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「幕末太陽傳」極楽であり地獄でもある、生の在り方

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監督川島雄三の傑作喜劇は今も全く色褪せない

1957年に公開された「幕末太陽傳」は喜劇映画の大傑作であり、そればかりではなく、日本映画の史上に輝く重要作品としての地位を年々確かなものにしています。

本作は、これまでにさまざまな批評・解釈がなされており、その大半が監督川島雄三個人の事情と絡めながら論評されてきました。

特に、彼の持病(筋萎縮性側索硬化症)に照らしながら、主人公の言動やラストシーンに「生への希求」を読み取ろうとします。

あるいは、当時の制作会社である「日活」との関係性を反映させながら、その闘争的=逃走的姿勢を殊更に強調しようともしています。

そのような解釈は、作品理解の助けとなることは事実であり、戯作魂や反骨精神を旺盛に発揮していた川島の言動とも極めて親和性の高い解釈であることは誰も否定できないでしょう。

このような解釈の筋に概ね沿いながら、以下、ラストパートを構成する理屈っぽい客である杢兵衛大盡(市村俊幸)と主人公佐平次(フランキー堺)のやりとりを通して考えたことを書き記します。

内容に言及しますので、あらかじめご了承ください。

あらすじ

出典:日活ウェブサイト

以下、日活のウェブサイトからの引用となります。

時は、幕末、文久2(1862)年。東海道品川宿の相模屋という遊郭へわらじを脱いだ佐平次(フランキー堺)は、勘定を気にする仲間を尻目に、呑めや歌えの大尽騒ぎを始める。しかしこの男、なんと懐には、一銭も持ち合わせていなかった…。居残りと称して、相模屋に居ついてしまった佐平次は、持ち前の機転で女郎や客たちのトラブルを次々と解決していく。遊郭に出入りする攘夷派の高杉晋作(石原裕次郎)らとも交友を紡ぎ、乱世を軽やかに渡り歩くのだった。

日活の記念映画でありながら、当時のスターである石原裕次郎、二谷英明、小林旭を脇に置き、喜劇俳優であるフランキー堺を主人公に据え、落語の「居残り佐平次」「品川心中」「お見立て」などをベースにしたオリジナル脚本にて喜劇を撮りあげてしまう川島の感性と肝の座り方はやはり尋常ではありません。

先の封切り時のポスターを眺めてみるに、主人公が全面に出ていない構成(もっとも当時はキャストにある程度平等に紙面の割り振りがなされていますが)からも、紆余曲折を経ての制作・公開の苦労が偲ばれます。

本作は、身体性に徹底的にこだわったフィルムであると言えます。女郎屋の中を縦横無尽に飛び回る佐平次の身体能力の高さは彼の機智以上に執拗に描かれています。と同時に、胸患いゆえの情事の禁止や若旦那が座敷牢に閉じ込められるなどの身体的不自由も表現されています。川島が持つ身体的ハンディキャップが少なからず演出に影響を与えているだろうことは想像に難くありません。

目の覚めるような演出

出典:日活ウェブサイト

映画の困難のひとつに、これから始まる物語がどのようなものであるのかをできるだけ短い時間を使って観客に理解させるかがあります。

なぜなら、監督が描きたいのは、設定状況ではなく、主題であるからです。

上映時間という物理的制約がある限り、1秒でも多く主題に時間を割きたいのは言うまでもないでしょう。

下手な演出であれば、何が始まっているのか、どこに行こうとしているのかが、いつまで経っても理解できずに、見る側のフラストレーションばかりが時間の経過とともに増大します。

説話論的な困難を宿命づけられた映画の不自由を川島はいとも簡単に飛び越えていきます。

その軽やかさは驚嘆の一語です。

オープニングの最初の10分間のうちに、主要登場人物が登場するだけでなく、それぞれのキャラクター性が随所に発揮されているのです。

唯一の例外は貸本屋金造(小沢昭一)のみとなります。彼がオープニングの時間帯に品川宿の遊女屋である相模屋に登場することは不自然であるので、登場しないことの合理性は確保されていると言えます。

