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哲学教授兼哲学者、野矢茂樹の「ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む」を読む

投稿日:2016-11-13 更新日:

 

哲学者か、哲学教授か?⇒

かつて、ショーペンハウエルは哲学者と哲学教授を峻別し前者のその高貴さと稀有さを賞賛した。

が、残念ながら現代においてもその区別は有効に機能しえている。
けれども、例外的存在はいつの時代にも必ずいるものだ。

″哲学教授なのに哲学者″である野矢茂樹という人物だ。

思えば、この人の師にあたる大森荘蔵もそうであった。

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「哲学探究」か「論理哲学論考」か?

「ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む」を読み返した。

二度目であるが、この書物の持つフレッシュさはいささかも落ちていない。

野矢茂樹氏は″あとがき″にも書いているように根っからの哲学青年ではなかったらしい。
哲学を志し、最初に読んだ本が「論理哲学論考」であった。
そして分からないながらもどうにも「かっこいい」と思ったという。

けれども、ここに書いていることは本当に正しいのだろうかという疑念が頭を離れなかったみたいだ。
その後、後期の「哲学探究」に魅了され自分の思索を続けることになる。

しかしながら、数年ほど前より内的な変化が生じ、「哲学探究」よりも「論理哲学論考」の虜になってしまう。
このようなプロセスを辿り、その過程を告白する″真摯さ″こそが、野矢氏を″哲学教授のくせに哲学者″たらしめているのだとあらためて強く思う。

本当に魅力的な人物だ。

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執筆の狙い

執筆のねらいを、″はじめに″において野矢氏は次のように述べている。

「論理哲学論考」を生きているまま立ち上がらせ、その肉声を響かせること。そうして、「論理哲学論考」をただ読んだのではなかなか聞こえてこないだろう声を響かせること。

そのために筆者はひとつひとつの論考に対し注釈を補足していくという丁寧なスタイルを採っている。

ゆえに、直接にウィトゲンシュタインと向き合うよりも、ウィトゲンシュタインその人を知ることができうるのだ。

本当によくわかりますよ。

沈黙を超えて

よく知られているように、「論理哲学論考」は有名な次のような結論で締め括られている。

― 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。―

 

野矢氏はこれに以下のような補足的解釈を施し、ペンを置く。

― 語りきれぬものは、語り続けねばならない。―

 

「論理哲学論考」に対するこれ程見事な理解(蘇生)をわたしは知らない。

哲学者は、やはり「かっこよく」なければならない。

哲学教授は、やはり「誠実」でなければならない。

なぜなら、人文学界における最後の「秘境」であるのだから。

 

水たまりの一滴
このような思考する機械に学ぶことのできる学生さんは本当に幸せものだ。

 

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