、コミュニケーションにおける多様性と多様であるがゆえの豊穣さが示されているといえます。

邦題と原題の間

原題の「グラビティ」とは、冒頭で述べたように重力の正の側面の意味を帯びています。

地に足がつくことの安心感、絆、連帯です。

一方、邦題の「ゼロ・グラビティ」の「グラビティ」とは重力の負の側面が強調されていると理解できます。

それは、社会的憂鬱さであり、人間関係の錯綜であり、人生の疲労を意味します。

邦題はそのような「呪縛」からの解放が込められたタイトルであるといえば言いすぎでしょうか。

「ゼロ・グラビティ」とは重力(負の側面)からの解放なのです。

であるならば、2つのタイトルは世間が言うほど大きな違いはないのでしょう。

再構築に向かって

本作には死と再生のイメージが散りばめられています。

ステーションの中で胎児のように丸まって浮かぶライアン。

ライアンの後ろに見えるチューブはもちろんへその緒なのでしょう。

地球へ落下していく中国のステーションの破片は精子の群れのようです。

ライアンは宇宙からの帰還を経て、ある意味再生を果たします。

忘れてならないのは、その過程において彼女自身のコミュニケーションの再構築がなされていたことです。

生まれ変わるとはコミュニケーションの再構築に他ならないのでしょう。

煮詰まっていて気分を一新したいときに観れば、なんらかの突破口が見いだせる映画だと思います。

そのようなときはぜひ一度ご覧になってみてください。

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✒︎ writer (書き手)

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本サイト「シンキング・パドー」の管理人、人事屋パドーです。
非常に感銘を受けた・印象鮮烈・これは敵わないという作品製品についてのコメントが大半となります。感覚や感情を可能な限り分析・説明的に文字に変換することを目指しています。
書くという行為それ自体が私にとっての「考える」であり、その過程において新たな「発見」があればいいなと毎度願っております。

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