昭和の文学的風景(まとめ)

投稿日:2017-01-18 更新日:

 

文学的記憶⇒

昭和の人間なので、昭和の文学に慣れ親しんできました。

さすがに以前にご紹介した4つはリアルタイムでは読んでおりません。

いずれも、大学生になって集中して読んだ作品です。

これ以外にも、少なくない量を読んだにもかかわらず、いざ文章にしようと思うと、またしてもこの4つぐらいしか頭に浮かびませんでした。

恐ろしいまでの記憶力の悪さ、あるいは、それほど鮮烈な印象深い作品であったか。

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中上健次の「岬」

すごい作品です。

戦後生まれの作家が初めて受賞した芥川賞作品。

これは発表後三部作となります。

「岬」、「枯木灘」、「地の果て至上の時」

いずれも傑作です。

この中で「枯木灘」を非常に高く評価する人もたくさんおられます。

が、わたしはこの「岬」が最も気に入っています。

シンプルだから。

漱石に通じるシンプルさ。

説明がいささか不親切となりますが、コンプレックスの対概念としてのシンプルではない、シンプルさです。

生命の根本原理そのものを鷲づかみし、文字を付与したような潔さと静けさ。

やっぱ、凄いわ。

 

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「岬」はシンプルという魔力に満ち満ちている

坂口安吾の「風と光と二十の私と」

なんなんでしょうね、このアットホーム感とみずみずしさは。

安吾自身は、がらんどうそのものなのに、小説は親密な気配をあたりに撒き散らします。

角川文庫を片っ端から読みあさったことが思い出されます。

大学での畏友が安吾狂いでしたから、その影響をもろに受けております。

感化されやすいタイプなんです。

おかげで、読書の幅は広がりました。

安吾は徹底的なリアリストです。

現実を類まれなる感性で切り取り、現実が現実以上のものとして提示されます。

目の前に差し出された「現実」は全然よそよそしくなくて、懐かしい。

安吾は、常になつかしい。

 

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「風と光と二十の私と」の良さをなんとか伝えたいのだが

小林秀雄の「無情という事」

数年前、センター試験に十数年ぶりに登場し、受験生を恐怖のどん底に叩きつけた批評の神様。

神様をあのタイミングで平成っ子にぶつけるとは出題者のセンスを疑いたくもなるでしょうね。

教科書ではじめて彼の文章に接して以来のファンです。

プロの売文家です。

もちろん、褒め言葉です。

銭を取れる文章の達人。

言うまでもなく、賛辞です。

小林は、分からないことは一切書きません。

わかったことだけを正直に丁寧に書きます。

ゆえに、その文章は常に倫理的です。

倫理的な文章というものに、今ではすっかりお目にかからなくなりました。

言うまでもなく、これはポリティカルコレクトとは似て非なるものです。

しびれます。

 

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小林秀雄のいう「無常と言う事」を我々は何一つ理解していない

武田泰淳の「富士」

「富士」を越える小説にやはり、いまも会えずじまい。

一番好きな小説の地位は何十年も変っていません。

が、一番読み返す小説は「ねじまき鳥クロニクル」です。

読むたびに発見はないです。

そんなんじゃなく、読むたびに、ああ面白かったです。

稀有です。

さて、泰淳の作品は、「富士」以外にもたくさん目を通しました。

口の中で溶けるアイスクリームのように、馴染みます。

知性をしっかりと堪能できる文章が延々と続きます。

感嘆しかないです。

長い物語を所望、渇望する折は、是非、「富士」を手に取ってください。

読む前と読んだ後に確実に違いを体感できるザ・文学です。

 

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「富士」、一等の文学

昭和の文学

昭和の文学も様々あって、戦前、戦中、戦後前期、戦後後期など、バラエティーに富みすぎています。

そのなかで、「第三の新人」は特に好きで、遠藤周作や安岡章太郎はむさぼり読みました。

時代は下り、ダブル村上の登場以降、彼らの作品はほぼすべて通読しています。

ありがとう、龍&春樹。

平成の文学、乱暴にくくりすぎますが、平成の文学が嫌いなわけでは決してありません。

それなりに、たくさんの作品を渡り歩きました。

いいものもあれば、そうでないものもあった。

ただ、昭和の文学のように、私の中で固まったイメージを掴みづらい。

なので、茫漠とした印象を持ってしまう、ただそれだけのことです。

残存記憶

昭和が特殊であったわけではありません。

ただ、多くのことが複雑に私自身に結びついていて、スペシャルなだけです。

昭和の文学が有効に機能しえたのは、昭和の文学的風景が時代によって担保されていたからに他なりません。

ゆえに、今日的状況に鑑みれば、文脈が異なるのですから、当然に違った読み方がされるべきでしょう。

それが、読み手自身に有効性を発揮するか否かは、読み手自身の問題であるはずです。

私自身は、今もって、作品が発信するパルスのようなものを感受することができます。

残存記憶を愛でるような、慈しむような年齢になったからでしょうか。

 

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