人間の「業」に迫るヒューマンサスペンスを見逃してはならない
「第2回WOWOWシナリオ大賞」受賞作品を映像化した本作は、2010年にテレビ放映され、その後1週間限定で劇場公開された作品です。
ヒューマンサスペンスであり、サイコパスを主人公としたドラマという位置付けとなります。
102分間のなかに、確かな演出が随所に光る良作です。
以下、内容について言及しますので、あらかじめご了承ください。
ストーリー
以下、WOWOWからあらすじを引用します。
三辺陽子(永作博美)が出社すると、会社は大変な騒ぎになっていた。部長の伊東が自殺し、課長の今西(西島秀俊)が行方不明になっているという。陽子は取りあえず葬儀の手伝いに行くが、部長の妻、牧子は何故か今西の話ばかりをする。葬儀の後、陽子は副社長に呼び出され、今西が横領で逃げている疑いがあると聞かされる。しかもその証拠を伊東部長が握っていたという。陽子は会社の命令を受け、今西を探すことになるが…。
WOWOW
優秀な今西の行方を追っていく途上で、彼の知り合いの口から、三辺はいくつもの意外な顔を知ることになります。
口車の男
主人公の今西は、幼少期を特殊かつ過酷な環境(有名な義太夫の家元を父親に持つが、母親は妾であり、内弟子として父親の家に寝起きしている身)で過ごしてきた、ある種の犠牲者です。
彼の心の支えは、赤ん坊の頃に父親が買ってくれた簡素な赤い万華鏡であり、それを覗き込む時間です。万華鏡を通して見る世界はいつも美しく、現実の過酷さや醜さをひととき忘れさせてくれます。
現実からの逃避を可能にしながら、現実との唯一の接点のような役目を果たす万華鏡は、彼にとっての「命綱」のような代物です。
ある日、腹違いの兄によって密かに万華鏡は捨てられてしまいます。
それから、彼は現実に対して心を閉ざすようになり、発揮されていた芸事の才能も輝きを失います。
年を経て、直接的には自ら手をかけない巧妙な形で兄への復讐を遂げ、そのために悲惨な結果が生じることとなります。
今西の行方を突き止める過程において、三辺は関係者の重要な決断の場面で、今西が決定的な役割を果たしている事実を知ります。
彼は、当事者の選択肢を周到に狭めていき、あくまで自発的な意志に基づき結論を選びとる地点まで彼らをうまい具合に連れていきます。
選び取られた結論は常に当事者の負担となり、彼らの幸せを削り取るのです。
自らの頭脳の明晰さを活用し、相手を結果として不幸な境遇に導いてしまう彼の話術は極めて悪魔的と言えます。
相手の立場・境遇にとことん立っていると思わせながら、その実、自分の思い通りの結末へと誘導してしまう操縦・掌握の喜びを何度も噛み締めるために、彼は関わった人間に働きかけるのです。
彼の口車に乗ったが最後、誰もが彼の用意するゴールに転げ落ちていくしかないのでしょう。
蛇とは
蛇とは、人の心の中に巣食う「邪な部分」を象徴した語句です。
邪(よこしま)とは、道を外れた、すなわち正しくない、という意味となります。
蛇(じゃ)は邪(じゃ)に通じ、人が持つ弱さやズルさ、醜さを指します。
蛇のひと
ラスト近くで三辺は人は誰もが心の中に「蛇」がいるというような一般論を口にします。
完全な善人など世の中には存在しないとするならば、彼女の意見は概ね正しいでしょう。
であるならば、なぜ本作のタイトルは、「蛇」や「人の蛇」とはならずに「蛇のひと」となっているのでしょうか?
