ハウス・オブ・カード 野望の階段
この年末年始、ご覧になられた方も多いと思います。
言うまでもなく傑作です
時間を忘れてしまうほどの出来栄え。
このシリーズは、映画監督のデビッド・フィンチャーらが総指揮のもと制作されているアメリカのTVドラマシリーズです。
アメリカ民主党の下院議員がホワイトハウス入りを目指す権力闘争のドラマとなります。
ダークヒーロー、アンチヒーロー
主人公はフランシス・アンダーウッドとクレア・アンダーウッド、アンダーウッド夫妻。
上昇志向の権化であり、私利私欲の塊です。
少なくとも、そのように描かれています。
しかしながら、
ダークヒーロー、アンチヒーローとして視聴者に受け入れられていることを割り引いても、そこに薫る「清々しさ」はなんなんだろうと感じていました。
それが、主人公の魅力であり、キャラクター造形の勝利と言われれば、その通り。
ここで話は終わります。
でも、違和感が残ります。
なぜ?
スーパー・チューズデー
たとえば、似たようなテーマが取り上げられている映画の一つに、「スーパー・チューズデー」があります。
ジョージ・クルーニーとライアン・ゴズリングががっぷり四つに組んだ傑作です。
ここに描かれているのは、副題にもあるように、正義です。
ゆえに、どろどろとした人間活劇を通して、人が持つ卑猥さ、愚かさ、醜さが縦横無尽に語られています。
もちろん、ハウス・オブ・カードにおいても、同様に人間の罪深き業があぶり出されています。
ただ、ハウスの場合は、プラスアルファがあります。
それ以上のものがスクリーンを覆っているのです。
それ以上のもの?
正義、大義、義
ハウス・オブ・カードの世界にも、正義はあふれています。
正義は、ジャーナリストに代表させることで、体現され、描かれています。
正義とは、個人が正しいと思うところのもです。
人の数ほど正義は存在します。
そして、ここには、大義も描かれています。
ホワイトハウスに出入りするものたちは、多かれ少なかれ大義のために働き、尽くします。
大義とは、個人を超えたものや集団や国家が守らなければならないものです。
従って、正義と同じく、いくつもの大義が同時に存在します。
それでは、アンダーウッド夫妻は、正義の人でしょうか。
否です。
では、大義の人でしょうか。
否です。
私利私欲の権化であり、権力の奴隷として描かれています。
彼らの前では正義も大義も無力化してしまいます。
少なくとも、そのように描かれているのです。
なぜでしょうか?
それは、彼らが「神」だからです。
義を体現するものだからです。
義とは、正義や大義を相対化するなにかです。
この世界において、義を体現するのは「神」にほかなりません。
男神と女神は常に勝利するのです。
神であるからこそ、人知を超えた清冽さが消えることは決してありません。
シリーズを通して、ギリシア神殿における神々の舞台を観覧しているような錯覚にわたしは陥ってしまいます。
神に魅了された羊の一匹として。