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映画「永い言い訳」西川美和はなぜ「永い」を選択したのか

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花びらが散ってしまっても夫は涙をこぼさなかった

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西川美和監督の「永い言い訳」を観ました。

観終わってすぐにもう一度確認したくなるような不思議な引力を持つ作品。

本作は元々小説として書き上げた作品を映画に取り直したものです。

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パドー

小説を読めば作品に対する理解が一層深まるのだろうなと思います。

今までそのような習慣を持たないことと、表現手段が異なれば全くの別物の作品(ワーク)であるという認識が強いので、読まずに以下に記します。

内容に言及しますので、あらかじめご了承ください。

永い言い訳とは、いつまでも関わり続けることを前提にした決意であり努力です。主人公は長いお別れではなく、向き合い続けることを選択しました。それがひとつの愛の形であることは言うまでもありません。

泣けない夫の物語

主人公である不倫中の小説家、幸夫(さちお)はバスの事故で美容師の妻夏子を突然失います。

夫婦仲はどうみても冷え込んでいる状態にあることが冒頭に象徴的に描かれています。

売れない時代にヒモ同然であった幸夫はコンプレックスの塊です。髪結いの亭主(女房の働きで養われている男の例え)に設定しているところが、ベタでありながらも遊び心満載と言えます。

この監督は、はりめぐらせた伏線を回収するというケチな了見は常にはなから放棄しています。

そうではなく、物語が進むにつれ、あのシーンは、あのショットは「そういえばこのような解釈も成立するんだな」という意味をさり気なく刷り込み、素知らぬ顔を決め込むのです。

パドー

意味の多産化という面では小津安二郎を彷彿させます。

幸夫は泣けない自分に多少戸惑いながらも、世の中のニーズに自分を合わせ精一杯演じようとします。

が、時折自分の正直な気持ちに屈してしまいます。

このあたりのエキセントリックな演技が本木雅弘さんは本当に上手いです。

幸夫の醜態と狂気は度々描かれます。心の器から感情がすぐに溢れかえる小心者ぶりを実に繊細に本木雅弘氏は演じています。彼こそが幸夫なのです。

一方、妻夏子の女友達の夫である陽一は妻の死を受け入れられない日々に苦悶します。

陽一が亡き妻の携帯の留守録の音声を何度も繰り返し聞く場面の反復的な見せ方は唸ります。老獪なピッチャーにより同じコースに投げられた球が二球目は微妙にシュート回転するような鮮やかさです。あなたも空振り三振に仕留められるに違いありません。 上手い!

トラックドライバーという職業につきながら二人の子供を育てる生活は今にも破綻しそうです。

幸夫と下の子(長女)との絡みの場面はドキュメンタリー風の演出も施され秀逸です。極めてナチュラルな日常が画面に焼き付けられています。

幸夫は彼らの生活を助けることで彼らとの距離を縮め、やがて距離を置き、もとの生活に戻っていきます。

物語は「泣けない男」と「忘れられない男」を対照的に描き出す極めて定型的な表現形式を採用します。

見終わったあと当然に一筋縄ではいかない感慨にあなたはきっと覆われるはずです。

陽一親子と遊びに来た海辺の光景は美しいの一言です。亡き妻の幻影を認めるシーンはどこまでも穏やかで、映画の至福が味わえることでしょう。

人生は他者だ

疲労が重なり事故を起こしてしまった陽一を陽一の長男と共に迎えに行った幸夫は、関係に亀裂が生じていた彼らの和解を見届けたあと一人列車に乗り、帰路につきます。

幸夫と陽一の長男が地方の警察署に陽一を迎えに行くために乗車した列車での車中の会話はこの映画の白眉です。とてもきれいな時間の流れる出色のシーンです。

その列車の中で創作ノートに無心に記されたコトバのうち、象徴的な文句がクローズアップされるのです。

人生は他者だ

物語に即せばこの短い警句は三通りの意味を帯びていることが想像できるはずです。

  1. 自分の人生は自分のものでないかのように頼りなげで生きる実感を掴み取ることができない。
  2. 自分の人生には他者、つまり死んだ者(妻夏子)が途轍もなく大きな存在であったのだ。
  3. 人生というものは一寸先は闇であり、何一つ見通すこともできす、思い通りにならないものである。

妻の死を通じて、彼は「彼自身の真理」に触れることになります。

「人生は他者だ」という文句は「私とは一人の他者である」というアルチュール・ランボーの言葉を直ちに想起させます。詩人の定義に即すならば、人生とは「私」ひとりのものではないということになるのです。

