村上的不安からあなたは逃げ切れることができないのです
村上春樹氏の「アフターダーク」を読み直しました。
2004年に刊行されているので、十年以上前に初めて読んだことになります。
村上自身に大きな影響を与えた「阪神淡路大震災」と「地下鉄サリン事件」の影が作品には少なからず射しています。
彼は以前に次のような意味のことを言っています。
わたしたちの人生、生活の基盤は「暗闇」のようなものの上に乗っかっているだけであり、「暗闇」はいつでもわたしたちの人生や生活に顔を見せる。
人生や社会の脆弱性に警鐘を鳴らすこのようなメッセージは単なるネガティブ思想ではありません。
才能のある作家は「あなた自身の内にある言葉」を掴みだし目の前に提示するのです。
ほら、みてごらん。何が起きてもおかしくはないだろう。
残念ながら、あなたは村上的不安から逃れることはできません。
もしかすると、
そんなことはとっくの昔に気づいていて、達観と諦念を友として毎日を過ごされているのかもしれません。
君の言う村上的不安とやらは、人生のアクセント程度にすぎないのだ、と。
「不安」こそが私自身であると、きっぱりとあなたは言い切るのかもしれません。
もしもそうであるのならば、あなたの生の軌跡は余りにも文学的人生に似すぎてはいないでしょうか。
以下、小説の既読を前提として話を進めます。あらかじめご了承ください。
アフターダークの形式
「アフターダーク」は村上作品には珍しくナレーションが導入されています。
「私たちの視点」という語り部が物語の進行をリードするのです。
このような形式に違和感を覚える読者がいるかも知れません。
もちろんそこには意図が働いています。
それについては後ほど。
この物語はある一夜に起こった出来事が時系列的に展開します。
「マリという少女が行動する街」と「姉であるエリが眠る寝室」が舞台となります。
登場人物はそれほど多くはないのですが、それぞれが各章で主人公となり、彼(彼女)の視点で各々の章が構成されます。
登場する人物たちが交差したり、しなかったりしますが、マリを「ハブ」として関係していることが示されます。
このような統一感の仕掛けは読者にはおなじみのところでしょう。
タランティーノの「パルプ・フィクション」やジャームッシュの「ナイト・オン・ザ・プラネット」を思い出させます。
場所を巡る物語
「アフターダーク」の主題は「場所」です。
主題を明瞭化するために3人の人物がキーとなります。
- 私達の視点と呼ばれる「ある視点」
- マリという少女
- 訳アリのラブホテルの従業員コオロギと呼ばれる女
エリが眠る寝室あるいはTVの向こう側も重要です。しかしながら、それはエリの「心的問題の象徴としての空間」という理解ができるために、ここでは横に置くこととします。
私達の視点と呼ばれる「ある視点」
- 小説技法上からどのような場所にも自由自在に出入りします。
- 生起している事態については何らの干渉もできません。
- 「ベルリン天使の詩」のブルーノ・ガンツのような天使的存在。
マリという少女
- どこにも行けそうですが、自分のいるべき場所には決して行くことができません。
- 過去に囚われ続け、今を上手く生きることができません。
- 今立っている場所から逃避するために行きたくないところに行こうとしています。
訳アリのラブホテルの従業員コオロギと呼ばれる女
- 過去の過ちのために顔と名前を隠しながら、絶えず居場所を移動し続けます。
- 見つかればおそらく死が待っており、不安が消えることはありません。
- 過去から逃げ切れることを諦めています。
場所の困難
この3人の人物を通じて「場所」に関する困難が浮き彫りになります。
この困難はあなたにとっても他人事ではないはずです。
「場所」は常に「ここ」ではありません。
「場所」を移動し続けることは決して愉快なことではないのです。
「場所」を変える自由は生の充実を保証しません。
マリはふと思う、私はこことは違う場所にいることだってできたのだ。そしてエリだって、こことは違う場所にいることはできたのだ。
ここで述べられているのは後悔ではありません。
村上的不安の吐露に他ならないのです。
「ここ」などどこにもないことが直裁的な表現を取らずに我々の心に直接的に語られています。
アフターダークとは?
「アフターダーク」においてアフターダークとは「夜明け」をいささかも意味も示唆もしていません。
夜はようやく明けたばかりだ。次の闇が訪れるまでに、まだ時間はある。
物語は上のような文章で締めくくられています。
夜明けは来ます。
必ず来ます。
同時に闇は後退します。
けれども、時間が経てば、闇は再びやってきます。
そう、アフターダークとは「闇と闇の間の束の間の時間」を指すのです。
「闇の後」という意味にもとれそうなこのタイトルはやはり一筋縄ではいかなかったようです。
「アフターダーク」は、紛れもなく村上的不安を象徴するテキストなのです。
空間的な不自由が時間的な閉塞感に直結しています。
光の後ろには闇がすぐに控えているのです。
闇の後ろにも光は辛抱強く待っています。
ある意味、この終わりなき反復が、あなたの「生」に違いありません。
ところで、あなたは今「どこ」にいますか?