Thinking-Puddle

現役人事部長の 雑記blog

西川美和、映画「永い言い訳」はなぜ「長いお別れ」というタイトルではないのか?

投稿日:2017-12-02 更新日:

 

花びらが散ってしまっても夫は涙をこぼさなかった⇒

西川美和監督の「永い言い訳」を観ました。

おすすめ度:

元々小説として書き上げた作品を映画に取り直したものです。

小説を読めば作品に対する理解が一層深まるのだろうなと思います。

が、今までそのような習慣を持たないことと、表現手段が異なれば全くの別物であるという認識が強いので、読まずに以下記します。

内容に言及しますので、あらかじめご了承ください。

永い言い訳とは、いつまでも関わり続けることを前提にした決意であり努力です。主人公は長いお別れではなく、向き合い続けることを選択しました。それがひとつの愛の形であることは言うまでもありません。


泣けない夫の物語

主人公である不倫中の小説家、幸夫(さちお)はバスの事故で美容師の妻夏子を突然失います。

夫婦仲はどうみても冷え込んでいる状態にあることが冒頭に象徴的に描かれています。

髪結いの亭主
売れない時代にヒモ同然であった幸夫はコンプレックスの塊です。髪結いの亭主(女房の働きで養われている男の例え)に設定しているところが遊び心満載です。

この監督は、はりめぐらせた伏線を回収するというケチな了見は常にはなから放棄しています。

そうではなく、物語が進むにつれ、あのシーンは、あのショットは「そういえばこのような解釈も成立するんだな」という意味をさり気なく刷り込み、素知らぬ顔を決め込みます。

意味の多産化という面では小津安二郎を彷彿させます。

反復
陽一が亡き妻の携帯の留守録の音声を何度も繰り返し聞く場面の反復的な見せ方は唸ります。老獪なピッチャーにより同じコースに投げられた球が二球目は微妙にシュート回転するような鮮やかさです。あなたも空振り三振に仕留められるに違いありません。

幸夫は泣けない自分に多少戸惑いながらも、世の中のニーズに自分を合わせ演じていこうとします。

が、時折自分の正直な気持ちに屈してしまいます。

このあたりのエキセントリックな演技は本木雅弘さんは本当に上手いです。

醜態と狂気
幸夫の醜態と狂気は度々描かれます。心の器から感情がすぐに溢れかえる小心者ぶりを実に繊細に本木雅弘氏は演じています。彼こそが幸夫です。

一方、妻夏子の女友達の夫である陽一は妻の死を受け入れられない日々に苦悶します。

トラックドライバーという職業につきながら二人の子供を育てる生活は今にも破綻しそうです。

子役の演出
幸夫と下の子(長女)との絡みの場面はドキュメンタリー風の演出も施され秀逸です。極めてナチュラルな日常が画面に焼き付けられています。

幸夫は彼らの生活を助けることで彼らとの距離を縮め、やがて距離を置き、もとの生活に戻っていきます。

海辺
陽一親子と遊びに来た海辺の光景は美しいの一言です。亡き妻の幻影を認めるシーンはどこまでも穏やかで、映画の至福が味わえることでしょう。

物語は「泣けない男」と「忘れられない男」を対照的に描き出す極めて定型的な表現をとります。

が、見終わったあと当然に一筋縄ではいかない感慨にあなたは覆われることでしょう。

人生は他者だ

疲労が重なり事故を起こしてしまう陽一を陽一の長男と迎えに行った幸夫は、関係に亀裂が生じていた彼らの和解を見届けたあと一人列車に乗り、帰路につきます。

人生の結露
幸夫と陽一の長男が地方の警察署に陽一を迎えに行くために乗車した列車における会話はこの映画の白眉です。とてもきれいな時間の流れる出色のシーンです。

その列車の中で創作ノートに無心に記されたコトバのうち象徴的な文句がクローズアップされるのです。

人生は他者だ

物語に即せばこの短い警句は三通りの意味を帯びていることが想像できるでしょう。

  1. 自分の人生は自分のものでないかのように頼りなげで生きる実感を掴み取ることがまるでできない。
  2. 自分の人生には他者、つまり死んだ者(妻夏子)がとんでもなく大きな存在であったのだ。
  3. 人生というものは一寸先は闇であり、何一つ見通すこともできす、思い通りにならないものだ。