長いお別れではなく

陽一が最愛の妻を忘れられないのは誰もが容易に理解できます。

それが人間の自然の情であるからです。

けれども悲しみの潮もいつかは引きます。

「激情」はやがて「記憶」に置き換わっていくのでしょう。

そのために「喪」があります。

生き残っている者の側のために喪はあるのです。

「長いお別れ」のための準備はいつも時間が用意してくれます。

女性学芸員の父子家庭への介入ぶりをみると、陽一にとって最愛の妻は「長いお別れ」の対象にいずれなるのであろうと観客は誰もが予感するはずです。

陽一親子との親密な関係性の構築維持に亀裂を走らせる学芸員の女。いつまでもこのような面倒は続けられないという幸夫自身の言葉から陽一が気を使った配慮(学芸員の好意を求めてしまう)が結果として気に食わないことに端を発した食卓での悪態が続く緊張感は、なかなかにお目にかかれない画面の強度に溢れかえっています。幸夫の未熟さが爆発する見事な演出と演技。

永い言い訳でなければ

永い言い訳とは本作のタイトルであると同時に、納得のいく作品が書けなくなった幸夫が物語の最後に発表する妻との20年間を綴った自伝的小説の題名でもあります。

「長い」ではなく「永い」が、「お別れ」ではなく「言い訳」の文字が採用されていることに、あなたは無視を決め込んでは決してなりません。

20年間ずっと言い訳していたと解釈するのであれば「長い」という語で十分でしょう。

多言を要するのであれば「長い」に決まっているはずなのです。

「永い」とは時計で計れる長さを意味していません。

「永い」とは「多くの言葉」つまり「数」とは無関係であるのでしょう。

一方、

言い訳というのですから、それは誰かに向かって語り続けるということに他なりません。

もちろん今はもうこの世にいない妻に対してです。

言い訳は妻を愛しきれなかった自分の罪悪感から発せられたものであるはずです。

「永い」とある限りは、一度切りではないのでしょう。

反復性が期せずして予感されています。

妻に語り続けるという幸夫の意志だけは我々にも理解ができます。

彼は語り続けることを選び取ったのだと言えます。

向き合い続けることを決意したはずです。

向き合い続けることが愛の別の名であることは今更言うまでもないでしょう。

愛し合うことが不可能な地点から彼は愛し直すという行為を始めようと試みます。

ラストシーンで遺品を丁寧に箱に収める幸夫が描かれています。

これを喪が無効化されたあとの行為と解釈してはならないでしょう。

逆であるはずです。

そうではなく、彼女を「思い出=整理された記憶」にしないために、目の前から消し去るのです。

視界から遠ざけることが選び取られます。

不在(妻)であるものを顕在化するために、目に見える遺品(存在)を不在化します。

彼女を常に心に留めるために、彼女を容易に連想させる物品を目に触れるところから排除するのです。

それらは、彼女にまつわる「思い出の品」であって、決して「彼女自身」ではありません。

彼女を連想させる物が連れてくる彼女のイメージではなく、彼の中にある彼女自身を心の中に形作ることが肝要なのです。

目に見えるものだけが真実ではないことを自覚した瞬間がそこに凝結しています。

言い訳という行為は自分のことを相手にわかってもらうために言葉を尽くすという努力に他なりません。

幸夫の行為を後の祭りと笑うことは簡単でしょう。

けれども、幸夫は向き合うことをただ選びとりました。

もしかすると、彼は自分のことを自分で探すところから始めなければならないのかもしれません。

冒頭のシーンで交わされた後片付けのやり取りが最後に活きてきます。亡霊のように観客の脳裏に浮かび上がってくるのです。対話の主体はあくまで幸夫であり続ける、そうでなければならないことが象徴的に語られていたのでしょう。 統合的な演出です。

永い言い訳にピリオドはありません。

少なくとも、男はそう決意したはずです。

言い訳をするときにだけ、幸夫は愛されていた自分に少しだけ近づくことができます。

愛されていた自分に近づくことができるとき、妻の夏子は彼のそばに微笑んで佇んでいることでしょう。

それがこの夫婦の「愛のカタチの現在形」なのです。

パドー

傑作です。

機会があればぜひご覧ください。

本作は乗り物が重要な位置を占めています。特に大型乗用車が決定的な役割を担います。妻の命を奪うバス事故。長距離トラック運転による家庭からの距離感。塾へ通うための通学バス。これらに加えて、列車もまた主人公たちを主人公自身へと運ぶ役割を帯びるのです。

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✒︎ writer (書き手)

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本サイト「シンキング・パドー」の管理人、人事屋パドーです。
非常に感銘を受けた・印象鮮烈・これは敵わないという作品製品についてのコメントが大半となります。感覚や感情を可能な限り分析・説明的に文字に変換することを目指しています。
書くという行為それ自体が私にとっての「考える」であり、その過程において新たな「発見」があればいいなと毎度願っております。

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