本作が、誰もが程度の差はあれ、心の内に巣食っている「邪悪な部分」にフォーカスするのではなく、「蛇=邪」それ自体と言わざるを得ないような人間を描くことを目的としているからに他なりません。
「蛇のひと」とは、今西を指すのでしょうか。
もちろんそうですが、彼ひとりではありません。
「蛇のひと」とは、今西と三辺を指します。
蛇である印
失踪した今西を捜索するように命じられた三辺は、捜索の過程のなかで今西という人物の正体に近づいていくと同時に、自分自身の正体をも「発見する」こととなります。
彼を追うことで、彼の思考に似通ってしまうというのではなく、自身では気付いていなかった今西と共通する資質に期せずして向き合ってしまうのです。
演出は、ふたりが、ふたりだけが「蛇のひと」であることをスクリーンのここかしこで教えてくれます。
蛇の隠喩である「建造物」を思い出してください。
オープニングで俯瞰的に撮られた吹き抜けの階段が、蛇のトグロに似ていることは偶然ではありません。
彼女が退勤するときに、ひとりで階段を降りていったシーンに続き、翌朝の出社の場面で従業員たちが階段を昇っていくその運動の軌跡に「蛇のうねり」を見ることはそれほど難しくはないでしょう。
今西と三辺は事務所の階段の上と下で、重要な会話をすることからも、ふたりが「同族」であることは明らかです。
夏の盛りに外出先から事務所の三辺に電話をする今西が寄りかかる歩道橋の壁面のカーブが「何か」に似ていることをあなたは記憶していることでしょう。
三辺が徒歩で移動するシーンにおいて、執拗なまでに高速道路のカーブが描かれていたことを振り返ると同時に、海に飛び込もうとする今西が見上げる空の半分を電線が走っていることにあなたは注意しなければなりません。
およそ今西のイメージに似つかわしくないと断定される赤いボディのアルファロメオ に座ったのは、今西と三辺のふたりだけなのです。
同僚の田中が車内に乗り込むことは巧妙に回避されています。
アルファロメオ のエンブレムに大蛇(ドラゴン)が記されていることはもうご存知のはずでしょう。
本作のキーアイテムとなる赤い万華鏡の所有者が、今西と三辺のふたりであった事実から目をそらしてはいけません。
映画の冒頭で、夜に口笛を吹くと「蛇」がくるからやめなさいと、残業中の三辺は戻ってきた今西に忠告を受けます。
三辺が帰る間際に「蛇に気をつけや」と口にする今西と振り返る三辺が見つめ合うシーンは示唆的です。
今西は、既に三辺のなかに、自分と同じ匂いを認めていたのかもしれません。
数え上げればきりのないこれらの映像的証拠は雄弁に物語ります。
ふたりだけが「蛇のひと」であるのだと。

希望としての赤
今西なら次にどうするのかを考えたときに、三辺が導き出した答えは、彼は必ず三辺の恋人のもとを訪ねるという結論でした。
今西のアルファロメオ を無断で拝借し、夜の街をひた走ります(うねる高速道路を走ります)。
予想通り、今西はそこにいます。三辺が来ることを今西も予想していたかのようです。
この後に続く、二人のやりとりは本作の白眉です。
一見すると恋愛感情を控えめに語り合う場面が、実は高度な心理戦であるというセリフの二重性にあなたは酔いしれることでしょう。
三辺の「私がずっと見張っています」というセリフは「あなたと一緒に人生を歩んでいきたい」という意味を生成しながら、一方で「あなたの手口は全てお見通しである」という強いメッセージを放ちます。
観念したかのように、全てを終わらせたいと走らせた車のダッシュボードにある付箋のメモに気づいた男はブレーキペダルを慌てて踏み込みます。
そこには彼女からの贈り物である簡素な「赤い」万華鏡が納められていました。
失踪直後、今西には似つかわしくない派手なカラーであると吐き捨てられた、アルファロメオ の「赤」は、もちろん万華鏡の「赤」に共鳴しています。
彼に似つかわしくないのですから、それは邪悪とは異なる「道を外れていない」ことを示すカラーであることは、今更言うまでもないでしょう。
彼を「正しいところ」に繋ぎ止めていたものの象徴が万華鏡となります。
それは特別な色なのです。
希望をほのめかす奇妙なラスト
描かれているテーマが重いものにもかかわらず、観終わった後に、奇妙な清々しさをあなたは覚えることでしょう。
なぜなら、ごく控えめにそこには「希望」が記されているからです。
ラストシーンにおいて、三辺は夜の街を口笛を吹きながら歩きます。
引きのカメラが捉える彼女の姿の背後には常に明かりが点っています。
これを撮影上の要請と捉えるのならば、演出の妙みをあなたはつかみ損ねることでしょう。
それは紛れもなく、希望を表しているのです。
エンディングで彼女が立ち止まり、自分のために買った赤い万華鏡を覗き込むその顔は穏やかであり、晴々としています。
彼女が覗き込むその先には、あの高速道路の「うねり」が認められます。
蛇が頭の上に覆いのようにかぶさっています。
彼女が依然として「蛇のひと」であることが理解できるはずです。
万華鏡を通じて、彼女は「蛇=邪」を覗き見ます。
それが例えかりそめのものであったとしても、現実は、彼女には美しく見えるのです。
万華鏡を通じて世界に接すること。
これは生きるための、生き残るための技法です。
刹那的な、その場しのぎの対処法であるという断定は簡単ですが、これを邪道という権利は誰にもないのだから。

