健康の定義からはじめよう
WHO(世界保健機関)の定義によれば、健康の定義は次のようになります。
健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。
著者はこの定義における重要なポイントを2つあげています。
一つ目は、霊的、すなわちスピリチュアルな面の追加。
これは、「精神的なものの延長上にある人間の尊厳、意味、希望、平安といった、主観的な要素」と考えられるようです。
二つ目は、動的状態。
これは、「ひところ流行った動的平衡とほぼ同じイメージ」でとらえてよいとのことです。
この定義に従えば、わたしは生まれてこの方、健康状態にあったことはほぼほぼないことになってしまう。
健康を死守せよ
健康は、一度成立したら放っておいてもその状態が維持されるほど盤石なものではない。
健康とは、健康を悪化させようとする動きとそれを守ろうとする動きのせめぎ合いのなかで、微妙に微妙に保たれるバランスそれ自体にほかならない。
ゆえに、ゴールはありません。
ということは、死ぬまで追求しなければならないものなのです。
けれどもそれは、健康的な発想と言えるのでしょうか。
健康を志向することは健全な思考です。
しからば、健康を過度に志向することは?
おそらく、不健全なんだろうな。
健康に関して何か書くとは思ってもみなかったラカン派の精神病理学者が書いた本書は、健康的な不健全性(?)に満ち溢れています。
健康に対するパラダイムシフト
従来の医学は「疾病生成論」、現代医学は「健康生成論」、なのだそうです。
- 病気のリスク・ファクターに焦点を当て、その軽減と除去を目指すためのものが、疾病生成論。
- 単に病気の治療を目指すのではなく、健康を高め強化するファクターに着眼し、その支援・強化を目指すためのものが、健康生成論。
医療の現場でパラダイムシフトが起こっているらしい。
著者は言います。
- 従来は、個人の心身に発生したマイナスとしての病気を除去して、元の状態に、ゼロにすることが、医学の基本的な役割であった。
- 現代の医療においては、客観的指標のみならず、患者の主観的な健康度が問われなければならない。
データがすべて正常値であったとしても、主観的な健康度が低ければ、治療的対応や支援が継続されるべきなのである。
キメが細かくなってきている。
ただ生きているだけでは不十分であり、より高い生活(生命)の質が問われるということ。この「質」の評価にこそ、主観的な健康度が反映されるのである。
ここには、もちろん副作用的な問題が避けられません。
実際に病気ではない問題までも病気として扱うことを「医療化」と呼ぶが、主観に照準しすぎることで過剰な医療化を呼び込んでしまう恐れがないとはいえない。
ことはこれだけに収まりません。
むしろ、問題は、本人が苦しんでいるにもかかわらず、その体験が名付けられないために、援助希求行動、すなわち誰かに助けを求めることが難しくなってしまうことのほうではなかったか。
このような観点から現代の健康概念は明らかに新たな視点を要請しているのだと、著者は断言します。
新しい健康概念は、生物学的な要因のみならず、社会、心理、文化的要因への視点を要請するものである。
ああ、ミッシェル・フーコーが偲ばれる。
健康はどこに向かうのか
健康が欲望の対象であるならば、当然にそれは商品化への道程は避けられず、資本主義の内部において格差・序列が構築されるこは不可避です。
このような「懸念」を念頭に置きながら、著者は次のように言います。
しかしその一方で、健康を静的な「状態」でなはく多様な「過程」と捉え直すことで、たんなる「幻想」という理解に新しい分析の光を導き入れる可能性が開かれるかもしれない。
健康生成疑念の検討ははじまったばかりなのです。