「ミリオンダラー・ベイビー」もう一度あなたと一緒にレモンパイを食べたかった

投稿日:2017-09-10 更新日:

 

クリント・イーストウッドが問う「命と等価であるもの」とは⇒

今から十数年前に上映され物議を醸したアカデミー賞受賞作である「ミリオンダラー・ベイビー」を見ました。

おんぼろボクシングジムを経営しているトレーナーのフランキー・ダン(クリント・イーストウッド)と32歳の遅咲き女ボクサー、マギー・フィッツジェラルド(ヒラリー・スワンク)が主人公です。

脇を固めるフランキーの旧友でジムの住み込みエディ・デュプリス(モーガン・フリーマン)の存在感は圧倒的。

この三人を軸に物語は進みます。

以下にもっともらしく書き進めていきますが、正直言って、何を書いても書き損なってしまう懸念が去らない作品です。

クリント・イーストウッドらしく、極めて親しみやすい物語の形式を借用しながら、彼が描こうとしていることはまったくもって難解です。

あなたは次のような「見覚えのあるテーマ」をスクリーン上に目にするでしょう。

  • 家族の問題
  • 貧困
  • 宗教
  • 尊厳死
  • アメリカン・ドリーム

おそらく、これらの問題のうちの1つもしくは2つだけを訴えかけたいのであれば、上映時間は120分間を切り、見終わったあとに収まりのいい感慨があなたを訪れたはずです。

133分間を要して「巨匠」がスクリーンに映し出したかったことは何か?

私の出した答えは次のとおりです。

愛する者とのかけがえのない魂の触れ合いは自らの命と等価である

以下、内容に言及しますのであらかじめご了承ください。

 

家という十字架

フランキーのことを娘はどうあっても許すことがなく、彼が娘にあてた手紙は送り先からの返送を繰り返すばかりです。

帰宅し、玄関のドアを開けると投函した手紙が封も切られずに床に落ちているのを彼は何度も何度も目にします。

フランキーにとって戻るべき自宅は己の過去の過ちを鼻先に突きつけられる場所でしかありません。

一方、貧しいマギーは賞金を稼げるようになると貯金をし、母親のために家をプレゼントします。

が、家を持つことで生活保護や健康保険が優遇されないことを理由に心無い母親は勝手なことをするなとなじり、挙句の果てにカネのほうが良かったと毒づく始末です。

マギーにとっても「家」は家庭の団欒とは程遠い、厄介な代物という以上の意味を持ちえません。

彼らが帰るべき必然性を持つ「場所」を失った存在であることが示唆されています。

このことは、物語の終盤に露呈するこの世に居場所がないことを容易に想像させます。

自死という選択

100万ドルの試合であるタイトル戦においてマギーは不幸にも全身不随となります。

彼女はボスであるフランキーに安楽死への幇助を要求します。

彼は苦悩し、教会の神父に事情を吐露せざるを得ません。

神父は言います。

神は忘れろ

天国と地獄も忘れろ

手を貸せば、君は自分を見失う

深い淵に落ち

永遠に自分を失う

神父は罪の意識に押しつぶされることを言っていると同時に別の「大事なこと」を語っています。

それは自殺の禁止です。

フランキーが自らの手で彼女をあの世に送り出すのならば、必ず自らの命を断つであろうことがわかっているかのようです。

フランキーは苦悩の果てに彼女の望みを叶えることを選択します。

自分で呼吸ができない彼女の酸素吸引器のパイプを取り外し、「苦しみが戻らない」ように、用意したアドレナリンを大量投与します。

あなたが思い出さなければならないのは、彼が自宅で鞄にアドレナリンの瓶と注射器を二本忍ばせた事実です。

神父が見通したとおりの結末をフランキーが静かに受け入れるであろうことがここで示唆されています。

「生きること」と「生き方を全うすること」は違います。

違うからと言って、軽々に安楽死や尊厳死が肯定されるはずもありません。

命の火を消すとは自らの命をもって消す覚悟が必要であると、そう語っているのかもしれません。

モ・クシュラ

ゲール語で「愛する人よ、お前は私の血」を意味するモ・クシュラという語をガウンに縫込み、マギーは戦ってきました。

その意味をフランキーは教えることなく、最後の最後にようやく彼女に告げます。

私の血とあるように、愛弟子は娘のような存在であったことでしょう。

と同時にマギーの中に実子を見ていたはずです。

これはもちろんマギーにとっても同様です。

フランキーに父親を重ねていました。

母親との不愉快なやり取りの後、実家からの帰り道、彼女は父親とよく通った「アイラのロードサイド食堂」に立ち寄ろうと提案します。

そこは本物のレモンを使用した絶品のレモンパイを供してくれるお気に入りの、思い出の店です。

フランキーはレモンパイを口にし、「このまま死んでもいい」と絶賛します。

イーストウッドの映画は脚本がよく練られており、一度口にされたセリフが余韻を保持したまま別の場面で突然に顔を出します。

うまいとしか言いようがありません。

フランキーは幇助した後に行方をくらまします。

映画のラストシーンは「アイラの店」のすりガラス越しの人影になります。

わたしには、これからこの世を後にするフランキーが幸福な表情をしながらレモンパイを口にしている場面に見えるのです。

命と等価であるもの

父と娘がレモンパイを食べた親密な時間は、父にとっても娘にとってもかけがえのない時間であったはずです。

マギーにとってもう二度と戻らない時間と、フランキーにとって決して実現しなかった時間が重なり合います。

愛する者とのかけがえのない魂の触れ合いだけが人生において唯一意味を持った時間であるならば、もうどうあってもそこにたどり着くことができないのであれば、「生」は灰色と化します。

レモンパイを「私の血」と一緒に口にする機会は永遠に失われたのです。

自らの命を紡ぐ理由は彼のもとから静かに立ち去ります。

レモンパイの店が彼らにとっての家(ホーム)であったことは今更言うまでもないでしょう。

娘への最後の手紙

フランキーの娘へ旧友のエディは手紙を書きます。

父親フランキーのことを。

おそらく、フランキーがもうこの世にいないと思うからそうしたのでしょう。

もう許してやれよという意味を込めて。

手紙を彼女が読むのかどうかは誰にもわかりません。

わかりませんが、なぜか読んでくれるような気がします。

なぜなら、彼女はフランキーの娘だから、というのは理由にはならないでしょうか。

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