妻の死を通じて、彼は「彼自身の真理」に触れることになります。

ランボー
「人生は他者だ」という文句は「私とは一人の他者である」というアルチュール・ランボーの言葉を直ちに想起させます。詩人の定義に即しますと、人生とは「私」一人のものではないということになります。

長いお別れではなく

陽一が最愛の妻を忘れられないのは誰もが容易に理解できます。

それが人間の自然の情であるからです。

けれども悲しみの潮もいつかは引きます。

「激情」はやがて「記憶」に置き換わっていくのでしょう。

そのために喪があります。

生き残っている者の側のために喪はあるのです。

「長いお別れ」のための準備は時間が用意してくれるのです。

女性学芸員の父子家庭への介入ぶりをみると、陽一にとって最愛の妻は「長いお別れ」の対象にいずれなるのであろうと観客は誰もが予感するはずです。

闖入者
陽一親子との親密な関係性の構築維持に亀裂を走らせる学芸員の女。いつまでもこのような面倒は続けられないという幸夫自身の言葉から陽一が気を使った配慮(学芸員の好意を求めてしまう)が結果として気に食わないことに端を発した食卓での悪態ぶりの緊張感は、なかなかにお目にかかれない画面の強度に溢れかえっています。幸夫の未熟さが爆発する見事な演出と演技。

永い言い訳でないと

永い言い訳とは本作のタイトルであると同時に、納得のいく作品が書けなくなった幸夫が物語の最後に発表する妻との20年を綴った自伝的小説の題名でもあります。

「長い」ではなく「永い」が、「お別れ」ではなく「言い訳」の文字が採用されていることに、あなたは無視を決め込んでは決してなりません。

20年間ずっと言い訳していたと解釈するのでれば「長い」で十分でしょう。

多言を要するのであれば「長い」に決まっているはずです。

「永い」とは時計で計れる長さを意味していません。

「永い」とは多くの言葉とは無関係でしょう。

「長い」は後ろに下がらざるを得ないのです。

一方、言い訳というのですから、それは誰かに向かって語り続けるということに他なりません。

もちろん今はもうこの世にいない妻に対してです。

言い訳は妻を愛しきれなかった自分の罪悪感から発せられたものです。

「永い」とある限りは一度切りではないのでしょう。

反復性が期せずして予感されます。

 

そうして妻に語り続けるという幸夫の意志だけは我々にも理解できます。

彼は語り続けることを選び取ったのです。

向き合い続けることを決意しました。

向き合い続けることが愛の別の名であることは今更言うまでもないでしょう。

愛し合うことが不可能な地点から彼は愛し直すという行為を始めようと試みます。

ラストシーンで遺品を丁寧に箱に収める幸夫が描かれています。

これを喪が無効化されたあとの行為と解釈してはならないでしょう。

そうではなく、彼女を「思い出=整理された記憶」にしないために目の前から消し去るのです。

不在(妻)であるものを顕在化するために、目に見える遺品(存在)を不在化します。

目に見えるものだけが真実ではないことを自覚した瞬間がそこに凝結しています。

言い訳という行為は自分のことを相手にわかってもらうために言葉を尽くすという努力に他なりません。

幸夫の行為を後の祭りと笑うことは簡単です。

が、幸夫は向き合うことを選びました。

もしかすると自分のことを自分で探すところから始めなければならないのかもしれません。

後片付け
冒頭のシーンで交わされた後片付けのやり取りが最後に活きてきます。亡霊のように観客の脳裏に浮かび上がってくるのです。対話の主体はあくまで幸夫であり続ける、そうでなければならないことが象徴的に語られていたのでしょう。

言うまでもなく、永い言い訳に終わりはないのでしょう。

言い訳をするときにだけ、幸夫は愛されていた自分に少しだけ近づくことができます。

愛されていた自分に近づくことができるとき、妻夏子は微笑んで佇んでいるはずです。

傑作です。

機会があればぜひご覧ください。

最新記事はこちら

  • この記事を書いた人
パドー1000

パドー1000

現役人事部長のパドー1000と申します。雑記blog「シンキング・パドー」を書いています。
カテゴリーは、人事・仕事・就活・受験・活字・映像・音楽・競馬・アート・ファッション・ライフ。
詳しいプロフィールへ

-映 像
-

Copyright© Thinking-Puddle , 2017 All Rights Reserved.