「君の膵臓をたべたい」は一筋縄ではいかない傑作
住野よる氏の原作を元にした実写映画である「君の膵臓をたべたい」は、原作である小説やアニメ映画化作品とは一線を画した作品です。
小説とは異なる12年後の世界を物語の核としていることもさることながら、青春小説であり、恋愛小説である原作を限りなく純化した物語世界を展開している点が他と比較して非常にユニークです。
以下、内容に言及しますので、あらかじめご了承ください。
一周回って、あなたが好きだに到達!
「君の膵臓をたべたい」というタイトルの意味を見終わったあと、結構長い間考えていました。
出した答えは、
アイ・ラブ・ユー(あなたのことがとても好きです)
という結論です。
多くの人が、そんなことはわかりきっていると言うかもしれません。
「食べてしまいたいほどかわいい(好き)」という例えがあるように、強い好意を示した比喩表現に過ぎないという、あなたの断定が聞こえるようです。
この凡庸と見紛う結論に至ったプロセスは次のとおりとなります。
- 映画を見終わる
- タイトルの意味を考える
- 単純に「あなたのことが好きです」の別表現ではないか
- 映画の完成度の高さから単純な意味ではなさそうだ
- 相手へのリスペクトのほうが重いのではないか
- あらためて映画を見てみる
- 至るところに敬意を表す表現がちりばめられている
- リスペクトに違いあるまい
- なぜヒロインは手紙の中で、私の膵臓をたべてほしいではなく、君の膵臓をたべたいと言ったのか
- あらためて映画を見直す
- 最後のシーンの意味を考える
- どうやら混じりけのない恋愛映画を成立させるために、あえて、リスペクト色を強めている仕掛けのようだ
- 100%の恋愛映画であると受け入れる
- 一周して、タイトルの意味が「私はあなたのことがとても好きだ」という解釈に至る
この映画はある意味、
意地の悪い映画です。
もちろん、褒め言葉です。
そして、
まぎれもない傑作と言い切れます。
本作に対してご都合主義や偶然がすぎるという批評をやたら目にします。 物語世界に過度の整合性を求めるのは鑑賞者ではなく学者の態度であると思います。 例えば、病院の待合室で、偶然に彼女が落とした日記(共病文庫)をクラスメイトが拾うというシーンを偶然にも程があるとする指摘ももちろんあるでしょう。 しかしながら、これはヒロインがわざと拾ってもらうために故意に仕掛けたのだとすれば、整合性大好きのハリウッド風脚本に落ち着くと思われます。 物語世界の世界観確立のためにはもちろん「偶然」に軍配が上がります。
純愛と崇高のあいだ
本作は「膵臓をたべたい」というあまりに直接的な肉体的な関係が口にされています。
にもかかわらず、ここにはまったく性愛は描かれていません。
それゆえに、
この作品は青春映画であり恋愛映画のジャンルに属すると一般に理解されるはずです。
あなたも、恋愛手前の、恋愛の誕生の物語であると何らの疑問も抱かずに解釈するはずでしょう。
その一方で、
これは単なる純愛ストーリーではなく、もう少しばかり「崇高なもの」が描かれているに違いあるまいと言い立てる人もいるはずです。
そのような見方に立つ人たちは「君の膵臓をたべたい」という言葉に次のような意味を見出すはずです。
- あなたのように強く生きたい
- あなたを心から尊敬している
このようなニュアンスが全く無いとはもちろん言いません。
実際、
私自身も、このような線のみに沿って映画の解釈を当初は試みていました。
けれども、この線はどうも本筋ではないなと思うようになったのです。
恋愛映画の傑作である本作は映画としてもクオリティーが極めて高い作品です。 そのことは、冒頭近くの校内のシーン、野球部のランニングと主人公のひとりである春樹との交差の場面に顕著にあらわれています。 すれ違いざまに12年後の主人公の現在へと場面転換する演出はどこまでもスマートです。 そればかりではなく、クラブ活動とのコントラストにより主人公の孤独な立場を表現するとともに、運動部員の健康さとヒロインの死の影を見事に浮き上がらせることに成功しています。このようなさりげなく心憎い演出が随所に光ります。
恋愛映画と思わせない仕掛け
本作は、膵臓の病気のために余命幾ばくもないヒロインの桜良(浜辺美波)とあらゆる人間関係を絶とうとする目立たないクラスメイト春樹(北村匠海)との出会いと別れが描かれています。
主人公の名前から村上春樹を連想する人は多いです。 村上春樹その人というよりも、村上春樹的主人公と言ったほうがよさそうです。 春樹が自己完結的時空である図書室を愛していたことは、容易に「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の主人公(僕)を連想させます。
