多大な時間が投入された訳業の全貌が明らかに
思い入れたっぷりに訳書一点一点が写真とともに自らのコメント付きで紹介されています。
その数、なんと70点余り。

すごい数です。
36年間の達成が一望できるお得本です。
本書の構成
本書は、次のような構成になっています。
翻訳作品クロニクル1981−2017
これまでの翻訳を一点一点カラー写真入りのコメント付きで解説。
満載のカラー写真は村上氏の蔵書から撮影されたもののようです。
ジャズ関連のショートエッセイの翻訳作品が一点掲載。
翻訳業の師匠役である柴田元幸氏との対談。
「翻訳について語るときに僕たちの語ること」前編と後編。
以上のような構成ですが、相変わらず「はじめに」における著者の文章が肩の力が抜けていて好感が持てます。

村上春樹の魅力は「はじめに」と「あとがき」が抜群にいいところなんです。
なぜ翻訳という作業を続けるのか
このような問いに対して著者はたったひとつの答えを用意しています。
ただただ好きだから。
うまくは説明できないけど、とにかく翻訳という作業が好きで、小説を書いている時期であっても、時間が余ればつい手が伸びてしまう。好きな音楽を聴きながら、好きなテキストを翻訳していると、とても幸福な気持ちになれる。
横向きに書かれた文章を縦向きに変えてしまう作業がとにもかくにも面白くてたまらないのだそうです。
それはもう「個人的傾向」という言葉でしか括れないものなのでしょう。
翻訳の作業を通して、文章の書き方を学び、小説の書き方を学んだと言います。
そして結果的に(あくまで結果的にだが)、優れたテキストを翻訳することが僕にとっての「文章修行」というか、「文学行脚」の意味あいを帯びることになった。

小説の師も文学仲間もおらず、独力で小説の書き方を身につけるしかほかなく、自分なりの文体をほとんどゼロから作り上げるための必要に迫られた身にとって、翻訳作業は不可避的で運命的な選択だったに違いありません。
文学的血肉
優れた読み手は必ずしも優れた書き手ではありません。
そこには大きな壁というか断絶がそびえ立ち横たわります。
所詮、書く行為は書く行為を通じてしか上達はしないのでしょう。
ゆえに、夥しい数の読書は書くことの魔法の杖には決してなりません。
翻訳という行為は不可思議です。
純粋に読む、純粋に書くということでもなさそうです。
翻訳とは「読み書きが融合した作業」なのでしょう。
いつも言うことだけど、翻訳というのは一語一語を手で拾い上げていく「究極の精読」なのだ。そういう地道で丁寧な作業が、そのように費やされた時間が、人に影響を及ばさずにいられるわけはない。

「究極の精読」は書くことの肥沃であり、果実であるか。
それらのテキストによって村上春樹は形作られることとなったのでしょう。
翻訳の午後
朝のうちはまず翻訳はしません。朝は大事な時間なので、集中して自分の仕事をして、翻訳は午後の楽しみにとっておきます。
書くこと(小説)を生業としながら、書くこと(翻訳)が息抜きのひとつになるとは、ユニークです。

つくづくユニークな作家です。
中古レコード店を巡ることを別にすれば、ほかのひとつふたつのことを別にすれば、世の中にこれほど楽しいことはないんですよ、ほんとに。

