小説世界の優れた解釈である映画「蜜蜂と遠雷」の魅力
ベストセラー小説である「蜜蜂と遠雷」の映画化が実現し、10月より上映されています。
上映から2週間以上経ちましたが、本日ようやく観ることができましたので、以下に感想を述べます。
内容に言及しますので、あらかじめご了承ください。
映画化不可能と言われた作品を映画化するにあたって
原作者の恩田陸氏からの注文はただ一つだったそうです。
前編後編の二部作にしないこと
緻密に構成された500ページを超える長編小説を二時間あまりに収めることは至難の業です。
おそらく、製作条件が許すのであれば、二部構成として小説の世界観を損なわずに構成したいと映像作家なら誰もが思うはずです。
しかしながら、
原作者はそれをあらかじめ封じます。
これは想像ですが、原作を単になぞるのではなく、優れた解釈を示してみなさいというある種の試練(挑戦状)であったのでしょう。
監督(脚本・編集)の石川慶氏は真正面からそれを受けとめたようです。
原作の映画化のパターンについて
原作モノの映画製作のパターンは概ね次の5つに分かれます。
- 原作を冒涜するただの紛い物
- 原作を無視した全くの別物
- 原作の表象(アイテム)を忠実になぞった失敗作
- 原作の世界観を正しく理解し、原作の世界観を補強・補完する良作
- 原作の優れた解釈として成立している傑作
言うまでもなく、本作は「原作の優れた解釈として成立している傑作」に他なりません。
監督石川慶の解釈とは
小説というメディアを通して原作者の恩田陸は「音楽」をどのように表現するかを徹底的に考え抜き、「言葉(文章)」で音楽を奏でることに成功しました。
石川監督は、映画というメディアを通して小説世界の世界観をどのうように表現するのかを考え抜きます。
出した答えは至ってシンプルでした。
小説ではできないことを行う。
音楽、つまり「音」を前面(全面)に押し出すのだと。
音楽がテーマである物語なのだから音(音楽)の映画にするのだと。
ゆえに、
執拗に音にこだわりぬきます。
ここで言う「こだわる」とは、音以外の要素を徹底的に排除することを意味します。
本作には印象的な場面がたくさんあります。多くの方がまず始めに挙げるのが、月夜の連弾のシーンでしょう。特に印象に残ったのが、砂浜のシーンの冒頭部分です。まずマサルと亜夜が見え始め、時間差で明石と元同級生のジャーナリストが続き、少し遅れて、左横から塵が出てきます。俯瞰のカメラはどこまでも自然体です。遠すぎず近すぎず。
徹底的な排除
排除すると決めた限りは、潔さは相当なものです。
栄伝亜夜(えいでん あや)・風間塵(かざま じん)・マサル・カルロス・レヴィ・アナトールの3人の天才の関係性を必要最低限にしか描写しません。
と同時に、
3人の中の心理的葛藤という「文学的構成要素」をほとんど描こうとしません。
ほぼ全面的に放棄しています。
実際、観ている最中には、これは余りにも省略が過ぎるのではないかと心配したほどです。
しかしながら、
「音」を鳴らすための演出であると理解できた後は、その潔さに参りました。
人間関係や心理描写はスクリーンの上では不純物であり、不必要なのです。
本作に対して小説と比較すると、心理描写というものが著しく欠けているために、深みがない、表層的であるといった批判がみられます。
監督の演出意図を正確に理解するのであれば、それが見当違いであることは自明であるはずでしょう。
松岡茉優さんがどうしてこの役に抜擢されたのかが、映画を観てよく理解できました。松岡の演技が見せるナチュラルな素っ気なさを監督は演出上、何よりも欲したに違いありません。亜夜という役柄は凡庸な女優であれば「文学的苦悩」が前景化してしまうのです。「音」が主役の映画に「心理」が前に出ることは許されるはずがないのだから。
圧巻の音が主役
本作のクライマックスは本選における栄伝亜夜の演奏です。
ぜひ、映画館でご覧ください。
冗談抜きに、持っていかれます。
正真正銘の音の洪水が実現されています。
この演奏の演出をパーフェクトにするために、それまでの亜夜の演技をギリギリまで押さえ込んだ演出家と役者の力量はあっぱれの一言です。
セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(1891-1953)はロシアの作曲家・ピアニスト・指揮者。快活なリズム感は後代のロシアの作曲家に影響を与えた。
監督は「蜜蜂と遠雷」の意味をどのように解釈したのか
映画の中では、直接的にはタイトルの意味について言及されてはいません。
しかしながら、
音(音楽)それ自体が主題(主旋律)であることから私は次のように解釈しました。
世界からの祝福(世界の福音)
言うまでもなく、世界とは音楽に溢れた時空に他なりません。
本作は「音(音楽)それ自体」を主題としたために、その体現者である栄伝亜夜(松岡茉優)を主演と位置付けました。ゆえに、亜夜が蜜蜂、すなわち(音の)媒介(触媒)者の役割を担っています。これは小説の場合は風間塵であったために、明らかに異なった解釈となります。
本作に頻出する「雨だれ」と「黒馬」のイメージは「蜜蜂」と「遠雷」を容易に連想させます。栄伝亜夜の「音楽的成長」と「精神的克服」が問われるシーンに呼び出されるこの音的なイメージは「雨だれと黒馬」が亜夜にとっての「蜜蜂と遠雷」であることを示唆しているとは言えるはずです。