最後の最後まで、お互いに直接に名前を呼び合うこともなく「きみ」と呼びかけ続けました。
別れから12年後に発見された遺書のような手紙には、桜良がどうして自分のことを名前で呼んでくれなかったのかという心情があらわになります。
このことから、羞恥や臆病さに代表される恋愛前夜の甘酸っぱい香りであなたも胸が一杯になるかもしれません。
その逆に、恋愛関係よりも高次である関係にふたりはあったのだという評者も同程度いるはずです。
いわゆる、ソウルメイトの関係であったのだという考えです。
この二人の名前の一致を見るにつけ、あながちただの思いつきではなさそうに思えます。
春樹とは、春の樹。つまり桜良(さくら)、桜にほかなりません。
ふたりは元々同じ魂を持って離ればなれになった片割れ同士なのだ、と。
このような解釈を残す余地を散りばめる演出の「意地悪さ」に翻弄されたのは私一人ではないはずです。
注目しなければならないのは、決定的な演出として、
春樹が桜良に、そして桜良が春樹に「君の膵臓をたべたい」という言葉を書く前の「セリフの存在」があげられます。
春樹が桜良に対して、
「君は本当にすごい。僕は君になりたい。(中略)こんな言葉じゃ百並べても言い足りない。僕は本当は」と書いたところで、全文を消去し、「君の膵臓をたべたい」の一文のみをメールします。
桜良は春樹に対して、
手紙の中で「私ね、春樹になりたい。春樹の中で生き続けたい。そんなありふれた言葉じゃダメだよね。私はやっぱり」のあとに続けて「君の膵臓をたべたい」と書きます。
以上のようなふたりの気持ちを知ってしまった観客のあなたは、相手に対する強いリスペクトの気持ちに注目せざるを得ないはずです。
純度100%の恋愛映画
この物語が優れた恋愛映画であるゆえんは、ヒロインが膵臓の病で天国に召されないところにあります。
ただの恋愛映画であるならば、ヒロインが死を迎えるまでの間の闘病生活を延々と描いていたことでしょう。
ゆえに、唐突に、通り魔事件に巻き込まれなければならなかったのです。
闘病生活におけるふたりの愛の深まりが描かれていたのならば、それはただの恋愛事情映画となります。
そこには、薄められた恋心がただただあるばかりです。
恋愛を鮮烈に描き出すために、突然の死による、きちんとしたお別れを宙吊りにしてしまいます。
12年後に発覚する手紙の中に書かれている「君の膵臓をたべたい」という言葉は、死ぬ運命にある者が口にするにはどうにも奇妙なセリフであると言わざるを得ません。
なぜなら、
あと少しで命の火が消えるヒロインは、自分のことを忘れないでほしい、あなたのなかで生き続けたいという思いを強く持っています。
ゆえに、
「あなたにわたしの膵臓をたべてほしい」と乞い願ったはずなのです。
けれども、
口にされたセリフ(書かれた言葉)は、「(私が)君の膵臓をたべたい」となっています。
もうおわかりでしょう。
「あなたのようになりたい」という敬意は後方に吹き飛びます。
最後の最後に、相手に対する敬愛の念を突き破り「愛」が全面展開してしまうのです。
同時に、春樹から桜良にあてた最後のメッセージも同じ言葉であったことを思い出してください。
「君の膵臓をたべたい」は「あなたのことをとても好きです」としかあなたにも聞こえないはずです。
二人の間においてだけ、この言葉の意味は真の輝きを見せます。
お気付きの通り、
本作は恋愛映画にもかかわらず、「好きです(愛しています)」という言葉がまったく言語化されていません。
なぜなら、
100%の恋愛映画が目指されたために、恋愛の純度がとことんまで「待った」をかけられたためです。
演出上、好きです(愛している)の安売りはあくまで禁じられていました。
夾雑物が巧妙に取り除かれ、
純度100%である「あなたのことをとても好きです」だけが物語の最後に「声」となります。
どこまでも印象深いラストシーンを思い出してください。
ヒロインの言葉は、時を越えて最愛の者にようやく届きました。
その時、二人の間で恋愛の結晶は永遠となったに違いありません。
恋愛映画の中で、
「あなたのことが好きです」という言葉が語られずに、観客にこの言葉を強烈に意識せざるを得ない映画というのは、本作をおいて他にはないでしょう。
本作と同様に、映画のタイトルが、そのままラストのセリフとなる映画に「戦場のメリークリスマス(原題:メリー・クリスマス、Mr.ローレンス)」があります。 本作の場合、画面が一瞬、ブラックアウトし、セリフのみが聞こえてきます。 これはもうこの世に桜良はいないという不在の演出であると同時に、ヒロイン役の浜辺美波さんの声の素晴らしさを最大限に活かしきった演出であると思われます。