これを神がかり的な演出と言わずして何をそう呼ぶのでしょうか。

自分の知る限り、本作と同様な神がかり的な演出を実現しているのは「千と千尋の神隠し」一作のみです。

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理論派の田舎者

出典:日活ウェブサイト

本作の最後のパートを構成するのは、杢兵衛大盡(市村俊幸)と主人公佐平次(フランキー堺)とのやりとりとなります。

明け方までに相模屋を後にしたい佐平次は、同僚からの頼みを断りきれず、千葉の田舎者の杢兵衛への対応を余儀なくされます。

これまで、多くのトラブルをその頭の回転の早さと実行力で始末をつけてきた佐平次ですが、どうにも杢兵衛に対しては切れ味鋭くというわけにはいかないのです。

方言が醸し出す鈍重さとは裏腹に、その合理性に富む思考によって、佐平次はタジタジとなります。

軽くあしらうことなど到底できなく彼は窮します。

思わず口を突いた嘘からその場を逃れたかに見えましたが、店先で待っていた杢兵衛につかまり、やむなく墓地へと同行するはめに陥ります。

口から出まかせがいよいよ通用しないとなった時、佐平次は一目散に逃げ出し、ここでエンドロールとなります。

本作には悪人は登場しません。善悪とは価値観の相違であるという思想が貫かれています。相対的に見れば、立場を変えれば、すべてはちょぼちょぼであり、どっこいどっこいであることが表現されているのです。これを理想主義とみるのか、それとも達観と見なすのかは、あなたの「主義主張」次第でしょう。

杢兵衛が象徴するもの

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杢兵衛が象徴するものは次の通りとなります。

杢兵衛的
佐平次的
  • 野暮
  • 理屈
  • 薩長(新政府)
  • 明治
  • 経済的
  • 合理性
  • 大義
  • 雰囲気
  • 幕府
  • 江戸
  • 芸術的
  • 文化性
  • 伝統

川島が表現したかったものは、上記のような対比(コントラスト)に他なりません。

簡単にいうと、体制や組織を維持するために、理屈や合理性が過度に求められました。

それは、明治政府であろうと、戦後の高度経済成長であろうとそれほど変わりはありません。

川島は、そのような効率性や生産性に「否」をつきつけないまでも、嫌悪を示しました。

彼が肯定すべき対象は、ある意味、「余裕」の象徴である映画であり映画制作なのです。

父親の借金のかたに女中として働かされている娘のおひさ(芦川いずみ)は、自分の頭で考える「新しい人間」として描かれています。彼女は「杢兵衛的なもの」と「佐平次的なもの」の中間体であり、非常にバランスの取れた、現実に足をつけた合理主義者であると言えます。彼女の言動の底に流れる合理性の健全さに佐平次は共感し、彼女のために人肌脱ぐのです。

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彼の「文法」の中には芸術性はさほど重要ではありませんが「余裕」は不可欠であったはずです。

思い出してください。

彼には健康上の余裕などひとかけらもなかったのです。

であるために、自らが作り上げるものについては、文字通り命懸けで取り組んでいたことでしょう。

誰よりも余裕を希求していたのが、他ならぬ監督川島雄三なのです。

佐平次は云います。

えぇっ、地獄も極楽もあるもんけ。俺はまだまだ生きるんで。

これが川島の魂の叫びと重なることは今更いうまでもないでしょう。

と同時に、

彼にとって、生きることそれ自体が「地獄」であり「極楽」であったこともまた事実であるに違いありません。

死んだ後の極楽にも地獄にも彼は関心も興味もなかったのでしょう。

ただただ生きる。

健康上の「余裕」を一切持たなかった川島が、誰よりも「余裕」を持って映画を撮り続けていたことは、彼の反骨心の現れを示すものであり、同時に、彼の輝ける生の在り方を象徴していたはずなのです。

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